コハリトりみっと
長編恋愛FT「タトゥー・オブ・ギャラン」がメインの小説・雑記サイト。
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シャワーを浴びたとき、腹が減っているのを知った。空腹を覚えるまっとうな肉体的な疲労が、正直ありがたかった。
バスローブを羽織って、周子の眠るベッドの端に腰掛け、すっかり気の抜けた昨夜の酒を杯に注ぐ。ちょうど杯一つ分、残っていた。くっ、と呷ると、空いた腹によく染みた。痛かった。
小さなノック音がする。応じると、ドアを開けて入ろうとしたエンギワルーが「ちょ……」と言ったきり、ノブを掴んだまま目を見開き、その場に硬直した。カズマは軽く肩を竦めてみせると、手早く着替え、固まったエンギワルーの肩を軽く叩いて促し、共に部屋を出る。私はそんなにそんなに子供ではないぞ、と言うと、エンギワルーはようやく「朝食の用意が出来ておりますがいかが致しますか」と続けた。
無論、とカズマは朝食を要求した。
ふと、その言い方はなにやら男くさくはないかと思った。
カズマはまったくいつもどおりに朝食を終え、食後のコーヒーを飲んだ。
昨日は目を通す暇の無かった経済紙を改めてチェックする。
期待していた株は予想以上の高値をつけていた。売り時だ。
書生を呼びつけると二、三、的確な指示を出した。
エンギワルーは何も言わなかった。
ばったん! と派手にドアを蹴り上げて周子がダイニングに飛び込んでくる。
蝶番の外れんばかりの勢い。
「あんたでしょ! こんなふざけた真似したのッ!」」
ミーザマス! とでも言うほうがずっと似合いそうな珍妙なヒゲ面で周子は、カズマの胸元を掴むなり、開口一番勢い良くそう怒鳴りつけた。
案の定、大騒ぎだな、とカズマは思った。
「起きてさー、シャワー浴びて気が付いたらやっぱし違う部屋でさー!! ああんまたやっちゃったかと思って、ふと鏡見たらさ! ンもう!!! なによこれ、なんなのよーッ!」
周子は掴んだカズマの胸倉をがくがくと激しく揺さぶった。
「アンタガカイタンダロー! しかも油性マジック! どおしてくれるのよ!」
カズマは笑いながら、ずり落ちかけるメガネを押さえた。
にぎやかだった。
こうなることは当然読んでいた、むしろ、楽しみにしていたといっていい。
これが周子だ、と思った。
「あはははは、笑えます」
カズマは笑った。その間抜けなヒゲ面が、泣きたいほどに切なく自分の胸に響きはしたが。
「ほらね、酔って爆睡するから、そんなヒゲ書かれるんですよ。夕べそんな話をしていたではありませんか、あなたが、そう、ご自身で。マジックペンでって」
「だからって!」
「スナック菓子を鼻に詰めた方が良かったですかね?」
「なんですって!?」
たちまち目を剥いた周子の一挙一動に、その言葉の勢いに、周囲が唐突に色づきゆくような感覚が襲ってくる。
くらくらするような、鮮やかさだった。
目の前で動き、文句をまくし立てるイキのいい周子がとても現実的で。
昨夜のあの、死んだように深く眠る女の身体が、まるで夢のようだった。
まあ、ともかく、とカズマは周子の腕を払うと、己の胸元の縒れを直した。指先で周子のひげをつつつーとなぞって、素っ気無く言った。
「ベンジンで落ちますからそう怒るな」
「ベンジン!? 乙女の柔肌をンなわけのわからんもんで拭けと? 落ちんの、それで?」
「ではそのヒゲのままでいますかね」
「うぐ」
うぐぐぐぐ、と拳を握る周子の姿が可愛くて。カズマは知れず目が細くなるのを抑えられなかった。
かの致命的なまでに欠陥品の魂がその身体に戻っていることに何より愛しさを覚えて。
「エンヴィ、ベンジンを」
「……切らしています」
絶妙ですね、とカズマは、また大きく笑った。
笑い事じゃないよ! と周子が大きく叫ぶ。
冗談は良いから、ベンジンを持ってくるように、とカズマは再度エンギワルーに言いつけ、また微笑む。
