コハリトりみっと
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「トライフル刑事」〜狂気のロンド ガーナ署トリニティ〜/タトパラ2
第20話:「この世の終わり」
ギャランはタバコに火をつけてはすぐに灰皿に押し付けてもみ消した。少し天井を見上げては、首を捻って周子の消えた先を見、金髪を掻いた。そしてまたタバコに火をつけ……吸うでもなくすぐにもみ消す。それを繰り返すこと数度、イライラと落ち着かず座卓に肘をつけ、額をつけ……。
「遅ぇ……」
ぐりぐりと額を座卓に押し付けて、うめいた。
脱衣所の方へゆけば、そのドアにカギこそ掛かっているものの、確かにその向こうから水音はする。
「周子ちゃん」
「は、はい」
名を呼べば周子の細い声が返ってくる。きゅっ、と蛇口を捻る音がしてシャワーの水音は止んだ。
ギャランはそのまま脱衣所のドアの前でしばらく待ったが、周子はなかなか出てこない。
「周子ちゃん」
「は、はい」
「出て来いよ?」
ドアの向こうで逡巡する気配。ドア一枚隔てた向こうに周子はいる、ぱさり、とバスタオルを広げるような微かな音と、濡れた髪を拭うような音、周子の確かな気配をドアの向こうにギャランは掴んで。
ギャランは無駄にうろうろとドアの前を回った。
そのうち、そのぅ、と周子が消え入りそうな声を出した。
「やっぱり恥ずかしいです……」
ひぃん、とすすり泣くような泣き声がドアの向こうで聞こえて。
ギャランは致命的なミスを犯した気がした。
「だー!ナニヤッテルー!」
「わーっ、だってー!ごめんなさい見逃して!」
「バカいえー!」
カギの掛かったドアをバンとひとあたりして破ってみれば、周子がバスタオル一枚身体に巻いた姿で震えて突っ立っている。恥ずかしいんですやっぱ無理ですー!と叫んで周子は身を翻すと大きく開いたバスルームの窓枠に足を掛けた。
「おまえソンナ格好で外に出る気かー!」
ギャランは大慌てで窓に駆け寄るものの、すんでのところで周子は身を乗り出し、その向こうに飛び降りた。
「分かった!何もしない!何もしないからとにかく戻れ!公然わいせつで現行犯逮捕だぞ!現職の刑事がそんなんでつかまりゃオオゴトだ!どえらい責任問題……ってか責任はおれが取る!お前を幸せにする!だから結婚するぞ!結婚しろ!結婚だ!タノムケッコンシテクレー!」
もはや制止なのかプロポーズなのか分からない言葉を叫んでギャランは周子に続いて窓枠を蹴った。
「きゃーっ!だめーっ!こないで下さいー」
「だってお前おれのこと好きだって」
「そそそそれはそうなんですけど」
周子のその言葉にギャランは、追いかけようとした足をぴたりと止めた。
「それはそう……たはー!来る!」
ギャランは照れたように金髪をわしわしと掻いた。
「いや、おれはそうだ、ゆっくりでもいい、とにかく周子ちゃんがおれのこと好きだって、おれはそれだけで……ああっ、いねぇし!ちっくしょ!」
ギャランは慌てて周子の後ろを追った。
バスルームの窓が面しているのは丁度家の裏手で、細い路地に面している。その道路と裏庭との間にはブロック塀があるものの、もちろん、バスタオル一枚巻いただけの状態で外に出るには到底無理がある。
「だからそんなカッコで出るなって!」
そう叫ぶギャランの追っ手から逃れるように、地に降り立った周子はそのまま家の裏手から路地へと飛び出し、
「ふわあ!」
不意に酔っ払った猫のような奇妙な悲鳴を短く上げた。
全く思いも寄らない人物が路上で目をまん丸にしてこっちを見つめていたのだ。
「ばかっ、なんて格好してるんだ!」
凛とした声で一度鋭く打たれたと思うと、次の瞬間には彼の膝の上に載せていた膝かけがばさっと勢い良く飛んできて。車椅子のタイヤがきゅっ、と鋭い音を立てて止まったかと思うとすぐ下から手が伸びて、ひざ掛けで肩を包まれて、強く引き寄せられる。
「とにかく着ろ!刑法に抵触するぞ!」
「は?はい?」
着ている白シャツをざばりと脱ぐとそれを素早く周子の肩に掛けて寄越す。ひざ掛けで身体を押さえる周子は身じろぎひとつ出来ぬまま、あっと言う間にシャツのすべてのボタンが几帳面にキッチリと留め上げられた。
「ずいぶんとサイズが違うものだな」
周子の身体を太もものあたりまですっぽり覆い隠すことのできる自分のシャツの大きさにどこか満足したように呟いて。
ぴったりとしたタンクトップひとつになったカズマの、その腕や胸板にはしっかりした筋肉がついているのが意外で、そういえばこの腕で首を締められたんだった、と周子ははっとした。肌に緊張が走る。
「な、なんですか、カズマ特別補佐官?なんでこんなトコに」
クールな眼差しにも穏やかな微笑にも騙されてはいけない、一癖も二癖もある男なのだと周子は唇を軽く噛んだ。なぜこんな物騒な男とこんなところで出くわすのか、皆目見当がつかない。
「のっぴきならない緊急の用があってこちらへ内々に出向いてきたんだが」
と言って、カズマは周子の家のすぐ前に停めた車を指差した。嫌味のない華やかなクリームイエローのポルシェが目に入った。ご丁寧にも福祉車輌のステッカーが貼ってある。
「やけに目立ちますが」
