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[tog]27:ユアバディズ・コーリン・ミー

 低く、掠れた、喘ぐようなうめき声を耳にして、ギャランはふと足を止めた。
 女の喘ぐ声である。
 その声の漏れ出づるドア、ギャランはその部屋の主を知っている。だが、まるで情事の最中のようなその声の色、そんなものとはとんとかけ離れた、いや、ありえない、あっては困る、その女の部屋のはずである。驚いたというより、不穏さを感じ、正体不明な焦燥感に襲われた。珍しく肌がざわりと粟立った。
 息を凝らす。
 ドアの向こうから聞こえてくるのは確かにやはり、周子の声である。
 苦しげな、それでいて恍惚としたような、なんとも色っぽい喘ぎ声である。声は決して大きくない。むしろ声を押し殺しているかのような、堪えたものがうっかり唇を割ってしまったかのような、低く抑えた、だがそれゆえに一層背徳的で艶っぽく、なんともいえぬ上等な色香を湛えた声である。
 ―――誰と、寝ている?
 ギャランはノブに手を掛け、しばし逡巡した。言い知れぬ焦燥感がノブを掴んだ手をちりちりと焼いた。
 ―――開けて良い筈が無い。
 だが、開けずにはいられなかった。
 部屋の中は、暗い。
 音を立てずにドアを開け、気配を殺して闇の中に滑り込み、声の漏れるベッドのほうへそうっと足をすすめる。
 そうして。
 ギャランは痺れるような安堵を知った。
 脳裏に浮かんだ、あの男の姿は、無かった。
 あの男、でさえなければ、それが何者、あるいは、何物であろうとも、ギャランは怖くなかった。いささかも己が劣る気もしなければ、負ける気もしない。
 ―――して……あれはなんだ?
 ベッドで横たわっている周子のその首もとにはなにか小さな生き物のようなものががっちりと食い込んでいるように見えた。
 それは……ハンズは、左右対の手で周子の首を締めるかのようにがっちりと食い込んで、ざわざわと不穏に揺れている。その体表が金色にほのかに輝いて、対の手が周子の首を締め上げるたびに、周子は軽く身を捩って喘いでいるようだった。
 およそ、情事には程遠いが。
 世に見るありきたりなそれよりもはるかになにやら……壮絶な色気が、そこにはあった。
 やがてハンズが首から離れると、周子はガクガクと小刻みに震える肩をほんの少し浮かせ、枕もとの木箱を手繰り寄せるとその中にハンズをしまった。ハンズの入った木箱を元の場所に戻し、そして、疲れきったように小さくひとつ息を吐いた。
 とさり。
 頭をベッドに落とす、かすかな音がした。そしてそのまま、まるで死んだかのように、仰向けのままぐったりとして、動かない。
 ギャランは固唾を飲んでその光景を見つめる。そのまましばらく待ったが、ピクリとも動かない。胸を押しつぶされるような不安にたまらずギャランは声をかけた。
「おまえ、……何、している?」
 ベッドに歩み寄り、その顔を覗き込むと、かすかに周子が半目を開いた。
 何処か焦点の合わぬその瞳は、濡れた白目が、緩んだ瞳孔が、これまで見たことの無いような妖艶な色香を滲ませている。
 有無を言わさず組み敷いて体を傾けたくなるほどの、直接的で本能を痺れさせるような色香、未だ預かり知らぬ、己の中の激しい情欲を強烈に呼び覚ますかのような瞳だった。
 ―――周子?
