コハリトりみっと
長編恋愛FT「タトゥー・オブ・ギャラン」がメインの小説・雑記サイト。
初めての方へ | 絵板 | RSS![]()
Entries
「トライフル刑事」〜狂気のロンド ガーナ署トリニティ〜/タトパラ2
第31話:「ワンゲージ未満」
「へくしっ!」
盛大にくしゃみをするカズマに箱ティッシュを差し出して、エンギワルーが心配そうにその顔を覗き込む。
「どうなさったんです、若? お風邪をお召しで?」
若が居間で車椅子に腰掛けたままメガネも掛けたまま眠り込んでいるのを拝見したときにはそれこそビックリしましたよ、とエンギワルーは言う。
朝、朝食の支度をしようと邸内の離れからカズマの自宅を訪れたエンギワルーは、居間の光景を見て我が目を疑った。その衝撃たるや、いままで生きてきた中で一番驚いたと言っても良いくらいだった。
居間のソファの上で周子が眠りこけている。ありえない来客、しかも昨夜エンギワルーがカズマの前を退出した後だろうと思うとそれは深夜に違いなく。怪我をした野生の動物か何かのように小さく丸くなって寝入っているその体の上には毛布が掛けられていて。敏いエンギワルーは、彼女が泣きながら寝入ったことにすぐに気がついた。
どうしたことかといぶかしみながらもひとまずその寝息を確認して。別段具合が悪いわけではないのを察すると、気を取り直すかのように首を回した。
そして、そのソファのすぐ隣で車椅子の肘掛に肘を付き、そこに顎を乗せたままの状態でうとうとと眠っているカズマを見る。
こちらはなにか考え事でもしていたのか、そんな苦い表情で、胸のボタンを二つ三つ外した白シャツ一枚のまま、何か羽織るでもなく寝入っていた。日頃几帳面なカズマのことを思えば、こんな薄着のまま居間でこうして転寝をするなど、それは全くありえない光景だった。点きっぱなしのテレビではすでに朝のニュース番組が流れている始末。
もともと神経の細い男、カズマはすぐにエンギワルーの気配を察して目を開けたが、エンギワルーと周子を見比べて、あ、と気まずそうななんともいえぬ微妙な表情をした。が、次の瞬間、ぶるりと肩を震わせ、くしゃみをひとつ。
なにか温かいお飲み物を、と言うエンギワルーの後に続いて、カズマはダイニングへと車椅子を向けたのだった。
エンギワルーは小鍋をコンロにかけると。
「夜通しで口喧嘩でも?」
「失敬な!」
真顔で尋ねてくるエンギワルーにカズマはぴしゃりと短く返した。
「あらかじめ言っておくが、私は何もしていないぞ!」
しっ、お静かに、起こしてしまいます、とエンギワルーは人差し指を口に当てて。
「そんなことつゆ申し上げておりませんよ」
「そう顔にでかでかと書いてある」
カズマにそう言われて、エンギワルーはその八つ当たりぶりに参ったな、とひとつ己のスキンヘッドをなでた。カズマは己の両肩を抱くようにしてぶるりとまた震えた。
「寒気がする」
「お風邪ですな」
冷静なエンギワルーの言葉にカズマはつくづく嫌そうな表情をした。
「なぜ私が風邪を引かねばならんのだ、万全の体調管理が基本のこの私が」
「そんなシャツ一枚で居間で寝こけているからですよ」
どうぞ、と目の前に差し出されたのは蜂蜜入りのしょうが湯で。たしかによく温まる、と思いながらそれをすするものの、こう、何もかもを心得たようなエンギワルーのこのタイミングがなんとも癪に障る気がした。
「しかしエンヴィ」
聞くが、とカズマは短く断ってから真顔でエンギワルーを見据えた。
「女の髪を誉めるのはそう悪いことではなかろう?」
「はあ。まあ、口説き文句の常套ですな?」
いや、お前の応えのその後半は認めない、とカズマはきっぱりと否定してから、
「悪くはないはずだ」
と唸った。
―――珍しく本音で誉めたのに。なにも泣くことはないじゃないか。
「若が周子殿の黒髪を誉めたら、泣かれてしまったんですか?」
エンギワルーにストレートにそう尋ねられて、思わず、うぐぐ、とカズマは返答に詰まった。
「客観的に言えばそうなるかもしれないが、断じて違うぞ」
エンギワルーのこの問いを否定する術がサッパリ分からない、内心そう思ってカズマはしょうが湯を胃に流し込むと、私は体調回復のためにしばらく眠る、とだけ言い捨ててダイニングを後にする。
「若、周子殿はどうしたら良いですか?」
「知るか! 寝かせておけばよいだろが!」
エンギワルーは、私に関係があるものか、とでもいいたげなカズマの後姿と居間のソファでまだ眠っている周子の毛布の盛り上がりとを見比べ、それからカレンダーを見て、少し逡巡した。だがやがて、ふむ、とひとつうなずくと自分の胸ポケットから携帯を取り出して。
今日は平日である、さすがに無断で欠勤させるわけには行くまい、と思ったのである。
「ああ、ギャラン刑事でございますか? おはようございます、ええ、実は……」
エンギワルーは一度言葉を切ってから、丁重に言い伝えた。
「周子殿は昨夜は補佐官とご一緒で大変に遅かったようでございまして……ええ、大変にお疲れのご様子、今なおぐっすりとお休みでございまして……本日はお休みを取らせていただきたいと存じます、アシュー課長にその旨よろしくお伝え願えますでしょうか」
ガッシャンガラガラ! と階段を踏み外して転げ落ちでもしたかのような派手な転倒音が向こうから響いてきた。そして一拍遅れてから、コンクリート地に落ちたのか何なのかばきゃっ、と手にしていた携帯を何かに叩き付けでもしてしまったかのような、物理的な破壊音とともに携帯の通話が途切れた。
はて何かまずいことでも言ったろうか、とエンギワルーは目を丸くして己の携帯をまじまじと見つめた。
なんだかいい匂いがする、と起き抜けにそう呟いてから、周子はあれ? と周囲を見回して。見慣れぬ室内、知らぬソファの上で寝ていたらしい、身体に毛布がかかっているのを見れば、誰かが毛布を掛けてくれたのだろうとは思うのだが。
ソファの上で大きく伸びをした途端、のけぞった己の頭のすぐ先にハゲの仏頂面を見てしまい、逆さにキスでもしてしまいそうな程の近さに思わず周子は、のわ、と奇妙な声を上げてソファの端まで飛び退った。
心配そうに覗き込んでくるエンギワルーを見て、そういえば昨夜はカズマの自宅に泊まったのだったと思い出して。
「あの……すみません、毛布を掛けてくださったみたいで……」
「…………。いいえ? お風邪を召すことなく、何よりでございます」
少し沈黙して周子の言葉の意味を解析し、つまりはカズマが掛けてやったのだと知ったエンギワルーは、表情には出さぬものの大変興味深く思った。
「周子殿、食事の用意が出来ておりますが」
お口に合いますかどうか、と丁重に申し出られ、きょとんとしたまま周子はダイニングの椅子に座らされた。
―――なんだこの光景は。
ダイニングのテーブルに食事の支度が二人分。既に小さな男の子がテーブルについていて食事を始めている。エンギワルーとコンジョナシの分であるらしく、空席のエンギワルーの分にもほんのわずかに箸がつけられていて。エンギワルーは手際よく周子の座った前にもう一人分の食事を並べた。
小さな子供に、先にいただかせております、いつお目覚めになられるか分からなかったもので、と申し訳なさそうに言われて、周子は慌てて首を振った。
「え、ええーっと、コンジョナシ君、だったけ? 君、幾つなの?」
「今度の四月で六歳になります」
丁重にそう返され、周子は目を丸くしてエンギワルーを見た。
「六歳!? すっごいしっかりしてる!」
エンギワルーは、つ、と上機嫌に目を細めた。
―――あ、あれっ?