カズマは自分で運転してきたらしい。それにしてもなんだか高そうな車、何処が内々なの?と周子は思った。
「ガレージを見たらこれしかなかった。地味なセダンは運転手が出張で乗って行ってしまっているし、もう一台はあいにく車検に出していたんだった。いや、とにかく慌てて来たんだ、私だって用があれば車くらい運転する、ヘンなカオをするな」
「運転手さんって出張するものなんですか?っていうか、補佐官は運転手さんつきなんですか?年金生活者のクセに?」
「足が不自由だと外出が面倒だからな。年金生活者のクセにとはなんだ?」
「いえ、年金……年金は辞退っていうか、もらわないというかもらえないのでは?と思って。本は売れてますし、なんかそんな高そうな車乗ってるのを見ると公金詐欺に思えてなりません、年金の支給って、収入の上限てのがあるんじゃなかったでしたっけ?」
周子の素朴な言葉にカズマはふん、と鼻を鳴らした。
「全く失礼だな。制度的に該当するように調整しているのだから、それを得て何が悪い」
そう言ってカズマは、なんだか奇妙な会話だな、と呟いた。
いや、奇妙なのはその調整とやらのあたりの補佐官の言葉そのものだろう、と周子は内心思いもして。
「あし……」
周子は思わずそう呟いて車椅子のカズマの膝に目を落とす。
「足の不自由な私が車を運転するのが珍しいかね?」
周子は慌てて首を横に振った。福祉車輌であれば当然、手元で走行操作ができるようにオーダーすることもありえる、そうは思うものの……。
「足って!だって補佐官、歩……」
「そう、その件で飛んできたんだ」
周子の言葉を遮って、カズマは滅多なことを口にするな、と厳しく言いつけ、周子は不満そうに低く唸った。
「補佐官、路上にいるのが珍しいです。セーブルームとかってあの変な部屋で引きこもっているとばかり思っていたのに」
「またきみは……」
減らず口だな、とカズマは苦笑した。
「それにしてもきみはいったい何をやっているんだ?玄関アプローチにはご丁寧にも私を阻む段差があるし。物音がするからこちら裏手へ回ってみたのだが、ずいぶんちゃちで無様なサプライズで歓迎だな、下品な冗談」
「補佐官こそその口、容赦ないです」
ひどいです、と周子はばばばーっと赤面して。
ちょうどその時、ギャラン刑事が茂みから飛び出してきて。上半身は裸、ベルトのバックルは外れている、どう見てもちょっと問題アリな格好だった。そしてギャランは路上の、目の前の予想外の光景にぎょっとした声を上げた。
「しゅっ……周子ちゃん、って……か、カズマ!?」
ギャラン刑事は、お前何してんだこんなところで、と言うなりその場にぴたりと硬直した。
「それはこちらが問い正したいところだ、コトがコトなら懲戒免職だぞギャラン刑事」
カズマは毅然と鋭くそう言うと素早く周囲を見回し、隠れろ、と手で合図を送った、と同時に、がさり、とギャランが茂みに飛び込んだ。
「だいじょうぶかい……周子ちゃんこれは一体……」
駆け寄ってきたのは向かいのおばちゃんである。夕食後の洗い物でもしていたところだったのか、濡れた手をエプロンで拭きながら、サンダルを突っかけておろおろと駆け寄ってきた。裸足のままでシャツ一枚羽織ったその姿に目を丸くし、心配そうに周子のカオを覗き込み声をかけてくる。
「周子ちゃん、一体全体何が……」
「大丈夫です。ご心配要りません」
おばちゃんの言葉を遮り、カズマはキリッとした表情でおばちゃんを見上げ、確信に満ちた素振りでひとつ大きくうなずいた。それは非常に落ち着いた、貫禄溢れる印象だった。
一瞬呆気に取られたおばちゃんのその隙を突いて、カズマは素早く警察の徽章を見せ、名乗ると、周子さんの同僚です、と極めて真面目な声色で答えた。
「お騒がせして申し訳ございません、職業柄、スクランブルがかかることがありましてね……」
カズマはたちまちのうちに各家から集まってきた近所のおばちゃん方をぐるりと見回すと、聡明そうな、さわやかな笑顔を浮かべてみせた。
「あいにく新人の周子刑事はまだ慣れていないようで。今日は彼女は非番ですし、のんびりシャワーでも浴びていたところへスクランブル、思わず勢い余って裏から飛び出したのでしょう。私はちょうどこちら方面を移動中でして。そこへ召集がかかったものですから現場に急行する途中でついでに彼女を拾ったほうが早かろうとこちらへ立ち寄ったのですが」
一度言葉を切って苦笑する。
「まさかここまで勢いよく飛び出してくるとは。ははは」
絶妙な間合いだった。
おばちゃん方は一度ぱちくりと目をしばたたせ、それから、ああ、と納得したように、ほっとしたように各々うなずいた。
「周子刑事は元気がよろしくてよいですね、署内でも人気者ですよ」
カズマは、まるで自分が周子にとっての上司たる立場であることを匂わせるような態度で周子に対する好評価を述べた。
周子の言動をニ、三、誉めてやると、おばちゃん方はたちまちパッと表情を輝かせて互いに顔を見合わせ、周子ちゃんは昔から元気が良くてねぇ!と笑った。
「刑事さんってのは適職だと、みんなで話していたんですよ」
「ええ、実によく働いてくれていますよ。アカデミーでも主席、この春のイチオシ、鳴り物入りでのガーナ署配属ですからね」
―――えっ?そうなの?
