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[tog_p2_30]「揺れる心」/タトパラ2

「トライフル刑事」〜狂気のロンド ガーナ署トリニティ〜/タトパラ2
第30話:「揺れる心」



 夜勤の守衛が日勤のそれと交代してすぐの時間から就業前までの早朝のこの時間、周子はひとりガーナ署内の資料室で時を過ごす。それはガーナ署に配属されて以来のことで、現場仕事やギャランやカズマその他の余計な干渉がない限り、周子はそうすることに決めていた。
 実際それが続いている所為なのであろう、調べもの熱心な新人刑事、とそんな好意で以って今では守衛の人間から内緒で資料室の鍵を預けられるようにさえなっている。
 その朝、そんな周子ひとりの資料室のドアが、バタン、と遠慮のない音を立てて豪快に開かれた。
「グッモーニン! 周子っちゃん!」
 廊下に漂う朝の冷気とともに飛び込んできた勢いの良い挨拶と、まるで朝日のようにまぶしいあでやかなその金髪に、周子は目を丸くした。
「はれ? ギャラン刑事? おはようございます」
 ほらよ、と缶コーヒーを渡されて、その温かさに周子は思わず目を細めた。
 ―――なんだろ、
 朝一番からギャランのその姿を見るとなんだかラッキーな気がして。子供のときに路上で黄色のナンバープレートをたまたま見掛けた時のような、そんな感じに近いかも、と周子は思った。大人になった今に思えばそれはただの軽自動車のナンバープレートなのだが、それでもなんとなくラッキーな気がしてしまうような、そんなささやかな幸せのように思えた。
「寒ぃな。暖房いれりゃいいじゃん」
「朝のほんの数時間、私一人が使うためにそんな暖房なんて。もったいないですよ」
「風邪引くぞ」
 ギャランはそう言って遠慮なく壁のエアコンのスイッチを入れた。
 周子はいただきます、と断ってから缶コーヒーのプルタブを起こすと、ギャランを見上げる。
「どうなさったんですか、ギャラン刑事、こんな朝早くから」
 んー、とギャランは軽く金髪を掻いて。
「水臭いじゃねぇか。一人でこんな地道に調べ物してるなんざ。しかも、けっこー前からだって? ゆうべ守衛のおっちゃんに聞いたんだよ」
 お前、いつの間に守衛のおっちゃん方とそんな仲良しさんだったんだよ、とギャランは周子の頭を軽く小突いて苦笑する。
 うん、とうなずいて周子は、ちょうど良かった、とデスクの上の包みを引き寄せた。
「今朝なんて、ほら、おにぎりいただいちゃった、守衛さんの奥さんがわざわざ私のために握ってくださったんですって。ひとついかがですか? この時間じゃギャラン刑事も朝ごはんまだでしょう」
「な、馴染んでるなー、ガーナ署に」
「ギャラン刑事の相棒だ、ってコトで皆さんとても親切にしてくださるんですよ。ギャラン刑事はなんだか守衛さんにも掃除のオバちゃん方にも、すごく人気があるじゃないですか、私はそんなギャラン刑事の人徳みたいなものの恩恵に授かってる、そんな気分ですよ」
 そうか? とギャランは首を捻る。
「おっちゃんもおばちゃんも、下手な情報屋よか情報握ってっからな」
 案外オッソロシイぞ、と笑うギャランに、そうそう、と周子もにっこりと同意する。
「掃除のおばちゃん、息子さんが警官の採用試験に受かったんですって。だから、明日のお昼になんとお赤飯を差し入れしてくださるそうですよ?」