「まだまだ不束者で」
そうは言うものの、エンギワルーのその表情は誇らしげだ。
「友達の子供なんて、既に六歳だけど、全然ただの子供ですヨ!? すっごく質のいい育てられ方をしてるみたい」
「は、いや、ははは」
エンギワルーはたちまち破顔した。この緩んだ笑顔を見れば、猫可愛がりに可愛がっているのが容易に知れた。
―――なんかすっごく可愛がってる感じ?
コンジョナシはくりっくりの褐色の巻き毛でその顔立ちも愛らしくまるで女の子のよう、エンギワルーとは似ても似つかぬ愛らしさだが、褐色の肌と目の色をみれば、やはり親子だろうと思う。
エンギワルーは仏頂面のスキンヘッド、むしろ強面の男である。しっかりと鍛え上げられた厚みのあるその体は、格闘家と言ってもおかしくはないかもしれないが、やはり、ボディガードといったほうがずっとしっくりくる、それが、エプロンをしめて食事を作っているのだから驚く。そういえば最初に会ったときには手にクリーニングの包みを持っていた。
「エンギワルーさんはいつもこんなことをしているの? 補佐官の身の回りの世話を焼いたりとか? こんな小さな息子さんがいらっしゃるのに日夜補佐官の世話を? ずーっと? 長いの?」
「ええ、まあそんな感じで。お仕えさせていただくようになったのは五年ほど前くらいからでしょうか」
「ありえないよ。いくら車椅子に乗ってるからって、補佐官はいい年こいた大人の男ですよ? ごはんの支度も掃除洗濯も自分でやるべきでしょうに」
周子の言葉になんと恐れ多いことを、とエンギワルーが目を剥いた。
「若は大変にお忙しい方でいらっしゃいます。あの優秀な頭脳でなすべきことは多々ございますれば、家事のような瑣末なことにかまけるべきではございません、まさに適所適材、このような身の回りのお世話は私、使用人の仕事でございます」
「適所適材、って……」
―――アンタこそ、仏頂面のスキンヘッド、そんなごついガタイでスヌーピーの可愛いエプロンしめてお料理してるのはどうだろう、
と、周子は思ったのだが。料理をひとくち口に運んで目を丸くした。
「うっわ、美味しいです……美味しい、エンギワルーさん、すっごくお料理上手いんですね!」
「さようですか、ありがとうございます」
エンギワルーににっこりと微笑まれ、その仏頂面のたまさかに変化した笑顔に周子はなんとなくビミョーな気分を味わいながらもまた箸を運んだ。味はとにかくいい。
「コン君のパパ、すっごくお料理上手だね、まるで一流ホテルのシェフみたい」
そう言うと、コンジョナシはすごく嬉しそうににっこりと微笑んだ。
―――うわっ、どーしよ、この子、すっごい可愛いよ!
「コン君はいつもなにして遊んでるの? あーあのさ、あれ、カブトムシとかが戦うヤツとか、好き? おばちゃん、あれのカードいっぱい持ってるよ? おばちゃんの友達の息子さんがね猛烈に集めてて……」
「好きです。僕も少しは持っています」
コンジョナシは少し照れたように頬を染めた。こんな可愛い仕種なら、あらかじめ男の子だと知っていても、思わず女の子向けのオモチャを買い与えてしまいたくなる、と思ってしまうほどの可愛らしさだった。
「そう、じゃこんどおばちゃんが強いヤツあげるよ、全部持ってくるから選んでいいよ、バトルしよう」
コンはちょっと複雑そうな表情をした。
「あれ? イヤ?」
「いえ、とんでもないです。ただ、おばちゃん、はなかろうかと。こんなお若くて美人な方を前にそのようにお呼び申し上げるのは真に心苦しい限りで」
その言葉遣いに、周子は思わず、だーっと口の端からオレンジジュースをこぼした。
「お姉さまとお呼びさせていただいてよろしいでしょうか」
―――うわぁなにそれ、この子中身何歳なの!?