周子がいぶかしげに眉を寄せるその横で、さらにカズマは周子のことを新人の割に非常に良くやっている、と誉めた。上司が周子を高く評価している、といったカズマのこの雰囲気、おばちゃん方の緊張はこれですっかり解けてしまったらしい。
―――まさに立て板に水……。
非番なんじゃなくて寝こけてサボっちゃったんだし、スクランブルなんてかかってないし、と、ひとり内心ぶつぶつとツッコみつつ、周子は、カズマの場のコントロールの技術と、有無を言わせぬ論法の巧みさを前になす術もなく立ち尽くして。カズマは当り障りのない会話、つまりは世間話のようなものをいくつか交わすと、いささかの揺るぎもない口調でもう一度、
「心配ありませんから」
と、にっこりとうなずいた。
言外に立ち去れ、というニュアンスが含まれているのはさすがにおばちゃんたちも気付いたようで。
「あ、ああそうかい?それならいいんだけどね?」
「お仕事の邪魔になっちゃいけないね?」
と、みな各々頭を下げて立ち去ろうとする。
「あっ、あのっ!」
呼び止めてどうしようというのか、でもなんだかこの隣にいるカズマが怖くて周子は思わずおばちゃんたちを呼び止めた。周子が思わず裾を掴んだエプロンの主は、だったん蕎麦茶をくれた、近所では一番親しく面倒を見てもらっている向かいのおばちゃんで。
―――おばちゃん、おばちゃん家に行っていい?
そう口から出てしまいそうで。カズマが周子だけに分かる鋭い眼差しで睨んだのを察して周子は身を竦ませる。
「あ、あのう、ええと……」
周子は、ふいに自分の手にカズマの手がすっと柔らかく重なったのを知る。
「そうだね、わざわざ心配なさって見にきてくだすったんだ、お礼を言わなきゃいけないね、周子?」
「周子?」
不意に妙な色をこめた感じで名を呼ばれて、思わずぎょっとして振り返ったのは何も周子ばかりではない。一度立ち去りかけたおばちゃんたちもまた踵を返してやってきた。
おばちゃんたちの目の色が興味津々といった感じで輝き出している。
「周子ちゃんは修三さんからくれぐれもと頼まれているからね?……って、ねぇねぇ周子ちゃん、周子ってな呼び捨てだなんて、ひょっとしてひょっとすると彼氏さんかい?あらまあいつの間に!おばちゃんたちにちゃんと報告しなきゃダメじゃないのォ!こりゃまたえらくいい男だね、やるじゃないか周子ちゃん」
「は?あの……」
目の前のカズマは間違いなく余所行きの表情をした、実に好青年である。さわやかな微笑を周囲に振りまいている。
―――たしかに、これならさぞいい男に見えるだろうが。
なにしろ、こうさわやかに見えてその実、ギャラン刑事好きのホモ野郎、おまけに秘密を知った人間は始末するという、人殺しもいとわぬ冷血漢である、周子は慌てて首を横に振った。
「おばちゃん、誤解しないで下さいよ、この人は職場の同僚で……ん?同僚、で合ってます……?カズマ特別補佐官」
周子はカズマが警察の徽章を持っているとはつゆ知らなかった。もちろんそれはリタイヤ刑事が持っているはずのないものである。
徽章を持っているならば同僚だが、いや、公的にはリタイヤ刑事、捜査協力者ではあっても同僚であるはずがないのだが。
周子の困惑を察して、カズマはにっこりと微笑んだ。それは大層品の良い、穏やかで優雅な微笑で、おばちゃん方はその完璧な微笑を前に、まあ、と一言、魂を奪われたかのような感嘆の声を上げた。
そもそも物騒な男だとは思っていたが、カズマがおばちゃん方をもあるイミ殺すことができるとは、マダムキラーなそんなこともさらりとやってしまうとは、さすがに周子も予想だにしていなかった。
「ええ、彼女とは職場で知り合いましてね?」
「そうそう!」
「知り合ってまだ日は浅いのですが」
「そうそう!」
「ですが不思議なくらいに気が合いましてね?」
「そうそ……えっ?」
―――絶対この男とは気が合わない自信がある。
ぱっと表情を輝かせて適当に口車をあわせようとした周子の腕を軽く引き寄せて、カズマは周子が飛び上がるようなことをさっぱりとにこやかに周囲に告げた。
「このたび、晴れて入籍を果たしまして」
―――うぇぇぇぇぇっ!?
「順番は、ええその、ちょっとアレなのですが」
カズマはそこでちょっと思わせぶりに目を伏せて言葉を濁して。
―――えっ?ええっ?ナニ?
周子が飛び上がったり動揺したりきょとんしたりする横で、途端に何かを飲み込めたように、あ、ああそうなのかい、そりゃおめでとう、とおばちゃんたちは訳知り顔でうなずいた。
あまつさえ、自分の出っ張ったおなかのあたりをさするおばちゃんもいる。
―――って、ええっ?めでたいアレデスカー!ソレって!
「そりゃとにかく早く籍だけでも入れといた方がいいさ、ね?周子ちゃん、おめでとう」
「誤解です、ごかい……」
「イマドキの子はあっけらかんとしていていいねぇ!」
「いや、あの……」
おばちゃんにすがろうとする周子の手を、カズマはきゅっと握って。
―――イタ、痛いですって!手!
「周子がお世話になっておきながら、ご挨拶が遅れまして大変失礼しました」
「…………」
カズマは嬉しそうに一度周子を見上げて。
周子にだけ見せる、その奥に光る輝きのなんと物騒なことか。周子はさあ、と血の気が引くのを感じた。
「周子がこんなにもご近所のみなさまにお気を遣っていただいてるとは思わなかったな、これも周子の可愛い人柄かな?はは、なんともありがたいことですね、まあ、出来ちゃった婚だなんて、恥ずかしいというか、そうあからさまに申し上げるべきことでもないですから、内々にしていたのですがね?」
カズマはそう言って苦笑して、心苦しいのですがなにぶん急なことで、と続けると、キッチリ深々と一礼し、そうして頭を上げると、後日改めてご挨拶に伺いたいと思います、と再びにっこりと微笑んだ。
まあ!まあ!まあ!とおばちゃん方はたちまち破顔して。
「それにしてもカッコよくてしっかりした、実に頭の良さそうな好青年だね、さすが周子ちゃんは男を見る眼があるよ!やあ、おばちゃんは安心したよ!こりゃいいだんなさんを見つけたこと、幸せにねぇ!修三さんもこれでようやく安心だね、ようやっとあの世でゆっくりできるってもんだろうね」
周子はぶんぶんと首を横に振った。
「と、父さん、死んでませんから!っていうか、たとえ死んでいようと、父さんは絶対こんなの赦さないと思います、呪い殺されます!ええきっとそうに違いありません、呪殺ッ……!ッ!」
「まったく周子は照れ屋だな」
―――お、折れます、って!手が!砕けますって!