 ギャランは知れず浮いた冷や汗を拭った。
 周子はどうやら声も出ないほどである。
 ギャランは周子と視線を絡めたまま、まるで己の体をこそ縛られでもしたかのように、ただ言葉を失い、立ち尽くしていた。
 ずいぶん長い時間が経って、ようやく周子が口を開いた。
「出て行って」
 かすれた、消え入りそうなほどに弱い声である。
 ギャランは途端に、自分でも説明のつかぬ強烈な不安がどん、と堰きを切って全身をめぐるのを感じた。
「いや、そばにいよう」
 ギャランは緊縛した身体を解いてようやく手足を動かすと、周子のベッド際に立ち、見下ろした。
 周子が不快そうに眉根を寄せた。それからあきらめたように、ふい、と視線を逸らせ、再び目を閉じた。
 周子のその頬は、まるで死人のように青ざめている。だが同時に微かに上気しているようにも見える。熱があるのかもしれない。その頬が熱を帯びているのかどうか、手を伸ばし検分すべきかとも思ったが、やめた。一度触れれば、そのまま周子を、組み敷くような気さえ、する。
 所在無さを感じ、代わりにギャランはハンズをしまった箱に手を伸ばした。
 途端、周子が驚くほどの素早さで身を起こすと、ベッドから飛び降り、ばっ!と勢い良くギャランの手からその木箱を取り上げた。
「触らないで!魔力を供給した後の眠りを妨げると、めちゃくちゃ凶暴なの、殺されるわよ」
「魔力を……供給?さっきのあれがか?」
 ギャランは先程の壮絶な色気漂う光景を思い浮かべた。
 周子はギャランの手から取り上げた箱を、そっと慎重に枕元の元の場所に戻した。
「あんなのでも、やはり父さんのお気に入りの使役獣ですもの。もしアレが本気で怒ったら、恐いのよ、まして正規の契約主ではない私だったら、ひと思いに殺される」
 周子は、凄みのある表情でそんな恐ろしい言葉を吐くや、ゆらりとぐらついたかと思うと倒れかけた。
 慌ててギャランがそのくず折れる体を支える。
「わ、悪かった、大丈夫か?」
 周子の体には全く力が入っていない。
 その体を揺り動かすと、なよなよと、力なく揺れるばかりで、まるで人形のような手ごたえの無さである。周子はギャランの腕の中でじっと身体を任せている。ちらとも動けないようだ。
「お前、こんなこと、しょっちゅうやってるのか?」
「……初めてよ」
 応えるのすら辛そうである。
 ギャランはそっと周子を、再びベッドに横に寝かせてやった。
「みず……」
 ギャランはベッドサイドから水差しを取り上げグラスに水を移したが、グラスと周子とを交互に見比べ、己の口に含んだ。そして口移しで周子に水を飲ませた。わずかに抵抗する周子を強引に押し切って水をその喉の奥へと流し込む。
「ぬるい……まずい」
「自力で飲むだけの余裕すら無ぇくせに強がり言うな」
 小さく咽せて、何処までも不快そうに言う周子にギャランは苦笑して。
 そして、さっきから気になっていた、最大の不安を口にした。
「あいつには見られていないだろうな?」
「あいつって?」
 ギャランは利き手の中指でくい、とメガネのブリッジを押し上げる仕草をしてみせた。たちまち周子がぴくん、と反応し、
「カズマ様?あははー、に、にてるー!」
 その仕草が面白いのか、ぱっと瞳を輝かせて周子は明るい声で笑った。
「じゃなくて!」
 じれたようにギャランが促す。
「なんで?」
「な、なんで、って、そら……」
 ―――あんな光景見りゃあ、かなりアレな気になるからじゃあねぇか
 きょとん、とまるで子供のような眼差しで不思議そうに見据えられ、ギャランはむしろ自分ばかりが良からぬことを考えているのだという事実を突きつけられ、どうにもやりきれぬ己の情欲を恥じた。気を取り直すようにばさばさと金髪を振った。
