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[tog]12:ハンズ

 テラスに面した一面の大きな窓は折れ戸になっていて、開け放つとまるで室内と庭とがひとつにつながるような開放感がある。
 開け放たれた向こうに深遠なる闇が広がっている。
 昼に降っていた雨はとうに止んでいる。
 いまは、雨滴とも霧ともつかない水の微粒子が、大気の中に浮くともなく沈むともなく漂っている。
 夜が深まりゆくにつれ、その微粒子が、空気が、次第にゆっくりと冷えてくる。なんとも良いこころもちのする夜のひと時である。
 幼児の小指ほどの赤い炎が、息をするように、小さくランプの中に揺れている。

 意外なことにギャランは酒を飲む時には、大人しくなる。余計な口を叩かず、まるで酒の精をゆっくりと楽しむように静かに、喉を鳴らす。
 杯を重ねるにつれてほんのりと目元に朱が差してくる。
 かすかに首を傾げて唇を濡らす仕草には、なんともいえぬ色香が漂っている。
 酌み交わすカズマは涼しい顔で杯に唇をつけている。
 こちらはいくら杯をあおっても、その顔に朱は差さぬ。もともと酒で酔うタイプではないのだろう。
 カズマは時折、ギャランが美味そうに微かに舌を打つのを見、つ、となんともほのかに目を細める。杯に触れる形の良い唇が、ほんのりと微笑むのである。
 カズマが酔うとすれば、それはギャランにであろう、と周子は思った。

 美形な男が二人静かに杯を交わしている光景は、なかなか見ていて良いものだった。

 周子は濡れ縁にそのまま腰掛けて、ぼう、と夜空を仰いでいる。
 刻は月が既に中天を過ぎている頃だ。
 感覚としてはそうであるのだが、仰いだその宙には月の居所は杳として知れぬ。それでも月は、宙のどこかにはあるのだろう、闇の中にぼんやりと青い光を含んでいるようにほのかに鈍い光が透いている。美しい闇夜である。

 宙から視線を下ろすその先には夜の庭が広がっている。
 手入れの行き届いた庭先の一角に背の高い叢が、あえて野趣を凝らしたように密に生え、なかなか粋なアクセントになっている。
 周子は、ぼんやりとそんな庭を眺めながら、かなり飲んだなぁと思う。飲んだのは、これまで周子が口にしたことがないほどに、美味い、上等の酒である。
 澄んだ冷たい湧き水のようにすっきりとして、それでいて胸のうちでぽっと熱をともす。それが面白くて、杯を口元へ運ぶ手が停まらなかった。見かねたギャランがその大きな手で優しく周子の杯を取り上げ、そうしてようやく周子は自分がかなり酒を過ぎているのを知ったのである。
 早い話、周子はとうに酔いつぶれている。
 つぶれてはいるものの、絡むわけでもない。ただ、ぼんやりと、夜の闇を眺めている。
 剥き出しの肩、素肌に触れる夜気は、冷えてはいるが寒さを覚えるほどでもなく。長く下ろした黒髪が、しっとりと夜気を吸って重くなっている。心地よい重さだった。

 周子は何度か目をこすった。
 叢の中に何かが動いている、小さな生き物のようなものが叢の根元のあたりをちょろちょろと縫うように走り去っていくのを見たような気がしたからだ。
「…………ねぇ?」
と、そんなことを口に出しては見たものの。
「そろそろお前は眠った方がよいのだろうな」
 ギャランが深みのある、いい声でおっとりと優しく返した。甘く痺れるほどにいい声だった。周子はその声の主が好きだと思った、それがたとえタトゥーの所為でも、やはり、好きだと思った。隷属のタトゥーというものはまこと巧妙に人の心を縛るものだと周子は冷静に思った。