周子は涙目になってカズマを見た。ぞっとするほど冷たい眼差しにぶつかって。
―――無理!絶対無理、たとえその場限りのごまかしでも冗談でも無理!この人は怖い。
「あつあつさんだねぇ見つめ合っちゃって」
「うちの娘婿にも欲しいくらいだよ!」
「いやあ、いっそうちの旦那と取り替えたいねぇ、ははは」
そんなこんなでみなさんすっかり上機嫌になり。おばちゃん方はニコニコとして各々の自宅へ再び戻っていった。
周囲に人がいなくなったのを確認すると、カズマはそれこそ手のひらを返すように、ぱっ、と周子の手を離した。
「カズマ特別補佐官、ちょっと嘘をつくにも程があります、ににににに妊娠ですって?」
思いっきり誤解されてしまいましたよ、と周子は自分の手をさすりさすり、途方に暮れた表情でカズマを見下ろして。
「私は嫁入り前ですよ?嫁入り前の娘に妊娠とはさすがにひどいんじゃないんですか?あんまりです」
「公然わいせつでつかまるのと、妊娠しているのとどっちがマシだと言うんだ、考えなくても分かるだろう、人がせっかく気を遣ってやっているのに、水を差すな」
「いや、むしろつかまりたいくらいです」
周子のキッパリした返答にカズマは苦笑した。
「ずいぶん嫌われているな、どうせただの方便なんだから、気にしなくたっていいだろうに」
「でもだって妊娠はあんまりです」
「ま、妊娠は確かに嘘だがね?」
細かいことは言うな、と、カズマは手にしていた角封筒を周子に押し付け、にっこりと微笑んで。
先程までとは打って変わったその微笑、微笑んではいるがその眼差しはものすごく厳しくて。その圧倒的な威圧感に周子はぎょっとして一歩後退さった。
「ギャラン刑事」
と、カズマは一言低く鋭く声を発した。
「どういうことか説明してもらおうか」
先程飛び込んだ裏庭の茂みから、ごそり、と音を立ててギャランがバツの悪そうな顔をして現れた。葉っぱと蜘蛛の巣を頭にかぶっているその姿は、まるでしつけの行き届いていない脱走犬のようで。
さっきのカズマ特別補佐官とおばちゃん達との会話、どのあたりまで聞こえていたろう、入籍だとか妊娠だとか、よりによってギャラン刑事に誤解されるのは絶対やだな、と周子は思った。周子はすぐにでもカズマの側を離れてギャランの下に駆け寄りたかったが、カズマとギャランとの間にピンと張り詰めた恐ろしいまでの雰囲気、説明どころか詰問を通り越してほとんど裁判めいたその場の雰囲気にぴくりとも動けなかった。
カズマの声は厳しい。
「現職の刑事が婦女暴行か」
「あ、いや、違……」
大いに動揺して言葉を探すギャランに、カズマは容赦なく厳しい言葉で以って畳み掛ける。
「お前は刑事だぞ、ギャラン、公僕としての立場をわきまえろ、国家警察の不祥事を増やす気か!マスコミに知られでもしたら大事だぞ!女好きもたいがいにしろ!」
「いや、だから、違……」
ギャランはふるふると金髪を振って否定するのだが。カズマは容赦ない言葉でギャランの婦女暴行の現行犯ぶりをなじった。
「補佐官のツッコミはそっちですか」
全く、どこまでもギャラン刑事をいじるのが好きな男なのだ、そう改めて知ると周子は一人深いため息を吐いて、勝手にやってくださいこのホモ野郎、と言い捨ててその場を後にした。玄関の方に向かって数歩歩いて……。歩きながらごそごそとカズマに渡された角封筒の中から書類らしきものを取り出した。と、傍目でもはっきりと分かるくらいに思い切り飛び上がって。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
周子は慌てて引き返すと、強くカズマの肩を掴んだ。そして自分の方を振り向かせると、ごっそりと機嫌を悪くしている厳しい紫の目をまっすぐに覗き込んだ。
「説明してもらいたいのはこっちです!ここここ、これ!この封筒の中身!戸籍謄本じゃないですか!しかも、しかもですよ、周子・フォン・グランツってなんですか!」
「籍を入れた」
「何だと!?」
「なんですって!」
ギャランと周子が同時に驚きの声を上げた。
周子の手からものすごい勢いで戸籍謄本を取り上げるとギャランはそれに目を通して。数秒後、ぱさり、とその手から取り落とした。
「な、なななんで?なんでそうなるんですか!?」
「なんで、って、きみがサインをしたからじゃないか?」
詰め寄る周子にカズマは涼しい表情でさらりとそう答えて。周子は飛び上がった。
「さ、さささ、さいん?だってそれって……!」
カズマは周子の言葉を目線でねじ伏せて。周子ははっとして口をつぐんだ。
カズマは、ギャランが茫然自失といった感じで異世界へスルーしてしまっているのを確認すると、周子の手を強く引いてその耳元に口を寄せた。
「バレたんだよ」
ひそっと囁かれて。
周子はこの世の終わりを見た気がした。
(第21話へつづく)
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第20話:「この世の終わり」