「とにかく、見られたことは無いんだな?」
 うなずく周子にギャランはほっとして。周子の隠し切れぬ女の部分が火を点けるのはおれだけでいい、とギャランは思った。
 だるい、と周子は大きく息をつき、ベッドの上で身を捩った。不満そうに周子が唸る。
「あんたにも見せたか無いわよ、こんなへばった姿、ふん、魔力を供給した後はこんな風になるだなんてそんな弱み握られたくないのよね」
「弱み?……ったく、口から出るのは色気のかけらもねぇな」
「色気っ?これのどこが!」
 ああ、まいったなぁ、頭も痛いや、と周子がうだうだと頭を枕に擦り付けた。頬を、肩を、胸元を、つややかな黒髪が幾筋も乱れに乱れて白い肌をなでる。
 擦り付けられてぇ、とギャランは内心うめいた。
「封印の書が無い限り、ハンズは消耗する。えさが必要なのよ。私、あの子達の契約主じゃあないけど、まあ仕方ない。あんな事したら、レフトもライトも、もうもう貪っちゃって貪っちゃって。こっちの身が持たないくらいだわよ、アア、ちょっとまじで死ぬかと思った」
 ギャランがおもむろに周子を抱き起こした。抵抗の欠片も無いその身体は軽々とまるで人形のように持ち上がる。
 ギャランの端正な顔立ちを間近に見て。
 ギャランにキスされて、周子は目をぱちくりとさせた。
「……なんの嫌がらせ?」
 よろよろと力なく、それでも拳で口を拭ってまじまじとギャランを見る。
「ああああ、あんまりな反応だな」
 そんな周子の様子にギャランは軽くショックを受け。
 周子は真面目な顔をして残念そうに応える。
「あいにく、今日は平手もパンチも繰り出せる力が残ってないよ。残念でした、あー、もちろんスペルのかけらも出ませんて!死にたきゃ、明日おいでよ」
「!いやちがうだろっ!」
 はははん!と軽く口元だけで笑う周子。
 ギャランはそんな周子の小生意気な態度が気に食わず、もう一度、周子の腕を押さえて、口付けた。
 力の入らない周子は信じられないほどに大人しく。この、いつもとは打って変わった手ごたえの無さが、大人しさが、ギャランの熱を帯びたあらぬ心持をさらに煽る。
「お前さえ、うんと言えば、そらもう今までに知らぬ位のセックスの快楽ってのをお前に教えてやる、二度とおれから離れられぬ位のな?」
「……ハンズの箱、やっぱ開けようかな」
 いっぺん死ねや、お前、と周子はきっぱりと悪態を吐いて。体を任せてはいるものの、周子の黒目は本気の色を湛えている。
 ギャランは引き下がらない。
「お前、自分がどれほどの上物か、気付いていないんだろ?おれはそれが心配だ、お前がこうポケーっとしてる間に、おれがちょいと目を離した隙に、うっかりと他の男に蹂躙されそうで」
「知ってるわよ、ばか。クルが何度もそう言って口説いてきたわ」
「おれの前で他の男の名は出すな」
 カッ、と頭の後ろで火花が散って、ギャランは周子を抱きしめる腕に力を込めると再び口づけた。深くキスして口中をまさぐる。
 ちくり、と周子はその舌を噛むと、困惑したギャランの青い瞳を見詰め、ふふん、と鼻先で軽薄そうに笑った。
「なぁに?あんたそんなにヤりたいの?好きにすれば?今夜は私、抵抗できないわよ」
「……こんな状況で、よくそんな強気でいられるな」
 ギャランは泣きたいくらいに切羽詰った気分で、明日殺されてもいい、もう組み敷いてしまえ、と思った、だがその瞬間、腕に一層の重みが加わったのを感じて。見れば腕の中で、周子があっさりと気を失っている。顔色はひどく悪い。
「………………」
 なんて気の強い女だ、とギャランは、深く息を吐くと静かに周子をベッドに寝かせた。