 へーぇ、と言いながらギャランは周子の手元の資料に目を落とした。そして一瞬、ちょっと厳しい眼差しをしたが、すぐにもとの表情に戻って。
 そういや、こないだの週末の事だが、とギャランは切り出した。切り出しはしたものの、どう話を続けていいのか分からんといったようにギャランはしばらく考えあぐねて、金髪を掻いた。
「び、びっくりしたな」
「ええ、私もびっくりしました、なんであんなところで警備に紛れてたんですか?」
 あの後、やはりただのパーティなのだと、口腔外科医を呼ぶぞと叫んだカズマを制したエンギワルーに懇々と諭されて、周子はそれを飲み込んだものの、だとすればなおさら余計にギャランがあの場にいた理由がわからない。機会があれば聞いてみようと思っていたところだった。
「ダチが」
 ギャランの口から漏れた言葉は意外な一言だった。
「ダチ?」
 周子は思わず眉を寄せた。改めて考えてみれば確かにヘンな話だろうとは思うが、周子としては、ギャランに友達が、カズマ以外の友人がいるとは、どういうわけか全く思わなかったのだ、なぜ自分がそう思ってしまっていたのか、不意に周子は自分がわからなくなった気さえしてしまった。
「ちょっとヤボ用で、緊急交代。こっそりな」
「交代、って」
 ああいう警備会社って雇う人間の身辺調査には相当厳しいでしょうに、と周子は目を丸くした。
「それで、ギャラン刑事のお友達、ってどんな方なんですか?」
 周子にそう尋ねられて、ギャランは、ん? と首を捻った。
「どんな方、って、あー、いや、よくは分かんねぇな?」
 分からないのに友達なんですか、と聞かれて、ギャラン、うん、とあっさり返した。
「酒場でたまに顔を合わせる男でセキュリティの会社に登録してなんだか傭兵みたいなことしてる、知ってるったらそんな程度かな? 奴の……なんとかセキュアシステムだったかなんだったか、なんかそんな名前の会社、とにかく奴の会社には内緒だし、もちろんおれは公僕だから課長にも内緒。周子ちゃんも内緒にしてくれるよな?」
「え、ええまあそりゃもちろん」
 奴の同僚とやらにいきなり呼び出されてタキシード押し付けられて。ま、週末ったって、どうせヒマだったからおれは全然構わないがな、とギャランは笑う。
 ギャランのその屈託のない笑顔に周子もまた微笑んだが。
 誰とでも親しいギャラン、それはある意味、むしろ誰ともそう本当に親しいわけではないような気がして。物事にこだわらないギャラン、自分もそういった内の一人だろうか、と思って周子はなんとなく淋しく思った。ギャランにとって特別な友人でありたい、それは過ぎた望みだろうか、と周子は内心そっと思った。
「なんでも、奴の妊娠七ヶ月のかみさんが破水して緊急入院したんだとよ?」
 えっ、うそ、と周子は真面目な表情をした。
「七ヶ月じゃまずいじゃないですか」
「まァでも、無事に生まれたそうだ、律儀に連絡寄越しやがって。早産だがな、保育器っていうの? なんかそんなのに入ってるらしいが元気だってよ、ベビーってのは生命力がつえーんだな」
 周子がほっとした表情をしたのが、ギャランはなんとも胸が温かくなった。それを缶コーヒーの所為にしてごまかすかのように、ギャランはぐびぐびっと自分の缶コーヒーを一気に呷って胸に温もりを収めた。
「赤ちゃんかー、見てみたいなー」
 ぼそっと呟いた周子の言葉にギャランは飛び上がった。
「あっ、ちが! 違いますよ、そういう意味じゃなくて」
 周子は慌てて缶底をデスクにたん、と叩き付けると、ギャランの腕を引いて強く否定する。