「あなた、ツラの皮は厚いでしょう、この私を素寒貧にすると断言しているのだ、ベンジンぐらい、大丈夫でしょう。それを乙女の柔肌だなんて。まことつくづくあつかましい。……ああそうか、顔じゃなく他の肌はなかなかのものでしたでしょうか?」
そう言って、カズマは微笑んだ。
ぴた、と周子が固まった。
数十秒の間たっぷりと硬直して、それから、カズマのシャツの袖のあたりを心細げにつまんで見上げる。
おろおろと目が泳いでいる。
「ああああああのさ、起きたらさ、私ハダカだったんだよね……な、なにかななにかななにかな? 私何か間違いでも……いやしかしまさか……でもいや待て待てよ……」
きれいさっぱり記憶が無い、と泣きそうな顔をして。
そして、周囲をきょろきょろと見回して。
ギャランは? と聞いてくる。
寝てる隙にまたあのバカが私に、その、あのさ、いやその、とごにょごにょと口を濁す。きききききききの所為かな、とか何とか、ごにょごにょと言いながらうつむき、見る見るうちに赤面してゆく。
カズマは唐突にイラッ、とした。
「王はあの後、あなたが酔いつぶれた後、深夜にハロックと遠乗りに出てらっしゃいます、まだお戻りではありません」
そう言って返すと、ほえ? となんとも間の抜けた声を出して、今度はカズマの顔をまじまじと見つめてくる。そして、しばらく逡巡した後、
「いやあまさかねぇ!」
と言ったきり、固まった。
しばらく沈黙して。
「まさかねぇ!」
と、再び真顔で同意を求めてくる。その表情はまるで子供で。
昨夜のあの妖艶な様とはまるで別人だった。
気が強く頭の回転が速いくせに、恋情や性的なものにまるで疎い。
ぱっと人目をひく程の綺麗な顔立ちと良い体つきをしているのに、自分のそれに男が抱く劣情をまるで知らない。
―――なんとまぁ、莫迦なものだ。
「まさかねぇ」
と、カズマは周子の言葉を繰り返してやる。
ふう、とカズマはあきれたように息をついてみせる。わざとらしく。
「派手に酒をこぼして自分で脱いだんですよ? みっともないからと私は止めたのに。そもそもあれほどに酔うこと自体が大間違いです」
ツッコミどころもないほど、キッパリと明確に返してやる。
脱がせた周子の服にはカズマがぐっしょりと酒を掛けておいた。
抱く前はほんの悪戯のつもりであったし、ことが済めばまた着せておけばよかろうとでも思っていたのだが、抱いてみると、どうにもひどく惜しい気がして。裸のまま転がしておけば、鈍い周子でもさすがに察するのではないかと心のどこかで期待した。
―――否。
あれほど繰り返し抱いたのだ、いくらなんでも、その体の違和感は拭いきれぬだろう。
―――気づいている。
だが、彼女はそれを認めないだろう、と思う。
この珍妙なヒゲの効力はいかほどであろうか。
「へへへへへ、ヘンなこと、した?」
「ええしましたよ?」
にっこりとカズマは微笑んで。
こう言えば、返る言葉は決まっている。
「うそだ!」
案の定、周子が痛烈な勢いで否定した。
「そ、そもそもヘンなことってナニヨ!」
「あなたの思っているとおりのことでしょうよ?」
カズマがさらりとそう言って返すと、ええっ、そんな! と叫んで目の前の周子はみるみるうちに真っ青になった。
カズマはにっこりとまたも微笑んで。
そして、返る言葉がおのずと定まる計算づくの言葉を放つ。
「ご自身の身体に聞いてみればいかがです? その類の身体の感覚はもう王に教わっているんでしょう? 私、キスマークの一つや二つ、つけたかもしれませんよ」
「あああああんたみたいなトウヘンボクが私に手を出すわけ無いじゃん!」
噛み付かんばかりのその勢い。
予想通りに返ってくる言葉に微笑んで。
ふむ、とカズマは少しオーバーに首をひねってみせる。
「私もずいぶん酔っていましたしね?」
「あんたはお酒には酔わないでしょう!」
「ええ。滅多には酔わないですね」
そう言ってまた微笑む。
私を酔わせたのは隠し切れぬあなたの色香だ、そう言ってやったら、どんなカオをするだろうか。
メガネの奥の眼差しをチラリと怜悧に鋭く光らせ、一度カズマは周子を睨んだ。
―――気づかぬか?