 ―――左腕が痛い。
 背骨を伝ってじんじんと熱い痛みが体中へ広がってくる。
 割れるような頭の痛み、火照るような熱を頬に感じて、周子は目を覚ました。
「……やっぱし」
 どおりでタトゥーが痛いと思ったわけだ、と、すぐ隣で眠りこけている金髪の主を見て、周子は小さく吐息を吐いた。
 身体の上に柔らかいタオルケットが掛けられてある。自分の身体のすぐ隣で、ギャランがごろ寝している。別段同じ掛け物を掛けているわけでもなく、どうやら、こちらの様子を見守っているうちに眠りに落ちてしまった様子だった。
 他愛なく、ぐっすりと寝こけているその表情はとても穏やかで、まるで子供のような、というより、まるで天使のようで。
 周子はその朝の光に輝く絹糸のような金髪をそっと撫でた。
 指の間をさらさらと流れ落ちる、心地よい感覚に目を細める。
「こんな風に、近くに寄らないで欲しいんだけどなァ」
 腕の痛みを感じつつ、周子は指先でその白皙の頬を撫で、長い金の睫を軽くなぶった。
 腕が、いっそうずきりと痛む。
 惚れてもいない男の名を刻まれて。
 抗いがたい恋情が、まるで泉のように。堰を切ったように。胸をキリキリと締め付ける。
 ―――タトゥーの所為だ。
 こんな目にあうんなら、もっと安易なところで手を打っとくべきだったか。
 もっと、親切で、優しい、誰かで。
 望みといっても無茶なことは言わないような人で。
 幸せに生きてくれればそれでいい、みたいな、むしろ守ってくれるようなありがたい望みを口から漏らしてくれるような。
 どうせなら、私も、惚れた男の名が良かったなァ、
 ―――ロレンス、私はあなたの名を刻むのではなかったのか?
 二の腕に刻んだ、肉の切り裂かれた名を為す傷は、癒えた後も結構痛々しくて。当人達は愛しい、と言うが、腕に刻んだ恋人の名の、どこがいったい愛しいのだ。
 傷は傷、隷属は隷属。
 タトゥーとは召喚の種に科せられた呪である。それは、まるで、罪人のようで。
 誰かに隷属するということ自体、周子は気に入らなくて。
 それは人を好きになったことがないからだ、と同じ年頃の仲間は知った風な口を利いたが。
 ―――父さんの腕にはどうして名が無かったのだろう。
「ギャラン?」
 そっと声を掛け、眠っているのを確かめる。
 綺麗な寝顔だ。目の前のこの男の寝顔には、父の寝顔とはまた別の、趣がある。父以外の男の寝顔をこうして間近に見ることがあろうとは全く思いも寄らなかった。
 ―――なんて、愛しいのだろう。
 父さん、惚れた相手でなくても、名を刻めばこんな気持ちになるものなの?
 私は、なにかとんだ勘違いを?


 帰宅を玄関先まで出迎えた周子の、その可愛らしいエプロン姿の娘を前に、冷たい眼差しをちら、と半目に伏せ、言い訳をするかのようにぽつりと修三は言った。
「ベースに呼ばれていったらば、なにやら余計なものまで付いて来た」
「はーろー!」
 修三の細身の体の陰には決して隠れないのだが。頭一つ、肩幅も結構はみだして、クレリック・リザートは修三の後ろで軽く手をひらひらとさせた。
「で?ベースにはやっぱ私のことで呼ばれたんでしょう」
 修三は無言で書状のようなものを周子に渡す。周子はそれを開いてはーあ、とため息を吐いた。
「どうする?おまえの好きにしたら良いと私は思うが」
「……おい!おれは無視か?おれの事は」
 己の鼻の先を人差し指で指しながら、ぐいぐいと顔を押し付けてくるクレリック・リザートをあっさりと無視して、周子は軽く唸った。
「だって、アレでしょう、相当痛いんだってね?見たけど、ひどい傷だし?別にそんなこと私したくない。用があれば召喚に応じればいいんだし。なにも誰かに隷属しなくたって、いいと思うんだけど」