「に、妊娠なんてないですから! だ、だって私、新人刑事ですよ! ようやっとガーナ署捜査一課の刑事になれたのに、ソッコーで寿退職も産休も育児休業もない、ないです、ありえませんから!」
 こうしてせっかくギャラン刑事の相棒になれたのに、と言葉を続けると、ギャランはびくり、と一度肩を震わせて、照れたようにその金髪を掻いた。
「子供って、どのくらい親に似るものなんだろうと思って」
 周子は真顔だ。
「先日のパーティで補佐官のお父様にお会いしたんですけど、ビックリするほどそっくりだったもので……髪の色とか、目の色とかが全く同じで……まぁ、顔立ちはそうでもないんですけど」
 周子はそう言ってギャランを見上げた。
「ギャラン刑事のお子さんは、やっぱり金髪でしょうか」
「お、おれの子っ!?」
 思いも寄らぬ周子の言葉にギャランは青い目をまん丸に見開いた。
「ギャラン刑事のその金髪はすごく綺麗ですから、羨ましいなと思って。どうしたらそんな綺麗な色が出るんだろうと思って。その金髪、好きですよ?」
 周子のその眼差しにギャランはたちまち真っ赤になった。
「お、おれはこの金髪に感謝する、おれは金髪でよかった、金髪バンザイ」
 タネならいくらでもやる、と言いたいところだが、とギャランは真顔でそう呟いて、それから、うわー、だめだだめだおれすっげおやじくさくね? とデスクに額を打ちつけた。
「第一カズマに殺されるし」
 ―――ないない、
 周子は苦笑した。
「ねぇギャラン刑事? どうして補佐官は、お父様と仲が悪いんですか?」
「やりにくいのか?」
 ギャランは心配そうに眉を寄せる。
「親戚縁者のつきあいってのは難しいんだってな。ソリがあわないとかそんな感じか?周子ちゃんくだらねぇ苦労してるんじゃねぇだろうな? まさかいじめ……」
 周子は慌てて首を振った。
「いえ、そういうのじゃなくて……。私は父とはすごく仲が良かったものですから。補佐官見てると、血のつながった肉親なのになぜ不仲なのかなぁ、って」
 おれもわかんね、と首を捻るギャラン。
 そしてギャランはちょっと眼差しを厳しくした。
「なぁ、周子ちゃん、補佐官って、ナンなの? おれは前にも言ったが、自分の旦那をなんで名前で呼ばないんだ、おうちで刑事ゴッコ、とかじゃないんだろ? カズマはあいつすこぶるノリが悪いからな」
「うあ」
 そ、それは、恥ずかしいんですヨ、だからですヨ、と周子は視線を泳がせてパタパタと手元の資料で頬を扇いだ。ギャランはその資料を取り上げて。
「五年前の例の航空機爆破事件をまだ洗ってるんだな?」
 やっぱりばれてたか、と周子は小さく舌を出した。
「事件、と、もはやはっきりとそう仰るんですね」
「忘れろ」
 ギャランはきっぱりとそう言ったが。周子の勝気な黒目にすぐに苦笑いして。
「……って言っても無理っぽそうだなァ?」
「ええ。そのつもりです」
 父を探してるんです、と周子は気丈に言った。
 始業のチャイムが鳴った。
「じゃ、行くぞ」
 ギャランはさばさばと気持ちを切り替えるようにそう言うと周子を促した。
 はい、と短く返事をして立ち上がり、資料をてきぱきと片付ける周子、ジーンズに白シャツ、このごろ量販店で流行っているラムウールのカーディガンを羽織っているごくごくありふれたラフなその姿。たしかに捜査一課は私服だが、周子のそれは、ここは休日の図書館ですといっても十分通じるくらいに庶民的で気負いのない格好である。
 ―――それにしてもお前、ずいぶんと綺麗だったぞ?