「は、いや、おねぇちゃんとか、周子ちゃんとか、そそそそのあたりで……」
「コンは世辞は言いませんよ。周子殿はどうやらコンに大変に気に入られたらしいですな」
エンギワルーが上機嫌に笑う。
「コンは若には大変に可愛がっていただいておりまして。子持ちの私が不自由なくお勤めさせていただけるのも、若の細やかなご配慮によるものでございます。ああとっつきにくそうみえて、ですが、若は一度近くに寄せた人間には大変にお優しいのですよ。こうして一緒に食事をとらせていただいたり、極力お邪魔にならないように、コンも私と同様、おそばにおいていただいております」
「でも、例えば先日のパーティみたいなときって、コン君はどうしてるんですか? お父さんの帰りがすっごく遅くなっちゃいますよね」
「なんのひとりで留守番くらい」
エンギワルーは苦笑する。
「まあ、再婚のひとつでもすれば状況はもっと楽になるのでしょうが」
「あなたも女嫌い」
「違います」
慌ててエンギワルーは否定した。妻を五年前に亡くして以来どうもなかなかそういう気分にはなれなくて、とちょっと真面目な表情でスキンヘッドを掻いた。どうやらコンジョナシが生まれて間もなく妻と死別したのらしい。
「僕は父上に早く再婚してもらいたいと思っているんです。僕は兄弟が欲しいんです、絶対に。兄弟がいれば一人で留守番することもなく、何かと楽しいはずです」
「これ、コン」
エンギワルーは素早くコンジョナシを嗜めるが。
「おねえさまからもそう父に命じてください」
命じる、って、と思わず周子は両眉を上げた。
「……申し訳ございません、この話になるとコンは非常に固執するもので」
「へぇ、コン君、お父さんに再婚して欲しいんだ? 息子さんのほうからそう言い出すんなら、そりゃもう全然オッケーじゃないんですか? 普通は逆って聞きますけど」
ええまぁ、では前向きに、とエンギワルーは苦笑する。実際、カズマが結婚してから、などと義理立てていたわけでもないが、実際それがひとつの踏ん切りをつける目安にしていたといえばそうである。正直言えばもっと先になるだろうと、おそらくビジネスの延長でどうにも断りきれぬ縁談を受ける、そんな具合だろうと、意に染まぬままに進められるであろう主の婚姻を気にかけていたのだが。
周子との入籍は事故とでもいったほうがしっくりくるような感じだったが、だが、ソリの合わない二人でも、一緒にいれば情が湧く、そんなものをエンギワルーは内心密かに期待した。
「おねぇさまみたいな人が僕のママになってくれたらいいのに。あかるくて美人で優しくて、僕、おねぇさまを一目見た時からこの人がいいって思ったくらいなんです」
「コン。……すみません、気に入った女性を見つけるともう、そう言って聞かなくて」
エンギワルーはコンジョナシをひと睨みして言った。
「周子殿は若の奥方様だ、身に過ぎた望みを言ってはいけない」
コンジョナシの褐色の瞳がショックを受けたように泣き出しそうに揺れたのを見て、思わず周子がエンギワルーに抗った。
「子供だもん、好きなこと言ったっていいじゃない! エンギワルーさん、私、シッターしますよ、お泊りして面倒見たっていいですよ! 夜寝る前には絵本だって読んじゃう!」
「本当ですか!?」
ぱっとコンジョナシの顔が輝いて。その輝きのなんと愛らしいことか。
「いえ、それはとんだご迷惑では」
いいのいいの! と周子はコンジョナシの手を取った。
「五歳児のコン君よりも補佐官のほうがはるかに手がかかるってワケなんでしょ」
なんと辛辣な口を利くのだ周子殿、とエンギワルーは青ざめた。
ちょうどそのとき、
「まったく、ちょっと元気になれば早速私をこき下ろしているわけか」
あきれたような、冷え切った声がダイニングに響いた。
エンギワルーが慌てて席を立ち上がる。近寄って、気遣うように車椅子のカズマの顔を覗き込む。
「若、どうなさいました?」
「ああ、薬を飲みに」
寒気も頭痛もひどい、そう言ってカズマはうんざりと緑髪を掻いた。あれから二時間ほど眠ったらしいカズマの緑髪は寝乱れている。
お呼びくださればよかったものを、とエンギワルーは言いかけて、すぐにそれを飲み込んだ。なんだかんだいって周子のことが気にかかったのだろう、カズマがわざわざこちらのほうへ様子を見に来たのだと知れたからだ。カズマはちらとも周子のほうを見ず、それはまるで気のない素振りだが、日頃のカズマの様子を知っているエンギワルーからすれば、そんなことは容易く知れた。
エンギワルーから水の入ったグラスを受け取ると、カズマはいったんそれをダイニングテーブルの上に置き、手にしていた錠剤のシートから薬を取り出そうとしたのだが。
不意に周子が声を掛けた。
「ああ、補佐官、お薬を飲むんなら先になにかお腹の中に入れてからのほうがいいですよ? 召し上がったらいかがですか」
「なに?」
カズマが真顔で聞き返す。
「なんかすっごい顔色悪いですよ? 風邪でも引いたんじゃないですか?」
「……君はまったく……」
カズマはそうぼやいてうんざりと緑髪を振った。
誰の所為だと思ってるんだ! と言うのを飲み込んで。周子のやけにサッパリしたその言葉と表情は昨日の様とはまるで別人で。昨夜のあれには触れないほうが良いだろうとカズマは思った。
それから、ダイニングの光景をしげしげと眺めて、ちら、と首を捻った。
「なんだか家族の光景だな」
コンジョナシの表情がぱっと輝いた。
「ほら、父上、やはり後添えを」
「ノチゾエって、それ五歳児の言葉じゃないよ、コン君」
思わずむせながら周子がそう返した。
それからほんのちょっと淋しげに笑って。
「でも、私、父さんがいなくなってから家族なんてもう五年もいません……いいな、家族。補佐官、私たまにお泊りしてもいいですよね?」
「え? ……あ、ああ、かまわない、が」
ここにか? とどこかほんの少し息苦しいような胸の鼓動を感じてカズマは聞き返した。君には他に身寄りがいないのか、と尋ねれば周子は素直にうなずく。
「ま、まあ君は一応は私の妻なワケだし……」
周子のふとした淋しげな表情は、カズマの苛立ちやらそっけなさやらを一気に瓦解させた。
カズマはちょっと笑って。
「一緒に暮らすか、周子刑事?」
「無理に決まってるじゃないですか、カズマ特別補佐官」
何言い出すんですか、と真顔で返されて。
「私はこちらの離れでコン君と一緒におねんねするんです」
きっぱりとそう返されて、カズマは迂闊にそんな言葉を吐いた己の舌を呪った。昨夜以来、どうも周子の言葉一つ一つに振り回されるような感じで、カズマはその未だ知れぬ感覚に苛立った。
「いや、まて、周子殿」
エンギワルーは瞬時に青ざめると慌てて周子の言葉を却下した。
離れといえば、自分の自宅である。たとえコンが理由であろうとあるいはどんな理由であろうと、仮にも己の主人の奥方をそうそう泊めるわけには行かぬ。