 修三から渡された書状、ベースからの通達には、もはやこの際相手は問わぬ、早く名を刻め、と催促がある。
「お前が確実にベースの言うことを聞くよう、枷をつけたいのだろう、誰かに隷属すれば、その者を通じてお前を好きに出来るからな」
 修三はやれやれ、といった風に脱いだ上着を周子に押し付けた。
 焚き染めた沈香の冷涼で甘い香りが鼻腔をくすぐり、周子はちょっと目を細める。
「おまえは本当に好きな男の一人や二人、いないのか?」
「あいにく」
 周子がふるふると首を振る。
 さらさらと長い髪がかき乱れるその様を物欲しげに見つめる男がここに一人。
「だから、おれがもらってやるって。な?」
 修三はようやくクレリック・リザートに向き直った。黒目を寒々と細めて。
「クル、おまえのその再三にわたる迷惑な申し出、この世に未練はないな」
「あるある!」
 クレリック・リザートは、印を結び出した修三の白い両指をぎゅっ、と押さえて。
 ちらとも揺るがぬ怜悧な眼差しで見据えられ、ぐぐう、と唸って。
「もっと現実的な路線で手を打て、って言っているんだ、ああ分かってるよ、余計なお世話だってな、ラッシュ、飯だ!なんか飯食わせろヤ!」
「食わせろ、ですって?」
「……ああ、ううむ、どうか飯を食わせてください、腹が減りました」
 修三と周子、二人の冷たい黒目に射抜かれてクレリック・リザートは最後は深々と頭を下げて懇願した。
 下げた頭の、硬そうな灰色の髪を刈り込んだ襟首から続く太い首や、がっしりした肩のラインが目に入る。頑丈そうだが、同時にしなやかな、獣のように野性的でつややかな、鍛え上げた丈夫な良い首周りである。この肌の下にはさぞ熱いものが流れているのだろう、と思って周子はちょっと目を細めた。
「こういうのが、男と、世には言うのよね?」
「それは大間違いだ」
 まるで未知の動物でも検分するかのように無遠慮にその首筋に置いた周子の手を、修三は穢れる、と低く呟いて即座に払った。
「いや、おれは男だ、上等の、男だ!精力抜群、絶倫野郎だ!任しとけ!お前には天国行きの特別チケットをやろう!ちったあお前もその気になって来たんだな!」
「ならないよぜんぜん」
 冷え冷えする眼差しで周子は言い捨てた。
「かー、冷てぇ、冷てぇ、ラッシュサマーはとりわけハートが冷てぇ。ホントに男を知らねぇんだな。いっぺんかるーくヤっといた方がいいぞ。こんの情知らず。こないだもまーった派手に揉めたんだってな、ロンとか言う男と、リイチってのとが、お前に告ったって、二人がかりで無理矢理お前を押し倒した所にツモが殴りこんで流血沙汰だって」
「はは、流血沙汰は、私がね。ふん、自業自得だわ」
 ここ数年、周子を巡ってミアム国内では酒場の痴話喧嘩が多発している、しかも当の周子は全くの不介在ながら男どもが勝手に。
 ただでさえ、一族で最強の魔力を誇る、タチバナの血である。万世一系といわれるその血筋に食い込むには、その血筋のものを篭絡する以外に手立てはない、と、皆がよってたかって周子の腕に名を刻ませようとする。
 周子はうんざりしたように頭を掻いた。
「タチバナの血を、すすりたいんだって」
「チッげーよ!」
 クレリック・リザートは目を剥いた。
「……だって、どの男も全然たいしたこと無いように思えるんだもの……ちっとも響かない」
「そら、イビサと一緒にいるからだろ」
「ああ!やっぱりそうなの?クルもそう思う?父さんほどいい男って、この世に二人といないよね!」
 周子は大袈裟にため息をついた。クレリック・リザートを見上げる瞳にほんのりと熱が点る。