微笑とは裏腹に、心の中ではぞっとするほど激しい焦燥が渦巻いている。
―――その体に強く残る違和感を、私の所為だとは思わぬか?
いま気づけば。今ならまだ私も白状しよう。
私に抱かれたと、どうにも思い至らぬか?
「じゃあ酔ってないんじゃん! あんたわたしのことからかって遊んでるんでしょ!」
「ええ、面白いですよ」
カズマはたまらず目を伏せた。
知れず、深い吐息が漏れる。
ただ、その、女の身体を抱きたかった。
面倒なことはごめんだと、泥酔した体に睡眠薬を含ませて。
合意なんて微塵も無く。むしろあれは犯罪だ。
そんな隙のある周子が悪いのだろう、と、と切り捨てるつもりだった。
ただ、自分にそうさせるのに、相応に深い理由があったことに自分自身気づいていなかったのだ。
今となってその心が欲しいなどと。
無下にその身体を抱いてしまってから、決してそうではなかったのだ、合意の下で意識ある周子をこそ抱きたかったのだと思い知ったのだ。
―――ダメだ、また始まった。
周子を抱いてカズマは、己の焼けるような情欲を初めて知った。
堂々巡りな情欲の煉獄にどっぷりと浸かってしまったのを知る。
カズマは顔を上げると、やはりにっこりと笑った。
「大体、あなたがそんな意識を失うほどに深酒をなさるから、あとでひどくうろたえるのですよ。以後気をつけなさい。相手がまだ私でよかったですよ? ヒゲで済んで。これでスナック菓子があればもっと面白い顔に出来たものでしょうが」
「そそそうだよね、女嫌いだもんね」
周子は大真面目な表情でうんうん、と大きく頷いた。
「女なんて触っただけで手が腐るとか本気で思ってるもんね?」
激しく捻じ曲がったその言葉に、致命的な胸の痛みを覚えてカズマは席を立った。
期待を差し挟む隙など微塵もあるはずが無い、この女はこういう女なのだ、無粋で、強情で。
事象を前に、だがそれを事実と認めない、彼女がその意志で認めぬ限り、どんな事象も彼女にとっての事実にはなり得ないのだ。
どれほどハッキリした証拠でも、それが己が目を背けたいことであれば平気で目を背ける、そんなことを臆面も無くやってのける、これはこういう女なのだ。未熟で、情が固く、一見軽妙に見えてその実全く融通の利かぬ性質だ。これはそうではない、と、事実ではないと彼女が否定する限り、彼女にとっては、無いものは無い、そういう理不尽で幼い頑固さ、ろくでもない女なのだ。
察するか、などと賭けるのはつくづく愚かなものだ、私もどうかしてる、とカズマは心底そう思った。
「失礼、私、これから出かけますので」
好いた女をこの腕に抱きたいなど、ほんの一時、甘い夢を見た、と思った。
なんともいえぬ砂を噛むようなこの気持ちも、今のこの時までだ。
彼女が何事もなかったと納得するのならば、それで良い。
その身体の違和感をすべて無視するのならば、それで構わない。
もし、もしいま周子がこの場で、昨夜私との間になにかあったに違いない、とそう主張するならば。
そのことに怒りをぶつけてくるのならば。
―――あなたが怒るべきはその珍妙なヒゲではないはずだ
私に穢された、と、つまりはもはや王の下へ行ける身ではないと力づくの論理でねじ伏せ、こちらへ引き寄せるまでだ。
そのための論法ならば、いくらでも揮ってやろう、欲しい女を自分にがんじがらめに縛り付けることが出来るならば、どのような論術も謀略も尽くそうと思う。
むしろ、そうしたかった。
周子を論理的にねじ伏せることなど、今のこの内なる熱情を御することを思えばずっと容易いことに思えた。
だが。
カズマは、そうだよねぇ、と頷く、ほっとした表情の周子を見て、だがやはりあきらめるしかないであろう現実を静かに悟った。
手にしていた経済紙をテーブルに放り、ダイニングを後にする。
ふと、戸口のところで足を止めて。
いや、足が、止まったのだ。
動かなかった。