 朝、起きた周子が部屋を出てくると、王宮へ出向くというカズマの背中を見送ったギャランが、つまらなそうに、所在なげに窓辺に肘をついて、外の庭を眺めていた。
 昨夜の静かに酒を酌み交わす、二人のなんだか妙に色っぽい光景といい、今朝の残されたギャランの、なにやらさびしげな表情といい、思わずお二方は一体どういう関係ですかと周子が問いたくなるような、そんなカズマとギャランの二人、妙な親密さである。
 初めてギャランに会ってタトゥーを刻んだ時も、この男は真っ先に自分をカズマの下に連れてきたのだった、と周子は思い出した。
 なんとはなしに胸がじり、とするのは、憎らしいこの左腕のタトゥーの所為だとは分かってはいるのだが、いかんせん、妙な気分だった。なんだかカズマばかりを見ているようなギャランの様子にどうにも嫉妬のようなものを感じざるを得ない、妙な心持である。
 ―――隷属のタトゥー、
 恋は隷属とはよくもまあ言ったものだ、と周子はひそかに小さく息を吐いた。

 やがてギャランは自分のあごに一寸手をかけて、軽く頷いた。
「ふむ、今日はなかなか涼しくて良い心地だな、周子、そこいらを歩くぞ」
「行けば?」
 可愛くない返事、と思いつつ、周子は背を向ける。タトゥーがあるからこそ、この金髪はえらく男前に見えるのだ、だからこそ自分がいっそう反発するのも仕方がない、と周子は己の苛立ちをタトゥーの所為にする。タトゥーゆえの錯覚、この己の胸のうちの恋情のようなものは力づくでねじ伏せるしかない、周子は良く分かっている。
「お前もだ、来い」
 ぴくり、と周子は片眉を顰めてギャランを睨み上げた。
「命令した?いま、命令したわね?」
「おう」
 ギャランは鷹揚に笑って。
「こんぐらい、ケチケチすんな、ただの散歩だ、付き合え」
 さっぱりとそう言っ切って軽く寄せた周子の腰を押して促す。
 ずきり、と焼けるような熱い痛みを左の腕に感じ、周子は観念して、ギャランに応じ庭に出た。
 ギャランの隣に並んで庭を歩く、周子は自分の腰にギャランが軽く手を置くのを赦している。ギャランのその仕草は自然で、周子はそこに意外なほどすんなりと収まった。

 外に出ると、確かに、なかなか良い心地だった。
 昨日、降るとはなしに降った雨が、まだ空気中に残っているような、なんとも朧な感じがして、やんわりと肌が冷えるのが心地よい。
 背の高い一面の叢も、つややかな水滴をすがすがしく輝いている。昨日までのぎらぎらとした夏の暑い日ざしが嘘のようである。
「この季節にこんなに涼しい日があるのは珍しいぞ」
 暑い夏の息抜きにはちょうど良いな、とギャランはまるで自分がそんな一日を創り出したかのように得意げに微笑んでいる。
 もちろん国王とてそんなことは出来ないだろうが、まるで自分がそうさせたかのように、当然のことのようにゆったりと微笑まれると、国王であらせられるあなた様のおかげでございます、などと、どっかのメガネが言いそうな言葉でも口からこぼれ出そうな気がしてしまう。こんなバカでもやはり、生まれついてのものがあるのだろうか、と、周子は不思議な貫禄を垣間見た気がした。

 そもそもは、周子が先のカズマの私邸をぶっ壊したが為に引っ越してきたのだが、こちらの屋敷にもまた、手入れの行き届いた広い庭園があり、品の良い瀟洒な屋敷の周囲には、美しい緑と水の景色が広がっている。
 なかなか趣味のいい金のかけ方だった、別荘には最適な、実に美しい環境である。
 周子は深く息を吸い込んで微笑んだ。周囲の木々から、叢から、しっとりとした心地よい気が流れ込んでくるのを感じて満足した。
 背の高い叢の細い葉の先に指を触れ、はらりと落ちたしずくに周子は目を細める。
「ガーナは、季節の寒暖の差と、一日の昼夜の気温差がはっきりしているわね。ミアムよりずっと。夏はすごく暑いし、この分だと、冬はすごく寒いんでしょう?」
 自分の魔力がミアムにいるよりもはるかに充実しているのはこのはっきりとした季節の所為かもしれない、と思う。
 周子の魔力は、己の気に左右される。
 まるで金色に輝く血液が体内を巡っているような、不思議な充実感があった。どういうわけかいつの間にやら指からは外れていたが、だがいわゆる呪いのアイテム、ドランクドラゴンの盟約石を所有した状態で、最上級の攻撃破壊呪文を繰り出せたのだから、行使し得る魔力の充実度はかなり良いものだと言ってよかった。
 まして、今はそれを手離している。
 周子はギャランの指に嵌められた黒い魔石を見て、ほっと安堵した。どれほど手離すことを願ったか知れぬ、厄介な、周子の魔力を吸う呪いのアイテムなのだ。
「この大陸で四季がこんなにはっきりしているのはガーナだけだからな。案外気に入ったろう」
「うん、悪くない」
 ―――あんたみたいにはっきりしたいい季節だ。
「お前に気に入ってもらえて光栄だ」
 短く応えて、ギャランは微笑んだ。
 青い目は優しく引くとその青みがいっそう増して輝き、魅力的に見えた。
 周子は数瞬、たっぷりと見惚れた。
 そして、自分はこの男の微笑ではなく、季節の変化のはっきりした気候の様を気に入ったのだと改めて思い直して。
 こんな不意打ちなときめきも腕のタトゥーの所為かといまいましく思う。
 ふるふる、と首を振る周子の頭をくっ、とつかんでその動きを止めると、
「お前にはずっとこの国にいてもらうことになるだろうな」
 ギャランはキッパリと言った。
 あまりに簡潔すぎて、その意図が読めない。
「ガーナはいいところだぞ、郷に入らば郷に従え」
「それを言うなら、住めば都、バカ」
 周子はそっけなくツッコみ、ギャランの隣を歩いた。