「父さんの名だったら、刻んでもいい」
「おい、イビサ、こりゃあ大問題だぞ!」
 思いっきりしかめっ面をして、顔を向けたクレリック・リザートがひたりと固まった。
 修三の目が、細く引き伸ばされている。何処か、笑ったような、死を見据えたような壮絶な色気が、そこには揺れていた。
 それは一瞬だったが、クレリック・リザートは見逃さなかった。
「おい、イビサ、ちょいとツラ貸せ。ラッシュ、飯、今夜は要らん」
「今夜はってところが図々しいよね、あんた」
「……私は食事にする、お前に貸す面なぞない」
「イビサ、来い、さもなくば名を呼ぶぞ」
「心外だな」
 剣でも抜きそうなその有無を言わさぬ勢いに、修三は軽く肩を竦めて従った。クレリック・リザートがそんな風に強引に修三に物を言うのは初めてのことで、周子は少し驚いて不穏な雰囲気の中、二人の背中を見送った。

「……酒は、あるか?」
 修三は色のついた酒よりも、ゆるゆると澄んだ酒のほうを好む。
 周子は返事の代わりに、席に付いた修三の前に杯と瓶子とを置いた。
 いつもは手酌で始める修三が、なにやら気怠げに半目を伏せている。珍しく、少し怒っているのかもしれなかった。
 周子が瓶子を取り上げて酌をすると、意外そうに黒目を向けてくる。周子はにこりと微笑むと、サービス!サービス!とウインクしてみせて。
「父さん、元気出してよ!なにかあったら私があいつを仕留めてやるから。キッチリとね!で、当のご本人は?」
「……不貞寝。元気出すのは、ま、あいつの方だな」
「そうなの?ふううん?……じゃあまあいいわ、ほっとこっと。私は父さんさえそばにいてくれればいいんだもの」
 びくん、と珍しく修三の肩が揺れた。揺れた杯の面をごまかすように修三はそれをすっ、と一息で飲み干した。
 しばらく酒をすすめてから、修三は特にこの一年あまりミアム国内を不穏に揺るがしている周子の隷属問題について上げた。そんなの酒の肴になんかならないよ!と抗議する周子の言葉を遮って。
「……あのバカは除けたとして、だが、おまえに言い寄ってくる男はごまんといるだろう?そのどれも気に食わないというか?」
「気に食いません、って、私、そんなにおかしいの?ヘン?」
「……まあ周りはいろいろ言うだろうな」
「ぐぐう、父さん、フォローになってないよ全然。今日もベースに呼び出されて、それでそんな調子だったわけ?可愛い一人娘をかばおうって気は無いの?じゃあ、なに?適当なところで手を打てって?ロンでもツモでもリイチでも、はたまた他の男でも、なんだか自分を丁寧に扱ってくれそうな男で、手を打つべきだと、適当に恋に落ちて、適当に体を赦して、適当に心を赦して、適当に幸せになれって?」
「そのほうが生き易い」
 冷たく短くはっきりとした答えだった、こんなふうに応えるとき、修三がまさにそう思っているのは紛れもないことだと周子は知っている。周子は首を振った。
「イヤ。その綺麗な腕、カッコいいもの、私は父さんみたいな腕でずっと……」
「……まだまだ子供だな」
 何処か気が抜けたように、修三は乾いた笑いを洩らした。
 不意に子ども扱いされたのを感じて周子はムッとして。
「じゃあ聞くけど、父さんは誰かを好きになったことってあるの?よもや父さんまで好きな人の名を刻むとかって言い出すの?じゃあ、その綺麗な腕で、父さんは誰を望むの?父さんの腕にはどうして名が刻まれないの?」
「……全く、おまえのその鋭い言葉は凶器だな」
 あきれたように手酌で酒を注いで修三は口元を歪めた。
「言葉というのは酌と同じで相手のことを思い遣ってからうつすものだ、まして会話は、タイミングと、注ぐ量に注意しろ」