たちまち不機嫌になったカズマは、ちょっと待っていろ、と言ってキッと周子を睨むなり、ダイニングを出て行く。戻ってきたカズマは丸められた大きな図面のようなものを片手にしている。
「私の自宅の図面だ」
カズマは周子刑事こちらへ来い、と短く命じてダイニングから居間のテーブルに呼びつけると、その上に図面を広げた。
「妻が離れに入り浸るなど聞こえが悪い、エンヴィの不在時にコンの面倒を見る気ならここでシッターをしろ、よって、予め君の棲息区域と私のそれとをハッキリさせておく」
「は? 棲息だなんて言わないで下さい」
人のことなんだと思ってるんですか、と周子はたちまち口を尖らせた。カズマは周子を無視して話を続ける。
「玄関と居間、キッチン、ダイニングは共有でいい。バストイレは君の部屋についているのを使ってくれ、そう、昨夜のゲストルーム、ここが君の部屋だ、以後は自由に使ってくれて構わない」
キュキュキューッ、と赤の油性マジックで図面に鋭い割線を引き、最後に周子の部屋だというその場所を赤で几帳面に塗りつぶした。昨夜案内されたその部屋はちょっとしたホテルの一室のようだと思っていたが、こうして図面を見れば、寝室と居室との二部屋続きの広い洋室にバストイレのついている、かなり立派なゲストルームである。
カズマはコンコン、と図面に引いたその赤い線をペンで示して。
「この線を越えての立入りは互いに禁止。私もそちらの区域には一切出入りしないと誓う。家具などは一通りの物が備え付けられているが、気に入らなければ好きなものに代えてくれて構わない、入り用な物はこのエンギワルーに言いつけてくれ、何でも彼に言えばいい、一切の費用は私が負担する」
費用だなんて、と、周子はぶんぶんと強く首を振って拒否した。カズマの紫瞳が厳しさを増す。
「妻なら養われて然るべきだ」
「私にはそれなりに収入がありますし、大体、妻ならこんな立入り禁止線なんて設けませんよ! わけわかんない」
あーやだやだ、と周子がきっぱりと言葉で拒否を示し、突如勃発した二人の臨戦体勢の気配にエンギワルーは冷や汗を拭った。
「だって、もしも、もしもですよ? すっごく疲れたりとかしてて、例えば居間で寝ちゃったら、どうするんですか? 立入り禁止線引かれてそこに出入りできなかったとしたら、そのままザコ寝させとくんですか。せめて毛布とか掛けてあげようとか、そんな人間らしい優しさは補佐官にはないんですか! これじゃ一人暮らしと全然変わんない、人と一緒に暮らしている意味が無い、おうちってのは互いに助け合って暮らしていくところですよ、家族ってのはもっとこう、明るくって楽しくって……補佐官はそんな味気のないお家で暮らす気……」
生意気な口を利くな周子刑事、と周子の言葉をぴしゃりと遮り、カズマはキッパリと首を横に振った。
「私はそんなところでは寝ない」
エンギワルーはちら、と両眉を上げた。
普段のカズマにはあまり見られない類の、どこかムキになった、なかなか興味深い論展開だった。毛布を掛けてやったのは誰だと思うんだ、と恩着せがましく言い出さないのはカズマなりの照れもあるのだろう、だが、人間らしい優しさがないとまで断じられるのはさすがに不愉快なのだろう、その表情にいっそうの険しさが増す。
一方でカズマが昨夜居間で眠ったのを知らない周子は食い下がる。
「じゃ、じゃじゃあ、私が寝ちゃうかもしれないじゃないですか」
カズマはそんな周子の喩えにいかにも嫌そうな表情をした。
「だらしない」
そう言い捨てるなり、へくしっ! とカズマは肩を揺すって大きなくしゃみをした。
「だからもしも、って」
「大体、居間は百歩譲って我々の共有区域で良いとさっき言ったろうが。居間は互いに立ち入ることができる、即ち、万一どちらかが居間で寝入ったとしても毛布を掛けてやれるというわけだ、よって居間でザコ寝放置なぞありえない。そもそもの前提からしておかしいじゃないか」
「ああもう、だから……それはたとえで」
私は何も間違ったことは一言も言っていない、とばかりのカズマの強硬態度に周子ははあーっと大きくため息を吐いた。
「エンギワルーさん、なんなんですか、この人!」
いきなり怒りの矛先を向けられて、エンギワルーはおっと、と小さく肩を竦めた。カズマの独り善がりな論展開と絶妙なタイミングのくしゃみに失笑するのを抑えるのでも既に精一杯だったのだが。エンギワルーはいつもの仏頂面で周子に言った。
「周子殿は若の奥方様でございますれば、やはりこちらで暮らしていただくのが妥当かと」
「なんかむかつくんですよ、補佐官の一言一言が」
だいたい、オクガタサマってナンですかもう、と周子はぷんぷん怒って残りの食事を一気に平らげ、オレンジジュースを飲み干した。
勢いの良い方ですなぁと、エンギワルーは感心した声を上げる。
「しかし、若、これはお二方とも、案外思ったよりもずっと早く馴染むかもしれませんな、早速同居に向けて具体的な話し合いを始めるとは」
「! 人をゲージに入れた対のハムスターかなにかといっしょにするな!」
彼女を籍に入れたのは事故だ、カズマが忌々しげに叫んだ。
「補佐官は横暴過ぎます、そんなんじゃホントに誰とも結婚なんて出来ませんよ!」
仕事に行かなくっちゃ、ご馳走様、と言ってさっさと席を立った周子だが、時計を見るなり、ぎゃあ、と叫んだ。震える指でわたわたとダイニングテーブルを指差す。
「ひょっとしてこれはお昼ごはんでしたか!?」
周子の問いにエンギワルーはうなずいて。一日休みを取ったと告げると周子は青ざめた。
「ダメ、ダメです、なんかもうなんだかんだで結構休んでるんです、新人のくせに。クビに、クビにィィィなっちゃいますよ、あ〜っ、もう、補佐官! 補佐官に構ってるとなんかロクなコトにならない、補佐官!」
人の肩書きを連呼するな、とカズマは片眉を上げて周子を睨み上げた。
ああなんかほんとムカツクその人を小馬鹿にしきった睨み方、と周子はアヒルのように唇を尖らせたが、ふと思いついたように、ニヤッ、と笑った。
「補佐官にぴったりなのを連れてきますよ、あとで、お望みどおりの奥方様をね」
いってきまーす、と元気に玄関から飛び出してゆく周子のばたばたと賑やかな音をやり過ごすと、カズマは不安そうにエンギワルーを見上げた。
「エンヴィ、あの笑顔はなんだ? あの、いかにも物騒なあの笑顔は」
はて、とエンギワルーも首を捻ってみたものの、もちろん察し得るものはなにもない。
(第32話へつづく)
(目次へ戻る)
第31話:「ワンゲージ未満」
「へくしっ!」
盛大にくしゃみをするカズマに箱ティッシュを差し出して、エンギワルーが心配そうにその顔を覗き込む。
「どうなさったんです、若? お風邪をお召しで?」
若が居間で車椅子に腰掛けたままメガネも掛けたまま眠り込んでいるのを拝見したときにはそれこそビックリしましたよ、とエンギワルーは言う。