 ギャランはその言葉を飲み込んだ。
 あの夜、パーティ会場で見かけた華美な印象はもはや何処にもない。
「朝イチでモルグに寄る」
「うそっ!」
「昨夜腐乱死体が港であがったんだと。けっこーひでぇって、アシュー課長が言ってた。昨夜ひとまず収容したそれを、監察医に引き渡せって」
「ホントですか! いまさっきおにぎり食べちゃったじゃないですか! ソーユーときは先に言ってくださいよ、見るなり戻しちゃったらどうするんですか!」
 腹ごしらえは大事だ、見たら見たらでその後食えなくなったら困るだろが、と言うと周子に背中をばちん、と叩かれて。
 遠慮なく背中を叩いて寄越した存外に強いその勢い、こんな周子こそが、自分にとっての周子だとギャランは思う。カズマの妻でも何でも、こうして現場で相棒を組むのは自分なのだ、周子をいざと言うとき守るのは自分なのだという揺らぎない信念がある。ギャランは口を尖らせた周子にまあまあ、と言って明るく笑うと、相棒らしく気軽に腕を回し、その肩を抱いた。
 と。
 ふいに、周子の頭がことん、と自分の胸に寄せられて。
 ギャランはちょっと驚いて目の下の周子の黒髪を見た。
 周子を守るのには、確かに揺らぎない信念がある、だが、抱き寄せたその肩の華奢な感触、予想外に大人しく身を寄せてきたその甘い女の色香に、ふっと理性を飛ばしてしまいそうな、これで本当に相棒然として笑っていられるのかどうか、となると正直、自分を信じきれないような気がしてならなかった。

「あ、あのぅ、すみません……なんだかこういう事に」
「全くあいつもバカな男だな。惚れた女を他の男の下に送って寄越すとはな」
 カズマはほとほとあきれたように息を吐くと、上がれば? と周子に言った。
 そのそっけなさが周子にはなんとも有難かった。
 既に夜半を過ぎている。周子のバイクを署内に置いたまま、現場から直帰することになると、ギャランはそのまま周子をカズマの自宅へと送ってくれたのだった。とんだありがた迷惑だったが、そうあからさまに辞退することもまた出来なかった。
「ギャランのことだ、玄関より内に入るまでは外で見守っているとか言うんだろ、過保護な男だ、キッズナップされるわけあるまいに」
「よくお見通しで」
 周子は一歩中に入ると、ためらいがちに後ろ手で玄関のドアを静かに閉めた。
「入れてくれなかったら、どうしようかと思いました……」
「そんなことしてみろ、私の脳天に風穴が開くだろうよ、ギャランの口径のな」
 カズマはさばさばとそう言うと、車椅子をくるりと回転させ周子に背を向けると、廊下を戻ってゆく。周子は静かにその後ろを追った。
「…………」
 居間に通されてソファに座った自分の前に、コーヒーカップが置かれて周子はぴたり、と硬直した。遠慮がちにカズマを見る。
「なんだその顔は。毒は入ってないぞ、ついでだついで」
 大体そんながっつり傷ついた表情してるくせに私に気を遣うな、とカズマは言った。
「はぁ、すみません」
 うん、とカズマはやはりそっけなくうなずいて自分の分のコーヒーをすすった。
 周子もコーヒーをすする。
 一口すすると、涙が出てきた。
 カズマがピクリ、と一瞬硬直し、そしてまいったな、と呟いて軽く頭を掻いた。
「元はといえば私が悪い。それは認める。相棒の新人刑事がヒゲのおっさんなどとギャランのついた稚拙な嘘が面白くてちょっとした冗談のつもりで君を巻き込んだんだ。それが、結果的に君とギャランとの相愛を裂くことになって、正直言って済まないと思っているよ。だからそうやってじりじりと私の良心を苛むのは止してくれ」
「いえ、補佐官とラブラブの新婚でいちゃいちゃだと公言したのは私ですから」
「言うな、なんだか痒くなるだろが」
 カズマはそう言って苦々しげに口の端を下げた。