 誤魔化された、と思う気持ちを止められない。
 周子はしつこく問うた。何度聞いても修三は黙って目を伏せるばかりだった。やがて、大きく息をつくと、一層ナゾの深まるような言葉を、ぽつり、と吐いた。何処か、観念したかのように。
「育てているものが有る」
 ここに、と修三は親指でぴっ、と自分の胸を指した。
 その冷たい無表情は、どういうわけか、恋情などとは程遠く。
 修三が飼うものと言えば、と周子は首を捻った。
「ま、魔物か、何か?」
 修三はあっけにとられたようにたっぷりと長い間言葉を失って周子を見詰めた。
 それから、大爆笑した。
 修三のその笑い声に驚いたクレリック・リザートが、ものすごい勢いでドアの向こうから転がり込んでくる。
 どうした!とまるで敵の襲来でもあったかというほどの勢いで周囲を見回して。無論、その手に引っつかんでいるのは真っ二つの剣である。そして、笑い転げている修三を見て、心底奇妙な表情をした。
「イビサに何しやがった?」
「なんか知らんけど、大ウケしてるよ。胸に何か飼ってるって言うから、魔物か、と聞いたら、いきなり。父さんがこんな風に笑うなんて、全然あり得ないよね……え?」
 見ればクレリック・リザートも笑い出している。こちらはくつくつ、と声を押さえて、だが、面白くてしょうがない、といった風に。
「ああ、魔物といえば、魔物だな。百代目、お前はホントに的を突くな」
 時々、クレリック・リザートは周子のことを百代目、と呼ぶ。
 そんなときは、いつものぞんざいであっけらかんとしたエロ親父とはがらりと違って、吐く言葉に、向ける眼差しに、何処か、微小な針のような、棘のような、痛みを伴う何かを含んだような冷徹さがある。
 修三は長い黒髪をかき上げ、ひとつ大きく肩を揺すると深く呼吸をした。
「あ、あはぁ、わたしはもう寝ることにする」
「ええ?だってこれから晩ご飯……支度してたのに?晩御飯の時間だよ?父さーん?もしもーし?さっきは食べるって」
 ゆらりと立ち上がると、ふらふらと、笑い疲れたように肩を落として、修三は自室へ戻ろうとする。その背に声をかけるが、
「わたしを世の時間軸に沿わせるな、あ、あははは、あー、おかしい」
 そう言って修三は、ちら、と振り返る。
「おかしくて、気が、狂いそうだ」
 ピタリ、と周子を見据えて、そう言った眼差しはぞっとするほど冷たくて。狂気の狭間に堕ちゆくかのような妖しく危なげな光を炯々と放っていた。


 周子はそっと顔を寄せると、ギャランの形良い唇にキスをした。
「……なに、している?」
「あ」
 間の抜けた声を上げてしまった。
 周子の口付けにピクリと反応したギャランが戸惑いに揺れる眼差しを向けてくる。
「ご、ごちそうさまでした、あんまり綺麗な寝顔だったものだから?じゃあないか、あー、なに言ってるのかしら、私……」
「馳走?」
 ギャランが、つ、と目を細める。
「こんなものでよければいくらでも馳走してやる」
 ギャランの吐息混じりのささやきに耳をくすぐられ。ギャランの唇が、首筋に触れるのが分かった。
 ギャランは身を捩ると肩を起こした。青い目が上機嫌に細く引かれる。
「すっげいい匂い。良い気分だな」
 そう言ってずい、と顔を近づけ少し首を傾け、唇に触れるかどうかの所でぴたりと止めた。
「なにもそんな恐い顔すんなよな?殺されそうだ」
「え?恐い?」
「ああ、憑り殺しそうな恐い目をしている」
 周子は今の自分があのときの修三と同じ表情をしているのではないかと思った。

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