朝、朝食の支度をしようと邸内の離れからカズマの自宅を訪れたエンギワルーは、居間の光景を見て我が目を疑った。その衝撃たるや、いままで生きてきた中で一番驚いたと言っても良いくらいだった。
居間のソファの上で周子が眠りこけている。ありえない来客、しかも昨夜エンギワルーがカズマの前を退出した後だろうと思うとそれは深夜に違いなく。怪我をした野生の動物か何かのように小さく丸くなって寝入っているその体の上には毛布が掛けられていて。敏いエンギワルーは、彼女が泣きながら寝入ったことにすぐに気がついた。
どうしたことかといぶかしみながらもひとまずその寝息を確認して。別段具合が悪いわけではないのを察すると、気を取り直すかのように首を回した。
そして、そのソファのすぐ隣で車椅子の肘掛に肘を付き、そこに顎を乗せたままの状態でうとうとと眠っているカズマを見る。
こちらはなにか考え事でもしていたのか、そんな苦い表情で、胸のボタンを二つ三つ外した白シャツ一枚のまま、何か羽織るでもなく寝入っていた。日頃几帳面なカズマのことを思えば、こんな薄着のまま居間でこうして転寝をするなど、それは全くありえない光景だった。点きっぱなしのテレビではすでに朝のニュース番組が流れている始末。
もともと神経の細い男、カズマはすぐにエンギワルーの気配を察して目を開けたが、エンギワルーと周子を見比べて、あ、と気まずそうななんともいえぬ微妙な表情をした。が、次の瞬間、ぶるりと肩を震わせ、くしゃみをひとつ。
なにか温かいお飲み物を、と言うエンギワルーの後に続いて、カズマはダイニングへと車椅子を向けたのだった。
エンギワルーは小鍋をコンロにかけると。
「夜通しで口喧嘩でも?」
「失敬な!」
真顔で尋ねてくるエンギワルーにカズマはぴしゃりと短く返した。
「あらかじめ言っておくが、私は何もしていないぞ!」
しっ、お静かに、起こしてしまいます、とエンギワルーは人差し指を口に当てて。
「そんなことつゆ申し上げておりませんよ」
「そう顔にでかでかと書いてある」
カズマにそう言われて、エンギワルーはその八つ当たりぶりに参ったな、とひとつ己のスキンヘッドをなでた。カズマは己の両肩を抱くようにしてぶるりとまた震えた。
「寒気がする」
「お風邪ですな」
冷静なエンギワルーの言葉にカズマはつくづく嫌そうな表情をした。
「なぜ私が風邪を引かねばならんのだ、万全の体調管理が基本のこの私が」
「そんなシャツ一枚で居間で寝こけているからですよ」
どうぞ、と目の前に差し出されたのは蜂蜜入りのしょうが湯で。たしかによく温まる、と思いながらそれをすするものの、こう、何もかもを心得たようなエンギワルーのこのタイミングがなんとも癪に障る気がした。
「しかしエンヴィ」
聞くが、とカズマは短く断ってから真顔でエンギワルーを見据えた。
「女の髪を誉めるのはそう悪いことではなかろう?」
「はあ。まあ、口説き文句の常套ですな?」
いや、お前の応えのその後半は認めない、とカズマはきっぱりと否定してから、
「悪くはないはずだ」
と唸った。
―――珍しく本音で誉めたのに。なにも泣くことはないじゃないか。
「若が周子殿の黒髪を誉めたら、泣かれてしまったんですか?」
エンギワルーにストレートにそう尋ねられて、思わず、うぐぐ、とカズマは返答に詰まった。
「客観的に言えばそうなるかもしれないが、断じて違うぞ」
エンギワルーのこの問いを否定する術がサッパリ分からない、内心そう思ってカズマはしょうが湯を胃に流し込むと、私は体調回復のためにしばらく眠る、とだけ言い捨ててダイニングを後にする。
「若、周子殿はどうしたら良いですか?」
「知るか! 寝かせておけばよいだろが!」
エンギワルーは、私に関係があるものか、とでもいいたげなカズマの後姿と居間のソファでまだ眠っている周子の毛布の盛り上がりとを見比べ、それからカレンダーを見て、少し逡巡した。だがやがて、ふむ、とひとつうなずくと自分の胸ポケットから携帯を取り出して。
今日は平日である、さすがに無断で欠勤させるわけには行くまい、と思ったのである。
「ああ、ギャラン刑事でございますか? おはようございます、ええ、実は……」
エンギワルーは一度言葉を切ってから、丁重に言い伝えた。
「周子殿は昨夜は補佐官とご一緒で大変に遅かったようでございまして……ええ、大変にお疲れのご様子、今なおぐっすりとお休みでございまして……本日はお休みを取らせていただきたいと存じます、アシュー課長にその旨よろしくお伝え願えますでしょうか」
ガッシャンガラガラ! と階段を踏み外して転げ落ちでもしたかのような派手な転倒音が向こうから響いてきた。そして一拍遅れてから、コンクリート地に落ちたのか何なのかばきゃっ、と手にしていた携帯を何かに叩き付けでもしてしまったかのような、物理的な破壊音とともに携帯の通話が途切れた。
はて何かまずいことでも言ったろうか、とエンギワルーは目を丸くして己の携帯をまじまじと見つめた。
なんだかいい匂いがする、と起き抜けにそう呟いてから、周子はあれ? と周囲を見回して。見慣れぬ室内、知らぬソファの上で寝ていたらしい、身体に毛布がかかっているのを見れば、誰かが毛布を掛けてくれたのだろうとは思うのだが。
ソファの上で大きく伸びをした途端、のけぞった己の頭のすぐ先にハゲの仏頂面を見てしまい、逆さにキスでもしてしまいそうな程の近さに思わず周子は、のわ、と奇妙な声を上げてソファの端まで飛び退った。
心配そうに覗き込んでくるエンギワルーを見て、そういえば昨夜はカズマの自宅に泊まったのだったと思い出して。
「あの……すみません、毛布を掛けてくださったみたいで……」
「…………。いいえ? お風邪を召すことなく、何よりでございます」
少し沈黙して周子の言葉の意味を解析し、つまりはカズマが掛けてやったのだと知ったエンギワルーは、表情には出さぬものの大変興味深く思った。
「周子殿、食事の用意が出来ておりますが」
お口に合いますかどうか、と丁重に申し出られ、きょとんとしたまま周子はダイニングの椅子に座らされた。
―――なんだこの光景は。
ダイニングのテーブルに食事の支度が二人分。既に小さな男の子がテーブルについていて食事を始めている。エンギワルーとコンジョナシの分であるらしく、空席のエンギワルーの分にもほんのわずかに箸がつけられていて。エンギワルーは手際よく周子の座った前にもう一人分の食事を並べた。
小さな子供に、先にいただかせております、いつお目覚めになられるか分からなかったもので、と申し訳なさそうに言われて、周子は慌てて首を振った。
「え、ええーっと、コンジョナシ君、だったけ? 君、幾つなの?」
「今度の四月で六歳になります」
丁重にそう返され、周子は目を丸くしてエンギワルーを見た。
「六歳!? すっごいしっかりしてる!」
エンギワルーは、つ、と上機嫌に目を細めた。
―――あ、あれっ?