 ギャランが、ぴたりと、足を止めた。
「伏せろ」
 短く、低く鋭く周子に囁くと、勢い良く周子の足元をなぎ払った。足元を不意に掬われ、ずでん!と周子は派手に身体を地に打ちつけたが、水気を多く吸った地面は音を立てず、周子は地面に這いつくばったまま、ギャランのただならぬ様子にひとまずじっと息を凝らした。
 ギャランの囁きが切羽詰った声色でなければ、即刻立ち上がってその秀麗な横っ面に鋭いケリを入れるところだ。
 掻き分けるように、叢がさわさわと鳴った。
 ―――誰か、来た。
 ここはカズマの私邸であるからして、彼の不在時にわざわざ訪れる者はいない。
 もし、うっかり不在を知らずして尋ねてきたとしても……だとすれば仏頂面の侍従長、エンギワルーに丁重に追い返されているに違いない。
 まして、客が勝手に庭に入り込んでくるはずがない。
 ―――つまりは、招かれざる客というやつか。
 周子は叢の陰からギャランを見上げた。
 先程までとは打って変わった厳しい表情をしていた。

「やあ、久しぶりだな」
 ギャランは鮮やかな青い目を怜悧に細めて、口の端を少し上げた。
 それだけだった。
 サービスというほども無い。
 すぐに端正な、だが無表情な美形になると、あごをしゃくった。
「カズマなら不在だ。帰れ。おれはお前達とは話をしない」
「…………そうはいきますまい、国王様」

「近寄るな」
 短く一言。気の無い声だが、絶対的な厳しさで。

 国王、と自分を呼ぶ、はるかに年上の壮年の男を前に、ギャランはあからさまに冷ややかな態度を示した。言葉を返さないどころか、表情一つ変えない。目の前の壮年の男の姿がまるで目に入っていないかのような、異様な冷淡さである。
 かろうじて対峙はしているものの、今にも踵を返しそうなくらい、目の前の存在を認めていないのである。
 眉を顰めるわけでもない、ましていつものようにおれは王ナンザごめんだ!と叫ぶわけでもない。
 ただ、その瞳に宿ったクリアな青い光がひたすらに冷たく、近寄りがたいオーラを放って…………王宮に戻れと掻き口説く男の熱が上がれば上がるほど、宙を睨んだ青い目は冷たさを増していくようだった。
 掻き口説く壮年の男の熱と、ギャランの冷たさと。視線を交えることさえ許さぬギャランの素振りはむしろ異様だった。
 周子は息を凝らして二人のやり取りを、いや壮年の男の一方的な言葉を、じっと聞いていた。
 振るう熱弁は、ギャランに心酔している、ギャランを慕っている人間のもののように聞こえた。言葉に込める熱い思いは、どう聞いても、悪意のある人間のものには聞こえず、むしろ温かみがあり、人間くさく、必死で……。
 だが、掻き口説くその熱い言葉には全く耳を傾けぬ素振りのギャランの白皙の頬と、全く動じない、ちらとも揺るがぬ冷たい眼差しは、むしろこちらの方が、はるかに人間離れをしているかのようにも見え、正直、ぞっとするほどの冷淡さで、傍らに潜んでいるのも恐ろしいくらいだった。