カズマはゆっくり振り返ると、一度だけ、あがいてみることにした。自分が思うより酷くしつこく、欲情がうずいているのだ。先ではなく、いま、欲しいのだ。到底、手放せそうな気がしない。
―――いっそこのまま、自分のものに、
周子に歩み寄り、その左腕を取った。
「はて、このあざはなんですか」
「え?」
その肩にカズマがきつく噛んだ歯型がついている。愛しい痕だった。
周子は首を回し、その肩の赤い痕を見、たちまち眉根を寄せて不満げに口の端を下げた。
「どうりでなんか痛いって思った、シャワー浴びたときピリピリしてた」
率直なその言葉、それから周子はううん、と唸って、カズマを見上げた。
かなり長い間、周子はカズマを見上げていた。
だが。
出てきた言葉はカズマの予想をはるかに超えるものだった。
「ずいぶん久しぶりに出たわ」
「は?」
「うん、昔から、たまに……気づいたら出来てるの、さすがにこんな、齧られたみたいなのは初めてだけど。もっと赤みの淡い感じのが」
「……昔から?」
カズマは眉をひそめた。
「私、体がおかしいんじゃないかって父さんに言ったことがあるけど。ヘンな病気か、ああ、あとはなんか厄介な魔物の呪いか、とかって。クルはキスマークだって、冗談じゃないって、すんごい怒ってたけど、冗談じゃないのは私の方よ。そんなもの誰につけられるって言うのよ。あり得ない。もうとにかくすごい不思議でさ? 朝起きたらこんなのが浮いてて……首筋とか、胸元とか、太腿の内側だとか、なんか柔らかいトコばっかり狙ったように付けられてて、何の魔物の呪いか知らないけど、気持ち悪いよねぇ」
周子は不満そうに、そして困り果てたようにてへへ、などと笑ってみせる。
「特異体質かなんかだろう、って、父さんが」
カズマは自分の瞳孔が開いたのを感じた。
抑え難い気持ちに揺れながら、気づかれぬよう、さぞやんわりと、つけたのだろう。思えば確かに、周子のその肌の反応は存分に成熟していた。
男を知らぬと以前当人は言っていたが。確かに、抱けばその芯に初心な手ごたえを感じたが。だが。その肌に手を這わせたときの、微かに震える、なめらかな、触れれば触れるほど離れ難くなる、すべての情欲を吸い付けるような妖艶な様はどうであったか。
むしろ、存分に、愛された肌である。
カズマはここに至りて初めて、修三の想いが分かった気がした。
実の娘に対するそれではない。むしろ相当に入れあげているのである。
むしろ狂気に近い恋情であろう。抑圧に抑圧を重ねた、ぞっとするほどに壮絶な色気が渦巻いていたことであろう。
―――修三……
眩暈のようなものを感じて、カズマはふらり、と背を向けると戸口から足を一歩踏み出した。
鋭い馬のいななきが、唐突に空気を裂いた。勢い良く馬を駆ってきたらしい、馬の急停止するひづめが土を擦る音。そしてすぐに、どかどかっ! と玄関に騒々しい靴音、次いで快活で元気の良い男の声が廊下に響く。
「めしっ! 腹減った!」
廊下の向こうのその声に、弾かれたように周子が飛び上がった。
「あ、いや! 待って! カズマ様ちょっと待って!」
周子が出て行こうとするカズマのシャツの裾を、はっし! と掴んだ。
不意に強い力で引かれたのと、カズマ当人がとことん脱力していたのもあり、カズマは振り向きざまに大きくよろけ……
―――修三はどのようにして周子をこれほどに縛り付けることに成功したのか
カズマは、踏みとどまるわけでもなく、ほとんど抱きしめるかのように周子に身体を預けようとし……
その瞬間。
力強い腕が、大きく傾いたカズマの体を強く支えた。
「おい、大丈夫か?」
ギャランだった。
[tog]65:ライアー
Created: 2006-07-10 Modified: 2007-12-08