「まだまだ不束者で」
そうは言うものの、エンギワルーのその表情は誇らしげだ。
「友達の子供なんて、既に六歳だけど、全然ただの子供ですヨ!? すっごく質のいい育てられ方をしてるみたい」
「は、いや、ははは」
エンギワルーはたちまち破顔した。この緩んだ笑顔を見れば、猫可愛がりに可愛がっているのが容易に知れた。
―――なんかすっごく可愛がってる感じ?
コンジョナシはくりっくりの褐色の巻き毛でその顔立ちも愛らしくまるで女の子のよう、エンギワルーとは似ても似つかぬ愛らしさだが、褐色の肌と目の色をみれば、やはり親子だろうと思う。
エンギワルーは仏頂面のスキンヘッド、むしろ強面の男である。しっかりと鍛え上げられた厚みのあるその体は、格闘家と言ってもおかしくはないかもしれないが、やはり、ボディガードといったほうがずっとしっくりくる、それが、エプロンをしめて食事を作っているのだから驚く。そういえば最初に会ったときには手にクリーニングの包みを持っていた。
「エンギワルーさんはいつもこんなことをしているの? 補佐官の身の回りの世話を焼いたりとか? こんな小さな息子さんがいらっしゃるのに日夜補佐官の世話を? ずーっと? 長いの?」
「ええ、まあそんな感じで。お仕えさせていただくようになったのは五年ほど前くらいからでしょうか」
「ありえないよ。いくら車椅子に乗ってるからって、補佐官はいい年こいた大人の男ですよ? ごはんの支度も掃除洗濯も自分でやるべきでしょうに」
周子の言葉になんと恐れ多いことを、とエンギワルーが目を剥いた。
「若は大変にお忙しい方でいらっしゃいます。あの優秀な頭脳でなすべきことは多々ございますれば、家事のような瑣末なことにかまけるべきではございません、まさに適所適材、このような身の回りのお世話は私、使用人の仕事でございます」
「適所適材、って……」
―――アンタこそ、仏頂面のスキンヘッド、そんなごついガタイでスヌーピーの可愛いエプロンしめてお料理してるのはどうだろう、
と、周子は思ったのだが。料理をひとくち口に運んで目を丸くした。
「うっわ、美味しいです……美味しい、エンギワルーさん、すっごくお料理上手いんですね!」
「さようですか、ありがとうございます」
エンギワルーににっこりと微笑まれ、その仏頂面のたまさかに変化した笑顔に周子はなんとなくビミョーな気分を味わいながらもまた箸を運んだ。味はとにかくいい。
「コン君のパパ、すっごくお料理上手だね、まるで一流ホテルのシェフみたい」
そう言うと、コンジョナシはすごく嬉しそうににっこりと微笑んだ。
―――うわっ、どーしよ、この子、すっごい可愛いよ!
「コン君はいつもなにして遊んでるの? あーあのさ、あれ、カブトムシとかが戦うヤツとか、好き? おばちゃん、あれのカードいっぱい持ってるよ? おばちゃんの友達の息子さんがね猛烈に集めてて……」
「好きです。僕も少しは持っています」
コンジョナシは少し照れたように頬を染めた。こんな可愛い仕種なら、あらかじめ男の子だと知っていても、思わず女の子向けのオモチャを買い与えてしまいたくなる、と思ってしまうほどの可愛らしさだった。
「そう、じゃこんどおばちゃんが強いヤツあげるよ、全部持ってくるから選んでいいよ、バトルしよう」
コンはちょっと複雑そうな表情をした。
「あれ? イヤ?」
「いえ、とんでもないです。ただ、おばちゃん、はなかろうかと。こんなお若くて美人な方を前にそのようにお呼び申し上げるのは真に心苦しい限りで」
その言葉遣いに、周子は思わず、だーっと口の端からオレンジジュースをこぼした。
「お姉さまとお呼びさせていただいてよろしいでしょうか」
―――うわぁなにそれ、この子中身何歳なの!?