「ギャランと君とが相愛であると判明した以上、いつまでも君を私に添わせるわけには行かない。好きあった二人を裂くなぞ私の美儀に反する。もうしばらくしてほとぼりが冷めたら、入籍せざるを得なくなった張本人のルシウスの首根っこを押さえて上手い具合に始末するつもり……」
「始末って! ルシウス警視総監を殺すおつもりですか!?」
 周子刑事ィ、とカズマはがっくりと項垂れた。
「そんなはずなかろうが。彼は私とは血のつながった従兄弟だ、話せば分かる」
 ふうん、と周子はうなずいて。
「なんだか補佐官、今夜はずいぶんと引いてますね? のっけからご自身の非を認めるだなんて。こないだ本気で口腔外科医に電話しようとした人と同一人物とは思えません、エンギワルーさんがいなければ今ごろ私、舌切りスズメでしたけど」
「……。しっかし本当に達者な舌だな、君の舌は」
 カズマはつくづくあきれて。周子にティッシュを箱ごと差し出すと、その涙を拭かせた。
「もう遅いし、泊まっていけばいい」
「いえ、せっかくですけど」
「よもや私に車で送らせる気かね?」
「そそそそそんな! とんでもない」
 周子は慌てて首を横に振った。
「じゃあ、泊まっていくんだ、こんな夜遅い時間に君を一人で実家に帰そうものなら、それこそコッチがギャラン刑事に殺されるからな。部屋なら空いてる、ゲストルームを好きに使ってくれてかまわない、一通りのものは揃っている筈だ」
 そう言ってカズマはシャツの首元のボタンをひとつ外すと、ぐりぐりと首を回して大きく伸びをした。
 自分の分のコーヒーカップを几帳面にキッチンの流しに下げてから、どうする? とカズマはもう一度周子に聞いてくる。
 この夜半まで、何かは知らぬが手を離せぬような仕事をしていたらしかった。軽く緩めたシャツの胸元からぞんざいな疲れのようなものが漂っている。
 周子の意思を再度聞いてくるあたり、今夜のカズマの態度は以前よりもはるかに柔和で。この感じだとおそらく、送って欲しい、と言えば多分文句のひとつも言わずに送ってくれるだろう、と周子は思った。
 だが、そう強要するにはなんだか疲れているらしいカズマに悪いような気がして。
 周子はカズマの疲労を見てとって、大人しくうなずくとカズマの申し出を了承した。

「……来はしない、か。……おれもバカなもんだな」
 カズマの自宅から少し離れたところの路肩に停めた車中で、やがてギャランはハンドルに顎をのせ、乾いた自嘲を漏らした。
 偽装結婚、あの日桜井に吹き込まれたあの一言、以来どうにもカズマと周子の仲に疑惑を抱かざるを得ないような気がしていて。
 こうして張っているのは、ひょっとしたらカズマの自宅から周子が出てくるのではないかと思ったからだ。カズマとは一緒に住んでいないのかもしれない、とそんな気がしていたのだ。カズマの性格を思うと、一朝一夕で他人と打ち解けるはずがない、まして他人を自分の生活範囲内に入れるとは到底思えなかったのだ。
「かみさんは別、か……」
 例えば事件の捜査で、何かを疑う際の己の天性の勘には自信がある、だがそれが、親友とその妻との間柄を疑う、となるとなんだかやはり、自分が周子を想えば想うほどに増しゆくこの嫌な執着めいたものによってあらぬ方向へ捻じ曲げられているような気がして。自分の勘を信じてはいけないような気がした。
 周子が家の中に消えてからかなりの時間が経っている。普通なら、とうに寝入っている時間に相当するだろう。
「ヤってんのかな、今ごろ……」
 ぼそっとそう呟いて、ギャランはうわあと頭を抱えた。
「…………泣きそう、おれ。ああもう何やってんだろ、人妻狙って張り込みか? 最悪……」

 深夜、なんとなくくぐもった人間の声がするのに気が付いたカズマはその声のするほう、居間の方へとそっと慎重に車椅子を進めた。
「おい、君……」
 電気もつけず、真っ暗な居間のソファの上で膝を抱えるようにして小さく座って周子がテレビを見ていて。
 廊下からそっとのぞきこんでその様を確認するなり、カズマは手にしていた拳銃を車椅子と己の背との間に滑り込ませた。