ギャランはタバコに火をつけてはすぐに灰皿に押し付けてもみ消した。少し天井を見上げては、首を捻って周子の消えた先を見、金髪を掻いた。そしてまたタバコに火をつけ……吸うでもなくすぐにもみ消す。それを繰り返すこと数度、イライラと落ち着かず座卓に肘をつけ、額をつけ……。
「遅ぇ……」
ぐりぐりと額を座卓に押し付けて、うめいた。
脱衣所の方へゆけば、そのドアにカギこそ掛かっているものの、確かにその向こうから水音はする。
「周子ちゃん」
「は、はい」
名を呼べば周子の細い声が返ってくる。きゅっ、と蛇口を捻る音がしてシャワーの水音は止んだ。
ギャランはそのまま脱衣所のドアの前でしばらく待ったが、周子はなかなか出てこない。
「周子ちゃん」
「は、はい」
「出て来いよ?」
ドアの向こうで逡巡する気配。ドア一枚隔てた向こうに周子はいる、ぱさり、とバスタオルを広げるような微かな音と、濡れた髪を拭うような音、周子の確かな気配をドアの向こうにギャランは掴んで。
ギャランは無駄にうろうろとドアの前を回った。
そのうち、そのぅ、と周子が消え入りそうな声を出した。
「やっぱり恥ずかしいです……」
ひぃん、とすすり泣くような泣き声がドアの向こうで聞こえて。
ギャランは致命的なミスを犯した気がした。
「だー!ナニヤッテルー!」
「わーっ、だってー!ごめんなさい見逃して!」
「バカいえー!」
カギの掛かったドアをバンとひとあたりして破ってみれば、周子がバスタオル一枚身体に巻いた姿で震えて突っ立っている。恥ずかしいんですやっぱ無理ですー!と叫んで周子は身を翻すと大きく開いたバスルームの窓枠に足を掛けた。
「おまえソンナ格好で外に出る気かー!」
ギャランは大慌てで窓に駆け寄るものの、すんでのところで周子は身を乗り出し、その向こうに飛び降りた。
「分かった!何もしない!何もしないからとにかく戻れ!公然わいせつで現行犯逮捕だぞ!現職の刑事がそんなんでつかまりゃオオゴトだ!どえらい責任問題……ってか責任はおれが取る!お前を幸せにする!だから結婚するぞ!結婚しろ!結婚だ!タノムケッコンシテクレー!」
もはや制止なのかプロポーズなのか分からない言葉を叫んでギャランは周子に続いて窓枠を蹴った。
「きゃーっ!だめーっ!こないで下さいー」
「だってお前おれのこと好きだって」
「そそそそれはそうなんですけど」
周子のその言葉にギャランは、追いかけようとした足をぴたりと止めた。
「それはそう……たはー!来る!」
ギャランは照れたように金髪をわしわしと掻いた。
「いや、おれはそうだ、ゆっくりでもいい、とにかく周子ちゃんがおれのこと好きだって、おれはそれだけで……ああっ、いねぇし!ちっくしょ!」
ギャランは慌てて周子の後ろを追った。
バスルームの窓が面しているのは丁度家の裏手で、細い路地に面している。その道路と裏庭との間にはブロック塀があるものの、もちろん、バスタオル一枚巻いただけの状態で外に出るには到底無理がある。
「だからそんなカッコで出るなって!」
そう叫ぶギャランの追っ手から逃れるように、地に降り立った周子はそのまま家の裏手から路地へと飛び出し、
「ふわあ!」
不意に酔っ払った猫のような奇妙な悲鳴を短く上げた。
全く思いも寄らない人物が路上で目をまん丸にしてこっちを見つめていたのだ。
「ばかっ、なんて格好してるんだ!」
凛とした声で一度鋭く打たれたと思うと、次の瞬間には彼の膝の上に載せていた膝かけがばさっと勢い良く飛んできて。車椅子のタイヤがきゅっ、と鋭い音を立てて止まったかと思うとすぐ下から手が伸びて、ひざ掛けで肩を包まれて、強く引き寄せられる。
「とにかく着ろ!刑法に抵触するぞ!」
「は?はい?」
着ている白シャツをざばりと脱ぐとそれを素早く周子の肩に掛けて寄越す。ひざ掛けで身体を押さえる周子は身じろぎひとつ出来ぬまま、あっと言う間にシャツのすべてのボタンが几帳面にキッチリと留め上げられた。
「ずいぶんとサイズが違うものだな」
周子の身体を太もものあたりまですっぽり覆い隠すことのできる自分のシャツの大きさにどこか満足したように呟いて。
ぴったりとしたタンクトップひとつになったカズマの、その腕や胸板にはしっかりした筋肉がついているのが意外で、そういえばこの腕で首を締められたんだった、と周子ははっとした。肌に緊張が走る。
「な、なんですか、カズマ特別補佐官?なんでこんなトコに」
クールな眼差しにも穏やかな微笑にも騙されてはいけない、一癖も二癖もある男なのだと周子は唇を軽く噛んだ。なぜこんな物騒な男とこんなところで出くわすのか、皆目見当がつかない。
「のっぴきならない緊急の用があってこちらへ内々に出向いてきたんだが」
と言って、カズマは周子の家のすぐ前に停めた車を指差した。嫌味のない華やかなクリームイエローのポルシェが目に入った。ご丁寧にも福祉車輌のステッカーが貼ってある。
「やけに目立ちますが」
カズマは自分で運転してきたらしい。それにしてもなんだか高そうな車、何処が内々なの?と周子は思った。