「は、いや、おねぇちゃんとか、周子ちゃんとか、そそそそのあたりで……」
「コンは世辞は言いませんよ。周子殿はどうやらコンに大変に気に入られたらしいですな」
エンギワルーが上機嫌に笑う。
「コンは若には大変に可愛がっていただいておりまして。子持ちの私が不自由なくお勤めさせていただけるのも、若の細やかなご配慮によるものでございます。ああとっつきにくそうみえて、ですが、若は一度近くに寄せた人間には大変にお優しいのですよ。こうして一緒に食事をとらせていただいたり、極力お邪魔にならないように、コンも私と同様、おそばにおいていただいております」
「でも、例えば先日のパーティみたいなときって、コン君はどうしてるんですか? お父さんの帰りがすっごく遅くなっちゃいますよね」
「なんのひとりで留守番くらい」
エンギワルーは苦笑する。
「まあ、再婚のひとつでもすれば状況はもっと楽になるのでしょうが」
「あなたも女嫌い」
「違います」
慌ててエンギワルーは否定した。妻を五年前に亡くして以来どうもなかなかそういう気分にはなれなくて、とちょっと真面目な表情でスキンヘッドを掻いた。どうやらコンジョナシが生まれて間もなく妻と死別したのらしい。
「僕は父上に早く再婚してもらいたいと思っているんです。僕は兄弟が欲しいんです、絶対に。兄弟がいれば一人で留守番することもなく、何かと楽しいはずです」
「これ、コン」
エンギワルーは素早くコンジョナシを嗜めるが。
「おねえさまからもそう父に命じてください」
命じる、って、と思わず周子は両眉を上げた。
「……申し訳ございません、この話になるとコンは非常に固執するもので」
「へぇ、コン君、お父さんに再婚して欲しいんだ? 息子さんのほうからそう言い出すんなら、そりゃもう全然オッケーじゃないんですか? 普通は逆って聞きますけど」
ええまぁ、では前向きに、とエンギワルーは苦笑する。実際、カズマが結婚してから、などと義理立てていたわけでもないが、実際それがひとつの踏ん切りをつける目安にしていたといえばそうである。正直言えばもっと先になるだろうと、おそらくビジネスの延長でどうにも断りきれぬ縁談を受ける、そんな具合だろうと、意に染まぬままに進められるであろう主の婚姻を気にかけていたのだが。
周子との入籍は事故とでもいったほうがしっくりくるような感じだったが、だが、ソリの合わない二人でも、一緒にいれば情が湧く、そんなものをエンギワルーは内心密かに期待した。
「おねぇさまみたいな人が僕のママになってくれたらいいのに。あかるくて美人で優しくて、僕、おねぇさまを一目見た時からこの人がいいって思ったくらいなんです」
「コン。……すみません、気に入った女性を見つけるともう、そう言って聞かなくて」
エンギワルーはコンジョナシをひと睨みして言った。
「周子殿は若の奥方様だ、身に過ぎた望みを言ってはいけない」
コンジョナシの褐色の瞳がショックを受けたように泣き出しそうに揺れたのを見て、思わず周子がエンギワルーに抗った。
「子供だもん、好きなこと言ったっていいじゃない! エンギワルーさん、私、シッターしますよ、お泊りして面倒見たっていいですよ! 夜寝る前には絵本だって読んじゃう!」
「本当ですか!?」
ぱっとコンジョナシの顔が輝いて。その輝きのなんと愛らしいことか。
「いえ、それはとんだご迷惑では」
いいのいいの! と周子はコンジョナシの手を取った。
「五歳児のコン君よりも補佐官のほうがはるかに手がかかるってワケなんでしょ」
なんと辛辣な口を利くのだ周子殿、とエンギワルーは青ざめた。
ちょうどそのとき、
「まったく、ちょっと元気になれば早速私をこき下ろしているわけか」
あきれたような、冷え切った声がダイニングに響いた。
エンギワルーが慌てて席を立ち上がる。近寄って、気遣うように車椅子のカズマの顔を覗き込む。
「若、どうなさいました?」
「ああ、薬を飲みに」
寒気も頭痛もひどい、そう言ってカズマはうんざりと緑髪を掻いた。あれから二時間ほど眠ったらしいカズマの緑髪は寝乱れている。
お呼びくださればよかったものを、とエンギワルーは言いかけて、すぐにそれを飲み込んだ。なんだかんだいって周子のことが気にかかったのだろう、カズマがわざわざこちらのほうへ様子を見に来たのだと知れたからだ。カズマはちらとも周子のほうを見ず、それはまるで気のない素振りだが、日頃のカズマの様子を知っているエンギワルーからすれば、そんなことは容易く知れた。
エンギワルーから水の入ったグラスを受け取ると、カズマはいったんそれをダイニングテーブルの上に置き、手にしていた錠剤のシートから薬を取り出そうとしたのだが。
不意に周子が声を掛けた。
「ああ、補佐官、お薬を飲むんなら先になにかお腹の中に入れてからのほうがいいですよ? 召し上がったらいかがですか」
「なに?」
カズマが真顔で聞き返す。
「なんかすっごい顔色悪いですよ? 風邪でも引いたんじゃないですか?」
「……君はまったく……」
カズマはそうぼやいてうんざりと緑髪を振った。
誰の所為だと思ってるんだ! と言うのを飲み込んで。周子のやけにサッパリしたその言葉と表情は昨日の様とはまるで別人で。昨夜のあれには触れないほうが良いだろうとカズマは思った。
それから、ダイニングの光景をしげしげと眺めて、ちら、と首を捻った。
「なんだか家族の光景だな」
コンジョナシの表情がぱっと輝いた。
「ほら、父上、やはり後添えを」
「ノチゾエって、それ五歳児の言葉じゃないよ、コン君」
思わずむせながら周子がそう返した。
それからほんのちょっと淋しげに笑って。
「でも、私、父さんがいなくなってから家族なんてもう五年もいません……いいな、家族。補佐官、私たまにお泊りしてもいいですよね?」
「え? ……あ、ああ、かまわない、が」
ここにか? とどこかほんの少し息苦しいような胸の鼓動を感じてカズマは聞き返した。君には他に身寄りがいないのか、と尋ねれば周子は素直にうなずく。
「ま、まあ君は一応は私の妻なワケだし……」
周子のふとした淋しげな表情は、カズマの苛立ちやらそっけなさやらを一気に瓦解させた。
カズマはちょっと笑って。
「一緒に暮らすか、周子刑事?」
「無理に決まってるじゃないですか、カズマ特別補佐官」
何言い出すんですか、と真顔で返されて。
「私はこちらの離れでコン君と一緒におねんねするんです」
きっぱりとそう返されて、カズマは迂闊にそんな言葉を吐いた己の舌を呪った。昨夜以来、どうも周子の言葉一つ一つに振り回されるような感じで、カズマはその未だ知れぬ感覚に苛立った。
「いや、まて、周子殿」
エンギワルーは瞬時に青ざめると慌てて周子の言葉を却下した。