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バスローブを羽織って、周子の眠るベッドの端に腰掛け、すっかり気の抜けた昨夜の酒を杯に注ぐ。ちょうど杯一つ分、残っていた。くっ、と呷ると、空いた腹によく染みた。痛かった。
小さなノック音がする。応じると、ドアを開けて入ろうとしたエンギワルーが「ちょ……」と言ったきり、ノブを掴んだまま目を見開き、その場に硬直した。カズマは軽く肩を竦めてみせると、手早く着替え、固まったエンギワルーの肩を軽く叩いて促し、共に部屋を出る。私はそんなにそんなに子供ではないぞ、と言うと、エンギワルーはようやく「朝食の用意が出来ておりますがいかが致しますか」と続けた。
無論、とカズマは朝食を要求した。
ふと、その言い方はなにやら男くさくはないかと思った。
カズマはまったくいつもどおりに朝食を終え、食後のコーヒーを飲んだ。
昨日は目を通す暇の無かった経済紙を改めてチェックする。
期待していた株は予想以上の高値をつけていた。売り時だ。
書生を呼びつけると二、三、的確な指示を出した。
エンギワルーは何も言わなかった。
ばったん! と派手にドアを蹴り上げて周子がダイニングに飛び込んでくる。
蝶番の外れんばかりの勢い。
「あんたでしょ! こんなふざけた真似したのッ!」」
ミーザマス! とでも言うほうがずっと似合いそうな珍妙なヒゲ面で周子は、カズマの胸元を掴むなり、開口一番勢い良くそう怒鳴りつけた。
案の定、大騒ぎだな、とカズマは思った。
「起きてさー、シャワー浴びて気が付いたらやっぱし違う部屋でさー!! ああんまたやっちゃったかと思って、ふと鏡見たらさ! ンもう!!! なによこれ、なんなのよーッ!」
周子は掴んだカズマの胸倉をがくがくと激しく揺さぶった。
「アンタガカイタンダロー! しかも油性マジック! どおしてくれるのよ!」
カズマは笑いながら、ずり落ちかけるメガネを押さえた。
にぎやかだった。
こうなることは当然読んでいた、むしろ、楽しみにしていたといっていい。
これが周子だ、と思った。
「あはははは、笑えます」
カズマは笑った。その間抜けなヒゲ面が、泣きたいほどに切なく自分の胸に響きはしたが。
「ほらね、酔って爆睡するから、そんなヒゲ書かれるんですよ。夕べそんな話をしていたではありませんか、あなたが、そう、ご自身で。マジックペンでって」
「だからって!」
「スナック菓子を鼻に詰めた方が良かったですかね?」
「なんですって!?」
たちまち目を剥いた周子の一挙一動に、その言葉の勢いに、周囲が唐突に色づきゆくような感覚が襲ってくる。
くらくらするような、鮮やかさだった。
目の前で動き、文句をまくし立てるイキのいい周子がとても現実的で。
昨夜のあの、死んだように深く眠る女の身体が、まるで夢のようだった。
まあ、ともかく、とカズマは周子の腕を払うと、己の胸元の縒れを直した。指先で周子のひげをつつつーとなぞって、素っ気無く言った。
「ベンジンで落ちますからそう怒るな」
「ベンジン!? 乙女の柔肌をンなわけのわからんもんで拭けと? 落ちんの、それで?」
「ではそのヒゲのままでいますかね」
「うぐ」
うぐぐぐぐ、と拳を握る周子の姿が可愛くて。カズマは知れず目が細くなるのを抑えられなかった。
かの致命的なまでに欠陥品の魂がその身体に戻っていることに何より愛しさを覚えて。
「エンヴィ、ベンジンを」
「……切らしています」
絶妙ですね、とカズマは、また大きく笑った。
笑い事じゃないよ! と周子が大きく叫ぶ。
冗談は良いから、ベンジンを持ってくるように、とカズマは再度エンギワルーに言いつけ、また微笑む。
「あなた、ツラの皮は厚いでしょう、この私を素寒貧にすると断言しているのだ、ベンジンぐらい、大丈夫でしょう。それを乙女の柔肌だなんて。まことつくづくあつかましい。……ああそうか、顔じゃなく他の肌はなかなかのものでしたでしょうか?」