「ガレージを見たらこれしかなかった。地味なセダンは運転手が出張で乗って行ってしまっているし、もう一台はあいにく車検に出していたんだった。いや、とにかく慌てて来たんだ、私だって用があれば車くらい運転する、ヘンなカオをするな」
「運転手さんって出張するものなんですか?っていうか、補佐官は運転手さんつきなんですか?年金生活者のクセに?」
「足が不自由だと外出が面倒だからな。年金生活者のクセにとはなんだ?」
「いえ、年金……年金は辞退っていうか、もらわないというかもらえないのでは?と思って。本は売れてますし、なんかそんな高そうな車乗ってるのを見ると公金詐欺に思えてなりません、年金の支給って、収入の上限てのがあるんじゃなかったでしたっけ?」
周子の素朴な言葉にカズマはふん、と鼻を鳴らした。
「全く失礼だな。制度的に該当するように調整しているのだから、それを得て何が悪い」
そう言ってカズマは、なんだか奇妙な会話だな、と呟いた。
いや、奇妙なのはその調整とやらのあたりの補佐官の言葉そのものだろう、と周子は内心思いもして。
「あし……」
周子は思わずそう呟いて車椅子のカズマの膝に目を落とす。
「足の不自由な私が車を運転するのが珍しいかね?」
周子は慌てて首を横に振った。福祉車輌であれば当然、手元で走行操作ができるようにオーダーすることもありえる、そうは思うものの……。
「足って!だって補佐官、歩……」
「そう、その件で飛んできたんだ」
周子の言葉を遮って、カズマは滅多なことを口にするな、と厳しく言いつけ、周子は不満そうに低く唸った。
「補佐官、路上にいるのが珍しいです。セーブルームとかってあの変な部屋で引きこもっているとばかり思っていたのに」
「またきみは……」
減らず口だな、とカズマは苦笑した。
「それにしてもきみはいったい何をやっているんだ?玄関アプローチにはご丁寧にも私を阻む段差があるし。物音がするからこちら裏手へ回ってみたのだが、ずいぶんちゃちで無様なサプライズで歓迎だな、下品な冗談」
「補佐官こそその口、容赦ないです」
ひどいです、と周子はばばばーっと赤面して。
ちょうどその時、ギャラン刑事が茂みから飛び出してきて。上半身は裸、ベルトのバックルは外れている、どう見てもちょっと問題アリな格好だった。そしてギャランは路上の、目の前の予想外の光景にぎょっとした声を上げた。
「しゅっ……周子ちゃん、って……か、カズマ!?」
ギャラン刑事は、お前何してんだこんなところで、と言うなりその場にぴたりと硬直した。
「それはこちらが問い正したいところだ、コトがコトなら懲戒免職だぞギャラン刑事」
カズマは毅然と鋭くそう言うと素早く周囲を見回し、隠れろ、と手で合図を送った、と同時に、がさり、とギャランが茂みに飛び込んだ。
「だいじょうぶかい……周子ちゃんこれは一体……」
駆け寄ってきたのは向かいのおばちゃんである。夕食後の洗い物でもしていたところだったのか、濡れた手をエプロンで拭きながら、サンダルを突っかけておろおろと駆け寄ってきた。裸足のままでシャツ一枚羽織ったその姿に目を丸くし、心配そうに周子のカオを覗き込み声をかけてくる。
「周子ちゃん、一体全体何が……」
「大丈夫です。ご心配要りません」
おばちゃんの言葉を遮り、カズマはキリッとした表情でおばちゃんを見上げ、確信に満ちた素振りでひとつ大きくうなずいた。それは非常に落ち着いた、貫禄溢れる印象だった。
一瞬呆気に取られたおばちゃんのその隙を突いて、カズマは素早く警察の徽章を見せ、名乗ると、周子さんの同僚です、と極めて真面目な声色で答えた。
「お騒がせして申し訳ございません、職業柄、スクランブルがかかることがありましてね……」
カズマはたちまちのうちに各家から集まってきた近所のおばちゃん方をぐるりと見回すと、聡明そうな、さわやかな笑顔を浮かべてみせた。
「あいにく新人の周子刑事はまだ慣れていないようで。今日は彼女は非番ですし、のんびりシャワーでも浴びていたところへスクランブル、思わず勢い余って裏から飛び出したのでしょう。私はちょうどこちら方面を移動中でして。そこへ召集がかかったものですから現場に急行する途中でついでに彼女を拾ったほうが早かろうとこちらへ立ち寄ったのですが」
一度言葉を切って苦笑する。
「まさかここまで勢いよく飛び出してくるとは。ははは」
絶妙な間合いだった。
おばちゃん方は一度ぱちくりと目をしばたたせ、それから、ああ、と納得したように、ほっとしたように各々うなずいた。
「周子刑事は元気がよろしくてよいですね、署内でも人気者ですよ」
カズマは、まるで自分が周子にとっての上司たる立場であることを匂わせるような態度で周子に対する好評価を述べた。
周子の言動をニ、三、誉めてやると、おばちゃん方はたちまちパッと表情を輝かせて互いに顔を見合わせ、周子ちゃんは昔から元気が良くてねぇ!と笑った。
「刑事さんってのは適職だと、みんなで話していたんですよ」
「ええ、実によく働いてくれていますよ。アカデミーでも主席、この春のイチオシ、鳴り物入りでのガーナ署配属ですからね」
―――えっ?そうなの?