 つい先程の、すぐ隣に並んで共に庭を散策していた魅力的な微笑みの主とは同一人物であるとは全く思えない。

 ギャランがこの場を離れないのは、ひとえに、その足下の茂みの中に自分がいるからだと周子は知る。
 地に伏せた周子の背中を足で踏みつけて、力をこめるのは、立つな、と言っているのだ。ひどい扱いではあるが無駄がない、はっきりとした力で以って周子のその姿を目の前の壮年の男には見せるな、とギャランは告げているのだ。
 周子がいなければ、とうに背を向け、屋敷の中に入っていただろう。

 ギャランと壮年の男との距離は十分に離れており、ギャランの足下の叢の中にいれば、周子は相手に見つからずに済んだはずだった。
 周子が、声を上げなければ。
 この時……周子が叫ばなければ、見つかることは無かったのだ。おとなしく、ギャランの言うことを聞いていれば。

 背の高い叢の下で、周子は何かがすばやく動くのを見た。
「ハンズ!」
「なんと!」
 周子の叫びに、壮年の男が驚きの声を上げた。
 ギャランはギョッとしたように周子の背を踏みつけていた足を浮かせた、周子ががばりと立ち上がる、一拍間を置いてギャランが厳しい声で毒づいた。
「黙っていろと言ったろう!」
「だって!」
 周子は短く叫んで叢に飛び込んだ。
「ハンズ!!ハンズ!カム!」
 周子の声に反応したのか、叢の根元をかいくぐってすさまじい速さで駆け回っていたそれがぴたりと止まった。ぴくり、と振り返り、素早く草の根元の陰に潜んだ。ほんの少し姿を見せ、声の主を確かめるかのように、わらわらと五指を動かした。蜘蛛にしては大きい。
「ハンズ、カム!」
 有無を言わせぬ、飼い主然とした、毅然とした命令口調で短く周子が呼んだ。
 周子の声に応え、叢が揺れて、その根元から、泥にまみれた小さな”手”がのぞく。
 広げれば五、六センチほど、幼児の手の平ほどの大きさ。
 というよりも、まさに幼児の手。
 手首から先の”手”が、二つ、ちょこちょこと五指で地面を爪弾くように、転がるようにもつれ合い、こけつまろびつ、慌てた様子で周子の下にやってきた。
 周子はその奇妙な小さな、泥にまみれた”手”を、ためらわず湿気た地面から掬い上げる。
「んまあ!レフトとライト。なんであんたたちがこんなところにいるのよ?」
 ふっくらした幼児の五指が、左右対になって、周子の目線でわらわらと動く。
「爪の間に土が入ってるわよ。はっはー!父さんが見たら目を剥くわよ。この間ずいぶんと綺麗に丁寧にあんた達にマニキュアを塗ってくれてたじゃないの」
 びくり、と怯えたようにその両手指は一瞬動きを止めた。
「父さんはあんた達を可愛がってるんだから」
 うそだ!というようにまたわらわらと両の五指が、あわせて十本の指が動く。
「あー、うるさ。ハウス!」
 言ってから、周子は首をひねる。
「ハウス、って言ったって、あんた達のハウス……”封印の書”はないわねぇ?私持ってないのに、なんでこんなガーナくんだりまで、あんたたちがいるわけ?父さんが呼んだというか、うーん?寄越したのかしら?あれっ、ひょっとして父さんが来てる?いや、来てたら、すぐに私の目の前に姿を見せるだろうしな?ハンズ、あんた達、一体どうしたの?」
「ちょおおおっと、待て!」
 ギャランが周子の肩をつかんだ。
「なんだそれは!」
 胡散くさそうに眉根を寄せて周子の手の中の魔物を見る。
「ハンズ。見てのとおり、手よ。えーと、五歳児。レフトとライト」
 周子はギャランに突きつけるようにその目線にまで持ち上げた。
 ライトは周子の容赦ない指先によってその小指をつるし上げられている。レフトはその人差し指と親指とでライトの親指にぶら下がっている。
「ハンズ、ご挨拶は?」
 一方はか弱い小指を吊るし上げられ、もう一方はぶら下がるだけで必死なのだろう、かろうじてライトの中指だけがぴるぴると震えて応えた。
「……挨拶、じゃないだろっ!」
 ギャランがずざっ、と半歩下がって叫んだ。
「ナンなんだその気色悪い生き物はっ!生き物?生き物なのか?」
「やあね、父さんの使役獣よ」
 周子は短く応えると、ぞんざいにレフトとライトを自分の胸元に突っ込んだ。
 がびん!と軽くギャランが飛び上がった。
「ヤメロ!」
「なんでよ。”ハウス”がないのよ。封印の書。このタイトスカートの後ポケットじゃあ、座ったときにつぶしちゃうでしょうが」
「封印の書だと?」
 一瞬ギャランがギョッとした表情をした。
 書、と呟いて、何か言葉を探しあぐねるかのように数秒の間硬直したが、唐突に周子の尻に幼児の手がつぶれされる様をリアルに想像したのか、ぶるりと肩を竦めた。
「だ、だがな」
 ギャランが秀麗な眉を思いっきり顰めた。
「そ、それなりに女らしいその胸の谷間に左右の手指がわらわらと動いているのは、どうかと思うぞ」
 そう言って、おもむろに周子の柔らかな谷間に手を突っ込んでハンズをつまみ出すと、べしん!と勢い良く地面に叩きつけた。
「ああっ!」
 周子が慌てて地面に膝をついて、地面の上でぴるぴると震えているハンズを拾い上げた。
「なんてことすんのよ!五歳児なのよ!鬼!人でなし!えっち!」
「すんげーイイトコに収まりやがって!許せねぇ」
 たちまち周子のパンチを鳩尾に食らってギャランは身体を二つに折った。鳩尾を押さえてうめく。
「だからナンなんだよソレ!」
「使役獣!」
 周子はさげすむように黒目を半開きにした。
「やだ、またおんなじこと言わせたわね。コレだからバカは」
「!まーったおまえはおれをバカだと言ったな!」