そう言って、カズマは微笑んだ。
ぴた、と周子が固まった。
数十秒の間たっぷりと硬直して、それから、カズマのシャツの袖のあたりを心細げにつまんで見上げる。
おろおろと目が泳いでいる。
「ああああああのさ、起きたらさ、私ハダカだったんだよね……な、なにかななにかななにかな? 私何か間違いでも……いやしかしまさか……でもいや待て待てよ……」
きれいさっぱり記憶が無い、と泣きそうな顔をして。
そして、周囲をきょろきょろと見回して。
ギャランは? と聞いてくる。
寝てる隙にまたあのバカが私に、その、あのさ、いやその、とごにょごにょと口を濁す。きききききききの所為かな、とか何とか、ごにょごにょと言いながらうつむき、見る見るうちに赤面してゆく。
カズマは唐突にイラッ、とした。
「王はあの後、あなたが酔いつぶれた後、深夜にハロックと遠乗りに出てらっしゃいます、まだお戻りではありません」
そう言って返すと、ほえ? となんとも間の抜けた声を出して、今度はカズマの顔をまじまじと見つめてくる。そして、しばらく逡巡した後、
「いやあまさかねぇ!」
と言ったきり、固まった。
しばらく沈黙して。
「まさかねぇ!」
と、再び真顔で同意を求めてくる。その表情はまるで子供で。
昨夜のあの妖艶な様とはまるで別人だった。
気が強く頭の回転が速いくせに、恋情や性的なものにまるで疎い。
ぱっと人目をひく程の綺麗な顔立ちと良い体つきをしているのに、自分のそれに男が抱く劣情をまるで知らない。
―――なんとまぁ、莫迦なものだ。
「まさかねぇ」
と、カズマは周子の言葉を繰り返してやる。
ふう、とカズマはあきれたように息をついてみせる。わざとらしく。
「派手に酒をこぼして自分で脱いだんですよ? みっともないからと私は止めたのに。そもそもあれほどに酔うこと自体が大間違いです」
ツッコミどころもないほど、キッパリと明確に返してやる。
脱がせた周子の服にはカズマがぐっしょりと酒を掛けておいた。
抱く前はほんの悪戯のつもりであったし、ことが済めばまた着せておけばよかろうとでも思っていたのだが、抱いてみると、どうにもひどく惜しい気がして。裸のまま転がしておけば、鈍い周子でもさすがに察するのではないかと心のどこかで期待した。
―――否。
あれほど繰り返し抱いたのだ、いくらなんでも、その体の違和感は拭いきれぬだろう。
―――気づいている。
だが、彼女はそれを認めないだろう、と思う。
この珍妙なヒゲの効力はいかほどであろうか。
「へへへへへ、ヘンなこと、した?」
「ええしましたよ?」
にっこりとカズマは微笑んで。
こう言えば、返る言葉は決まっている。
「うそだ!」
案の定、周子が痛烈な勢いで否定した。
「そ、そもそもヘンなことってナニヨ!」
「あなたの思っているとおりのことでしょうよ?」
カズマがさらりとそう言って返すと、ええっ、そんな! と叫んで目の前の周子はみるみるうちに真っ青になった。
カズマはにっこりとまたも微笑んで。
そして、返る言葉がおのずと定まる計算づくの言葉を放つ。
「ご自身の身体に聞いてみればいかがです? その類の身体の感覚はもう王に教わっているんでしょう? 私、キスマークの一つや二つ、つけたかもしれませんよ」
「あああああんたみたいなトウヘンボクが私に手を出すわけ無いじゃん!」
噛み付かんばかりのその勢い。
予想通りに返ってくる言葉に微笑んで。
ふむ、とカズマは少しオーバーに首をひねってみせる。
「私もずいぶん酔っていましたしね?」
「あんたはお酒には酔わないでしょう!」
「ええ。滅多には酔わないですね」
そう言ってまた微笑む。
私を酔わせたのは隠し切れぬあなたの色香だ、そう言ってやったら、どんなカオをするだろうか。
メガネの奥の眼差しをチラリと怜悧に鋭く光らせ、一度カズマは周子を睨んだ。
―――気づかぬか?