周子がいぶかしげに眉を寄せるその横で、さらにカズマは周子のことを新人の割に非常に良くやっている、と誉めた。上司が周子を高く評価している、といったカズマのこの雰囲気、おばちゃん方の緊張はこれですっかり解けてしまったらしい。
―――まさに立て板に水……。
非番なんじゃなくて寝こけてサボっちゃったんだし、スクランブルなんてかかってないし、と、ひとり内心ぶつぶつとツッコみつつ、周子は、カズマの場のコントロールの技術と、有無を言わせぬ論法の巧みさを前になす術もなく立ち尽くして。カズマは当り障りのない会話、つまりは世間話のようなものをいくつか交わすと、いささかの揺るぎもない口調でもう一度、
「心配ありませんから」
と、にっこりとうなずいた。
言外に立ち去れ、というニュアンスが含まれているのはさすがにおばちゃんたちも気付いたようで。
「あ、ああそうかい?それならいいんだけどね?」
「お仕事の邪魔になっちゃいけないね?」
と、みな各々頭を下げて立ち去ろうとする。
「あっ、あのっ!」
呼び止めてどうしようというのか、でもなんだかこの隣にいるカズマが怖くて周子は思わずおばちゃんたちを呼び止めた。周子が思わず裾を掴んだエプロンの主は、だったん蕎麦茶をくれた、近所では一番親しく面倒を見てもらっている向かいのおばちゃんで。
―――おばちゃん、おばちゃん家に行っていい?
そう口から出てしまいそうで。カズマが周子だけに分かる鋭い眼差しで睨んだのを察して周子は身を竦ませる。
「あ、あのう、ええと……」
周子は、ふいに自分の手にカズマの手がすっと柔らかく重なったのを知る。
「そうだね、わざわざ心配なさって見にきてくだすったんだ、お礼を言わなきゃいけないね、周子?」
「周子?」
不意に妙な色をこめた感じで名を呼ばれて、思わずぎょっとして振り返ったのは何も周子ばかりではない。一度立ち去りかけたおばちゃんたちもまた踵を返してやってきた。
おばちゃんたちの目の色が興味津々といった感じで輝き出している。
「周子ちゃんは修三さんからくれぐれもと頼まれているからね?……って、ねぇねぇ周子ちゃん、周子ってな呼び捨てだなんて、ひょっとしてひょっとすると彼氏さんかい?あらまあいつの間に!おばちゃんたちにちゃんと報告しなきゃダメじゃないのォ!こりゃまたえらくいい男だね、やるじゃないか周子ちゃん」
「は?あの……」
目の前のカズマは間違いなく余所行きの表情をした、実に好青年である。さわやかな微笑を周囲に振りまいている。
―――たしかに、これならさぞいい男に見えるだろうが。
なにしろ、こうさわやかに見えてその実、ギャラン刑事好きのホモ野郎、おまけに秘密を知った人間は始末するという、人殺しもいとわぬ冷血漢である、周子は慌てて首を横に振った。
「おばちゃん、誤解しないで下さいよ、この人は職場の同僚で……ん?同僚、で合ってます……?カズマ特別補佐官」
周子はカズマが警察の徽章を持っているとはつゆ知らなかった。もちろんそれはリタイヤ刑事が持っているはずのないものである。
徽章を持っているならば同僚だが、いや、公的にはリタイヤ刑事、捜査協力者ではあっても同僚であるはずがないのだが。
周子の困惑を察して、カズマはにっこりと微笑んだ。それは大層品の良い、穏やかで優雅な微笑で、おばちゃん方はその完璧な微笑を前に、まあ、と一言、魂を奪われたかのような感嘆の声を上げた。
そもそも物騒な男だとは思っていたが、カズマがおばちゃん方をもあるイミ殺すことができるとは、マダムキラーなそんなこともさらりとやってしまうとは、さすがに周子も予想だにしていなかった。
「ええ、彼女とは職場で知り合いましてね?」
「そうそう!」
「知り合ってまだ日は浅いのですが」
「そうそう!」
「ですが不思議なくらいに気が合いましてね?」
「そうそ……えっ?」
―――絶対この男とは気が合わない自信がある。
ぱっと表情を輝かせて適当に口車をあわせようとした周子の腕を軽く引き寄せて、カズマは周子が飛び上がるようなことをさっぱりとにこやかに周囲に告げた。
「このたび、晴れて入籍を果たしまして」
―――うぇぇぇぇぇっ!?
「順番は、ええその、ちょっとアレなのですが」
カズマはそこでちょっと思わせぶりに目を伏せて言葉を濁して。
―――えっ?ええっ?ナニ?
周子が飛び上がったり動揺したりきょとんしたりする横で、途端に何かを飲み込めたように、あ、ああそうなのかい、そりゃおめでとう、とおばちゃんたちは訳知り顔でうなずいた。
あまつさえ、自分の出っ張ったおなかのあたりをさするおばちゃんもいる。
―――って、ええっ?めでたいアレデスカー!ソレって!
「そりゃとにかく早く籍だけでも入れといた方がいいさ、ね?周子ちゃん、おめでとう」
「誤解です、ごかい……」
「イマドキの子はあっけらかんとしていていいねぇ!」
「いや、あの……」
おばちゃんにすがろうとする周子の手を、カズマはきゅっと握って。
―――イタ、痛いですって!手!
「周子がお世話になっておきながら、ご挨拶が遅れまして大変失礼しました」
「…………」
カズマは嬉しそうに一度周子を見上げて。
周子にだけ見せる、その奥に光る輝きのなんと物騒なことか。周子はさあ、と血の気が引くのを感じた。
「周子がこんなにもご近所のみなさまにお気を遣っていただいてるとは思わなかったな、これも周子の可愛い人柄かな?はは、なんともありがたいことですね、まあ、出来ちゃった婚だなんて、恥ずかしいというか、そうあからさまに申し上げるべきことでもないですから、内々にしていたのですがね?」
カズマはそう言って苦笑して、心苦しいのですがなにぶん急なことで、と続けると、キッチリ深々と一礼し、そうして頭を上げると、後日改めてご挨拶に伺いたいと思います、と再びにっこりと微笑んだ。
まあ!まあ!まあ!とおばちゃん方はたちまち破顔して。
「それにしてもカッコよくてしっかりした、実に頭の良さそうな好青年だね、さすが周子ちゃんは男を見る眼があるよ!やあ、おばちゃんは安心したよ!こりゃいいだんなさんを見つけたこと、幸せにねぇ!修三さんもこれでようやく安心だね、ようやっとあの世でゆっくりできるってもんだろうね」
周子はぶんぶんと首を横に振った。
「と、父さん、死んでませんから!っていうか、たとえ死んでいようと、父さんは絶対こんなの赦さないと思います、呪い殺されます!ええきっとそうに違いありません、呪殺ッ……!ッ!」
「まったく周子は照れ屋だな」
―――お、折れます、って!手が!砕けますって!
