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[tog]51:タトゥーの所為

 ―――あれをタトゥーの所為だと、お前は言うのか。

 声を押し殺すようにして肩を震わせる周子の背中を呆然と眺めて。
 なんと言葉をかけようと、どれも取り繕うものにしか思えず。
 ギャランは恐怖に震える体を起こすと、服を手繰り寄せ、とにかく身体を通して、まるで逃げるように慌てて部屋を出て行った。

 それからというものずっと、ギャランは王宮で寝泊りしていた。
 周子のことがふと脳裏がよぎった瞬間には、階段を踏み外したり、開けようとしていたドアに額をぶつけていたり、飲み物をひっくり返したりする。
 あまつさえ、胸元をひっくり返したインクで真っ黒に染め上げて。
 いぶかしげなアシューの渋面に覗き込まれてようやく我に返るといったような有様だった。

 好きだから、近くに寄った。いい匂いがした。
 隙があったから、抱いた。肌に触れたら、眠りながらも微笑んで。

 最初は確かに強引だった、だが、嫌がるのを無理矢理にしたわけでもない、やがて周子は自分にキスしてくれて。背中に、首に手を回してくれて。抱いてくれて。
 名を呼べば応えてくれる、それはごく普通の、想い合った仲の男女ならば当然交わすはずの、心のこもった愛しくて優しくて楽しい情の交わりだ。
 そのはずだ。
 だが、この想いを、タトゥーが否定する。
 周子はおれの想いも、自分の想いも、すべてタトゥーの所為だと、タトゥーの呪のもたらす効力だと、この恋情も周子がおれに抱かれるのも、周子を、その腕に名を刻んだ主であるおれに隷属させるためのただの仕組みに過ぎないと、言う。
 抱かれて、肩を震わせて、押し殺して、泣く。
 胸に宿る情を否定するように、泣く。
 本当に辛そうに、泣く。
 あの細い肩が、白い背中が目に焼き付いて離れない。

 あの、気の強い女があんなふうに泣くことがあるだなんて。
 自分があんな風に泣かしてしまうだなんて。

 そんなことを考えれば考えるほど、ギャランは恐くてカズマの私邸へは寄り付けなくってしまった。

 王宮で、アシューに乞われるがままに政務を執り行った。何かをしている方がよほど気がまぎれるような気がした。多くの臣下とも会ったし、乞われれば式典のようなものにも出席した。可能な限り一人で物思いにふけるようなコトを避け……幸い、王宮というところは、その目的には実によく適していた。
 一日が終わるころにはとにかく疲れて、ベッドに横になると決まって朝が来てくれていた。
 目を覚ますと侍女がわらわらとたかっては身支度を整え食事を口に突っ込んでくれる、夜中にも朝方にも一人であれこれと思い悩む暇はなかった。

「アシュー、人払いを」
 突然王宮の執務室に姿を現した周子が、まるで自分が彼の主であるかのように、キッパリとそうアシューに命じた。
 アシューが周子に命ぜられる謂れはない。だがそこには有無を言わせぬ言外の力が滲み出ていて、逆らえばむしろ痛い目に合わされそうな勢いだった。
 仕方なくアシューは控えていた衛兵と従者とを退出させ、己の机上の書類を幾つか適当に取りまとめた。
 アシューは一礼し執務室を出て行こうとし……去り際に、異様な光景を見た、と思った。
 椅子から立ち上がりかけたギャランが、机上の水差しをひっくり返し、震える手で起こそうとしたところを今度はインク壺を引っ掛け倒し、慌てて立ち上がった途端にざばり、と脇に寄せた書類の山が、水とインクだらけの机上へなだれ込んだのを見たのである。
 ものすごい動揺振りだった。
 たかが女一人になにもそこまで取り乱すことはあるまい、と思ったものの、その理由を察してアシューは渋面を作った。あれほど嫌っていた王宮にギャランが大人しく留まっているのだ、これまでべったりと入り浸っていた万事に都合の良いカズマの屋敷に足を向けられぬよほどの理由、即ち、ギャランと周子との間に何があったかは大方察しがついていた。元来男っぽい気性のギャランのことだ、あれほど好きだ惚れたと公言して憚らぬ女を相手につい勢い余って強引な真似をしたに違いないのだ。
 だが、予想以上に王の想いは深い。そう思えばこそ、極めて冷静な表情で現れた周子とギャランとの間のその温度差に、あまりに致命的なものを感じたのだ。

 周子は派手に崩れてみるみるうちに水とインクにまみれる書類の山を唖然と眺めて。
「そんなに慌てなくても。殺しはしないわよ」
 毒気を抜かれたように、浅く笑った。
「! 待て周子殿、国王陛下に対し殺すなどとは……」
 開口一番放たれた物騒なその言葉に、アシューが慌てて割って入ろうとしたが。
「うるっさいな、殺さないって言ってんのよ、黙って下がんな」
 ドスの利いた声でぴしゃり、と遮られた。
 アシューは、周子の姿を見るなり蒼白になったまま硬直したギャランの様子をどうしたものかとしばらくの間逡巡したが、やがて、周子の小さな舌打ちとともに、耳慣れぬ呪文の詠唱のようなものを聞いて慌てて部屋を飛び出した。あと一瞬遅ければ、何かの攻撃呪文がアシュー目掛けて放たれていたに違いない。