「どうしたんだ、真っ暗なこんな居間でテレビなぞ。ゲストルームにもテレビがあるはずだが、映りでも悪かったか?」
 周子は小さく首を振った。
 ふむ、とカズマは首を捻るとテレビの画面に目をやった。点いているのはたいして面白くもない深夜のバラエティ番組、テレビに向かいながらも周子がそれを見ているわけではないのは明らかだった。
「なんか……」
 ―――淋しくて。
 言いかけたものの、言葉に出来ないそんな感情に周子は口をつぐんだ。
 たまさかに白転したテレビの画面に照らされた周子の、消え入りそうな、切なげな表情を見たそのとき、カズマは唐突に胸が鳴ったのを知った。
 息苦しいようなその感覚にしばらくの間押し黙って。
 はたり、とかすかな、なじみのない音が耳を掠めて、カズマはふと周子の座っているソファの上に手をやった。
「髪が、濡れたままじゃないか」
 はたり、はたり、と至極ゆっくりとした間をあけて、周子の背の髪から滑り降りた水滴がソファの革を打っているのを知って。
 思わず手を伸ばして触れた周子の髪はぞっとするほど冷たかった。
「風邪を引くぞ、周子刑事」
 君は自己管理もロクに出来ないのか、常ならばそんな皮肉のひとつもぶつけてみるところだったが、なんだか周子が泣き出しそうで。
 皮肉を飲み込んだところで、たとえその代わりに優しげな言葉をかけてみたところで、やはりそれでもなんだか周子が泣き出してしまいそうな気がして。
 カズマは途方に暮れた。
 口をつぐんで沈黙したままの周子を眺め、どうしたらよいものかと声を掛けるのを長くためらっていたが、やがてその沈黙に堪えられなくなったカズマは、居間を出るとドライヤーを手に戻ってきた。相も変わらず車椅子に乗ったままなのだが、器用に身を屈めて手近なコンセントから電源を取ると、黙って周子の冷え切った髪に指を伸ばした。
 すっかり冷えきって重かった黒髪は、ドライヤーの熱風をあてられるうちに、やがて絹糸のような光沢を取り戻し、面白いくらいにカズマの指先でしゃらしゃらと可憐な音を立てた。
 ふうん、とカズマは小さく感心したような声を漏らした。
「ギャランのあのあでやかな金髪は相当に珍しい美しさだが」
 美しいものに感銘を受ける感受性は十分に持ち合わせているつもりだ、とカズマは断ってから、
「黒髪もまた綺麗なものだな」
 率直にそう感想を述べた。それからちょっと笑って、カズマらしい切り口で付け加えた。
「見事な優性遺伝だ」
「優性、ですか」
 ようやく周子がぽつり、と言葉を返してきて、カズマは内心ほっとして目を細めると、言葉を接いだ。
「君のこの髪はどんな色の髪の持ち主と掛け合わせても、見事な黒髪の子が生まれるだろうと言うことさ、おそらくその瞳の色もね」
 周子の肩が小さく揺れた。
 そして周子はため息のような小さな息を吐くと、もう一度自分の膝を抱えなおした。
 寂しげで切なそうなその素振り、そんな周子の背中がいっそう小さく感じられて。カズマはなんだか妙な不安を感じた。なにかまずいことを言っただろうかとも思ったが思い当たる節はさっぱりである。むしろ誉めたつもりだったのだが。
「いつも勝気な君がそうだんまりを決め込むと調子が狂うじゃないか」
「……」
 返ってこないその反応にカズマはやれやれ、と肩の力を抜くと、髪を乾かすことに専念した。
「この、種としての力強さ、悪くないと思うが」
 黒髪を完全に乾かし終えると、カズマは元気づけるようにそう言って微笑んだのだが。
「寝たのか?」
 ソファの背に額を押し付けるようにして小さく肩を震わせる周子、かすかなその息遣いが、すすり泣いているのだと気付いた時には、カズマはもう、全くと言っていいほど、どうしたらよいのか分からず途方に暮れた。


(第31話へつづく)
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