周子は涙目になってカズマを見た。ぞっとするほど冷たい眼差しにぶつかって。
―――無理!絶対無理、たとえその場限りのごまかしでも冗談でも無理!この人は怖い。
「あつあつさんだねぇ見つめ合っちゃって」
「うちの娘婿にも欲しいくらいだよ!」
「いやあ、いっそうちの旦那と取り替えたいねぇ、ははは」
そんなこんなでみなさんすっかり上機嫌になり。おばちゃん方はニコニコとして各々の自宅へ再び戻っていった。
周囲に人がいなくなったのを確認すると、カズマはそれこそ手のひらを返すように、ぱっ、と周子の手を離した。
「カズマ特別補佐官、ちょっと嘘をつくにも程があります、ににににに妊娠ですって?」
思いっきり誤解されてしまいましたよ、と周子は自分の手をさすりさすり、途方に暮れた表情でカズマを見下ろして。
「私は嫁入り前ですよ?嫁入り前の娘に妊娠とはさすがにひどいんじゃないんですか?あんまりです」
「公然わいせつでつかまるのと、妊娠しているのとどっちがマシだと言うんだ、考えなくても分かるだろう、人がせっかく気を遣ってやっているのに、水を差すな」
「いや、むしろつかまりたいくらいです」
周子のキッパリした返答にカズマは苦笑した。
「ずいぶん嫌われているな、どうせただの方便なんだから、気にしなくたっていいだろうに」
「でもだって妊娠はあんまりです」
「ま、妊娠は確かに嘘だがね?」
細かいことは言うな、と、カズマは手にしていた角封筒を周子に押し付け、にっこりと微笑んで。
先程までとは打って変わったその微笑、微笑んではいるがその眼差しはものすごく厳しくて。その圧倒的な威圧感に周子はぎょっとして一歩後退さった。
「ギャラン刑事」
と、カズマは一言低く鋭く声を発した。
「どういうことか説明してもらおうか」
先程飛び込んだ裏庭の茂みから、ごそり、と音を立ててギャランがバツの悪そうな顔をして現れた。葉っぱと蜘蛛の巣を頭にかぶっているその姿は、まるでしつけの行き届いていない脱走犬のようで。
さっきのカズマ特別補佐官とおばちゃん達との会話、どのあたりまで聞こえていたろう、入籍だとか妊娠だとか、よりによってギャラン刑事に誤解されるのは絶対やだな、と周子は思った。周子はすぐにでもカズマの側を離れてギャランの下に駆け寄りたかったが、カズマとギャランとの間にピンと張り詰めた恐ろしいまでの雰囲気、説明どころか詰問を通り越してほとんど裁判めいたその場の雰囲気にぴくりとも動けなかった。
カズマの声は厳しい。
「現職の刑事が婦女暴行か」
「あ、いや、違……」
大いに動揺して言葉を探すギャランに、カズマは容赦なく厳しい言葉で以って畳み掛ける。
「お前は刑事だぞ、ギャラン、公僕としての立場をわきまえろ、国家警察の不祥事を増やす気か!マスコミに知られでもしたら大事だぞ!女好きもたいがいにしろ!」
「いや、だから、違……」
ギャランはふるふると金髪を振って否定するのだが。カズマは容赦ない言葉でギャランの婦女暴行の現行犯ぶりをなじった。
「補佐官のツッコミはそっちですか」
全く、どこまでもギャラン刑事をいじるのが好きな男なのだ、そう改めて知ると周子は一人深いため息を吐いて、勝手にやってくださいこのホモ野郎、と言い捨ててその場を後にした。玄関の方に向かって数歩歩いて……。歩きながらごそごそとカズマに渡された角封筒の中から書類らしきものを取り出した。と、傍目でもはっきりと分かるくらいに思い切り飛び上がって。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
周子は慌てて引き返すと、強くカズマの肩を掴んだ。そして自分の方を振り向かせると、ごっそりと機嫌を悪くしている厳しい紫の目をまっすぐに覗き込んだ。
「説明してもらいたいのはこっちです!ここここ、これ!この封筒の中身!戸籍謄本じゃないですか!しかも、しかもですよ、周子・フォン・グランツってなんですか!」
「籍を入れた」
「何だと!?」
「なんですって!」
ギャランと周子が同時に驚きの声を上げた。
周子の手からものすごい勢いで戸籍謄本を取り上げるとギャランはそれに目を通して。数秒後、ぱさり、とその手から取り落とした。
「な、なななんで?なんでそうなるんですか!?」
「なんで、って、きみがサインをしたからじゃないか?」
詰め寄る周子にカズマは涼しい表情でさらりとそう答えて。周子は飛び上がった。
「さ、さささ、さいん?だってそれって……!」
カズマは周子の言葉を目線でねじ伏せて。周子ははっとして口をつぐんだ。
カズマは、ギャランが茫然自失といった感じで異世界へスルーしてしまっているのを確認すると、周子の手を強く引いてその耳元に口を寄せた。
「バレたんだよ」
ひそっと囁かれて。
周子はこの世の終わりを見た気がした。
(第21話へつづく)
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- 2005-06-22 15:33
- カテゴリ : タトパラ2/長編/連載中
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