 ごほん、と、湿気った咳払いが一つ、間に割って入った。

 先程からギャランに王宮に戻れと熱く迫っていたこの壮年の男、周子は鼻の下にヒゲを蓄えた、肌艶の良い堂々たる恰幅の紳士を見た。
 動揺を隠し切れぬ表情ではあるのだが、肚の座った落ち着いた声を出した。
「魔物……まさか、王が、ひそかに魔物を飼うとは、どういうことですかな?魔物こそ、王が躍起となって狩っていたものではございませぬか、よもや魔物を手懐け……いや、いやいやいや、なんともまことに不穏な……黙るわけにはまいりませぬ、とにかく、事情を伺わねばなりますまい。まずはご足労願いましょうか……」
 言葉は丁寧だが、海千山千の年季のいった抜け目なさ、圧倒的な威圧感である。
 ギャランは先ほどの何処か異様な冷淡さ、王、と呼ばれて見せた、ぞっとするような威厳をすっかり失い、うぐぐ、と喉の奥を屈辱に鳴らした。そして、半ば脅されるかのように促されるがままに、庭の裏方に横付けされた豪華な馬車に乗り込んだ。

 いかにも金の掛かっていそうな華美な馬車が、人目を避けるかのように庭の裏のほうに用意されていたあたり、この壮年の男はこの屋敷の主、カズマに用があったのではなく、最初からあわよくば国王ギャランをこそ、連れ出そうとしていたに違いなかった。
 ギャランが、王にはならぬ、王宮は嫌いだと公言しているのも、王宮を出奔したギャランの世話をしているのがガーナの高位貴族グランツ家正嫡のカズマ・フォン・グランツであることも周知の事実だと言う。では、わざわざそのカズマ不在の隙を狙って、となると、なんだか不穏な感じだな、と周子は思った。
 御者がはっと身を竦めた、細心の注意を払っていたのにも関わらず出立する際に馬が嘶いたのである。その物音に気付いたエンギワルーが屋敷の中から慌てて飛び出してくる姿を、周子は猛スピードで走り去る馬車の窓から見た。

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