離れといえば、自分の自宅である。たとえコンが理由であろうとあるいはどんな理由であろうと、仮にも己の主人の奥方をそうそう泊めるわけには行かぬ。
たちまち不機嫌になったカズマは、ちょっと待っていろ、と言ってキッと周子を睨むなり、ダイニングを出て行く。戻ってきたカズマは丸められた大きな図面のようなものを片手にしている。
「私の自宅の図面だ」
カズマは周子刑事こちらへ来い、と短く命じてダイニングから居間のテーブルに呼びつけると、その上に図面を広げた。
「妻が離れに入り浸るなど聞こえが悪い、エンヴィの不在時にコンの面倒を見る気ならここでシッターをしろ、よって、予め君の棲息区域と私のそれとをハッキリさせておく」
「は? 棲息だなんて言わないで下さい」
人のことなんだと思ってるんですか、と周子はたちまち口を尖らせた。カズマは周子を無視して話を続ける。
「玄関と居間、キッチン、ダイニングは共有でいい。バストイレは君の部屋についているのを使ってくれ、そう、昨夜のゲストルーム、ここが君の部屋だ、以後は自由に使ってくれて構わない」
キュキュキューッ、と赤の油性マジックで図面に鋭い割線を引き、最後に周子の部屋だというその場所を赤で几帳面に塗りつぶした。昨夜案内されたその部屋はちょっとしたホテルの一室のようだと思っていたが、こうして図面を見れば、寝室と居室との二部屋続きの広い洋室にバストイレのついている、かなり立派なゲストルームである。
カズマはコンコン、と図面に引いたその赤い線をペンで示して。
「この線を越えての立入りは互いに禁止。私もそちらの区域には一切出入りしないと誓う。家具などは一通りの物が備え付けられているが、気に入らなければ好きなものに代えてくれて構わない、入り用な物はこのエンギワルーに言いつけてくれ、何でも彼に言えばいい、一切の費用は私が負担する」
費用だなんて、と、周子はぶんぶんと強く首を振って拒否した。カズマの紫瞳が厳しさを増す。
「妻なら養われて然るべきだ」
「私にはそれなりに収入がありますし、大体、妻ならこんな立入り禁止線なんて設けませんよ! わけわかんない」
あーやだやだ、と周子がきっぱりと言葉で拒否を示し、突如勃発した二人の臨戦体勢の気配にエンギワルーは冷や汗を拭った。
「だって、もしも、もしもですよ? すっごく疲れたりとかしてて、例えば居間で寝ちゃったら、どうするんですか? 立入り禁止線引かれてそこに出入りできなかったとしたら、そのままザコ寝させとくんですか。せめて毛布とか掛けてあげようとか、そんな人間らしい優しさは補佐官にはないんですか! これじゃ一人暮らしと全然変わんない、人と一緒に暮らしている意味が無い、おうちってのは互いに助け合って暮らしていくところですよ、家族ってのはもっとこう、明るくって楽しくって……補佐官はそんな味気のないお家で暮らす気……」
生意気な口を利くな周子刑事、と周子の言葉をぴしゃりと遮り、カズマはキッパリと首を横に振った。
「私はそんなところでは寝ない」
エンギワルーはちら、と両眉を上げた。
普段のカズマにはあまり見られない類の、どこかムキになった、なかなか興味深い論展開だった。毛布を掛けてやったのは誰だと思うんだ、と恩着せがましく言い出さないのはカズマなりの照れもあるのだろう、だが、人間らしい優しさがないとまで断じられるのはさすがに不愉快なのだろう、その表情にいっそうの険しさが増す。
一方でカズマが昨夜居間で眠ったのを知らない周子は食い下がる。
「じゃ、じゃじゃあ、私が寝ちゃうかもしれないじゃないですか」
カズマはそんな周子の喩えにいかにも嫌そうな表情をした。
「だらしない」
そう言い捨てるなり、へくしっ! とカズマは肩を揺すって大きなくしゃみをした。
「だからもしも、って」
「大体、居間は百歩譲って我々の共有区域で良いとさっき言ったろうが。居間は互いに立ち入ることができる、即ち、万一どちらかが居間で寝入ったとしても毛布を掛けてやれるというわけだ、よって居間でザコ寝放置なぞありえない。そもそもの前提からしておかしいじゃないか」
「ああもう、だから……それはたとえで」
私は何も間違ったことは一言も言っていない、とばかりのカズマの強硬態度に周子ははあーっと大きくため息を吐いた。
「エンギワルーさん、なんなんですか、この人!」
いきなり怒りの矛先を向けられて、エンギワルーはおっと、と小さく肩を竦めた。カズマの独り善がりな論展開と絶妙なタイミングのくしゃみに失笑するのを抑えるのでも既に精一杯だったのだが。エンギワルーはいつもの仏頂面で周子に言った。
「周子殿は若の奥方様でございますれば、やはりこちらで暮らしていただくのが妥当かと」
「なんかむかつくんですよ、補佐官の一言一言が」
だいたい、オクガタサマってナンですかもう、と周子はぷんぷん怒って残りの食事を一気に平らげ、オレンジジュースを飲み干した。
勢いの良い方ですなぁと、エンギワルーは感心した声を上げる。
「しかし、若、これはお二方とも、案外思ったよりもずっと早く馴染むかもしれませんな、早速同居に向けて具体的な話し合いを始めるとは」
「! 人をゲージに入れた対のハムスターかなにかといっしょにするな!」
彼女を籍に入れたのは事故だ、カズマが忌々しげに叫んだ。
「補佐官は横暴過ぎます、そんなんじゃホントに誰とも結婚なんて出来ませんよ!」
仕事に行かなくっちゃ、ご馳走様、と言ってさっさと席を立った周子だが、時計を見るなり、ぎゃあ、と叫んだ。震える指でわたわたとダイニングテーブルを指差す。
「ひょっとしてこれはお昼ごはんでしたか!?」
周子の問いにエンギワルーはうなずいて。一日休みを取ったと告げると周子は青ざめた。
「ダメ、ダメです、なんかもうなんだかんだで結構休んでるんです、新人のくせに。クビに、クビにィィィなっちゃいますよ、あ〜っ、もう、補佐官! 補佐官に構ってるとなんかロクなコトにならない、補佐官!」
人の肩書きを連呼するな、とカズマは片眉を上げて周子を睨み上げた。
ああなんかほんとムカツクその人を小馬鹿にしきった睨み方、と周子はアヒルのように唇を尖らせたが、ふと思いついたように、ニヤッ、と笑った。
「補佐官にぴったりなのを連れてきますよ、あとで、お望みどおりの奥方様をね」
いってきまーす、と元気に玄関から飛び出してゆく周子のばたばたと賑やかな音をやり過ごすと、カズマは不安そうにエンギワルーを見上げた。
「エンヴィ、あの笑顔はなんだ? あの、いかにも物騒なあの笑顔は」
はて、とエンギワルーも首を捻ってみたものの、もちろん察し得るものはなにもない。
(第32話へつづく)
(目次へ戻る)
- 2006-01-11 10:18
- カテゴリ : タトパラ2/長編/連載中
- コメント : -
- トラックバック : -
-

-