 周子はやれやれ、とあきれたように腰に手をあてて言った。
「怒ってないわよ? ホントに。ええ、大丈夫よ。この間のことなら、さっぱり忘れてあげるわ。綺麗さっぱり水に流すから、もういい加減、カズマ様の下に戻ってきたら?」
 ―――あれを忘れるだと?
 ギャランは呼吸すらままならぬほどの息苦しさを覚えた。
「あなたが王宮にこもってカズマ様のところにちっとも顔を出さないのは、私があのお屋敷に居るからなんでしょう? さすがに、私としてはあんたの顔なんて見たくも無いんだけど」
 ぐさり、と胸が鳴った。
「私邸に戻らないのはもちろんだけど、王宮でもあなたがろくにカオもあわせてくれない、ってカズマ様が悩んでいる。あなたがカズマ様を避けてるんだって? それにしても腹が立つのは”あれほど寵をうけた臣下であるカズマ・フォン・グランツがあっさりと王に捨てられた、所詮は金にモノを言わせたただの大財閥の御曹司だ”と、面白がって陰口を叩く輩がいるってコトよ。あなたはカズマ様にはちっともそんな風に思ってないんでしょう?」
 ギャランはしっかりと頷いた。
 カズマを避けるのはそこに色濃く周子の姿が透いて見えるからだ。
 それは周子も察している。
「であれば、私、アシューかラインハルトの所に行くわ」
「そそそそそれはだめだ!」
 ギャランは慌てて金髪を何度も大きく横に振った。
「あなたが寄り付かなくなったと、自分に非があったかとカズマ様があれこれ思い悩んでいる。……あの人はいいわ、鈍くて。トウヘンボクなんて陰口叩かれてるけどね。だから、こんなくだらないことであの人を悩ませたくないのよ」
 ―――くだらないこと、だと?
 反論しかけた声が掠れた、正面から周子を見れば、強い黒目でこちらの反応をねじ伏せてきた。
「私が彼のもとを去れば、あなたとカズマ様はまた元のとおりになるでしょう?」
「……分かった」
 ギャランは頷いた。
「カズマとは元通りに接する」
「もちろん、私とも」
 キッパリと周子はそう付け加えた。
「三日よ。三日以内に帰ってこなければ、私が出て行く、そしたら二度と合わなくて済むしね、むしろここで半殺しにして三日足止めを食らわせてもいいくらい」
 そう言い捨てると、用は済んだとでも言わんばかりのさばさばした様子で周子は執務室のドアを出て行く。
 ギャランはその背中を無言で見送った。
 周子が自分へ向けてきたその黒い目はとても冷静で。
 初めて肌を合わせた男に向ける目でもなければ、自分を受け入れたあの愛しい眼差しでもなかった。確かに最初は出来心で触れた、だがおれはあの時本気でこの女に溺れたのだ。あれほどに想いをこめて愛したあれを忘れろ、というのなら。

 いっそその呪文で殺してくれ、と思った。

 今まで胸に抱いたこともないようなことが頭を過ぎって、ギャランはふらふらとソファに歩み寄り腰を落とすと頭を抱えた。
 惚れているのだ、無下に抱くには勿体無い女だと、身体を抱く快楽よりも何よりも、力になりたいと差し伸べるおれのこの手を取って欲しい、いま、周子を側で守っているのはロレンスではなくこのおれだと、この女の信頼こそが欲しいのだと、思っていたのに。
 ―――何をめそめそしておる、ほれ、突付かれんと動かぬのか阿呆
 嫌な予感にも似た、びりびりと痺れるような振動を腰のあたりで聞いた。ララクロノフが嗤ったのである。
 刹那、窓ガラスが割れる高い音が響き、ギャランは咄嗟に腰の真っ二つの剣を抜くや、室内に飛び込んできたそれを払った。
 ぼたり、と中途半端な音を立ててそれは落ちた。蝙蝠ほどの大きさの火蜥蜴だった。破れた窓の方を見たが、その後に続く異変は全くない。
「おれをからかう気か」
 ここ数日察していた気配はこのようなチャチな魔物のものではない、もっと陰鬱で冷酷な、洗練された殺気がこちらの様子をじっとりと窺っていた。
 床に落ちた火蜥蜴を靴底で踏みにじったその時、ガラスの割れる音を聞きつけたアシューと衛兵とが執務室へ飛び込んできた。
 自分の安否を気遣うアシューの手を振り払うと、
「逃げるのは終わりだ」
 用が出来た、と言い捨て、ギャランは執務室を出て行った。

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