微笑とは裏腹に、心の中ではぞっとするほど激しい焦燥が渦巻いている。
―――その体に強く残る違和感を、私の所為だとは思わぬか?
いま気づけば。今ならまだ私も白状しよう。
私に抱かれたと、どうにも思い至らぬか?
「じゃあ酔ってないんじゃん! あんたわたしのことからかって遊んでるんでしょ!」
「ええ、面白いですよ」
カズマはたまらず目を伏せた。
知れず、深い吐息が漏れる。
ただ、その、女の身体を抱きたかった。
面倒なことはごめんだと、泥酔した体に睡眠薬を含ませて。
合意なんて微塵も無く。むしろあれは犯罪だ。
そんな隙のある周子が悪いのだろう、と、と切り捨てるつもりだった。
ただ、自分にそうさせるのに、相応に深い理由があったことに自分自身気づいていなかったのだ。
今となってその心が欲しいなどと。
無下にその身体を抱いてしまってから、決してそうではなかったのだ、合意の下で意識ある周子をこそ抱きたかったのだと思い知ったのだ。
―――ダメだ、また始まった。
周子を抱いてカズマは、己の焼けるような情欲を初めて知った。
堂々巡りな情欲の煉獄にどっぷりと浸かってしまったのを知る。
カズマは顔を上げると、やはりにっこりと笑った。
「大体、あなたがそんな意識を失うほどに深酒をなさるから、あとでひどくうろたえるのですよ。以後気をつけなさい。相手がまだ私でよかったですよ? ヒゲで済んで。これでスナック菓子があればもっと面白い顔に出来たものでしょうが」
「そそそうだよね、女嫌いだもんね」
周子は大真面目な表情でうんうん、と大きく頷いた。
「女なんて触っただけで手が腐るとか本気で思ってるもんね?」
激しく捻じ曲がったその言葉に、致命的な胸の痛みを覚えてカズマは席を立った。
期待を差し挟む隙など微塵もあるはずが無い、この女はこういう女なのだ、無粋で、強情で。
事象を前に、だがそれを事実と認めない、彼女がその意志で認めぬ限り、どんな事象も彼女にとっての事実にはなり得ないのだ。
どれほどハッキリした証拠でも、それが己が目を背けたいことであれば平気で目を背ける、そんなことを臆面も無くやってのける、これはこういう女なのだ。未熟で、情が固く、一見軽妙に見えてその実全く融通の利かぬ性質だ。これはそうではない、と、事実ではないと彼女が否定する限り、彼女にとっては、無いものは無い、そういう理不尽で幼い頑固さ、ろくでもない女なのだ。
察するか、などと賭けるのはつくづく愚かなものだ、私もどうかしてる、とカズマは心底そう思った。
「失礼、私、これから出かけますので」
好いた女をこの腕に抱きたいなど、ほんの一時、甘い夢を見た、と思った。
なんともいえぬ砂を噛むようなこの気持ちも、今のこの時までだ。
彼女が何事もなかったと納得するのならば、それで良い。
その身体の違和感をすべて無視するのならば、それで構わない。
もし、もしいま周子がこの場で、昨夜私との間になにかあったに違いない、とそう主張するならば。
そのことに怒りをぶつけてくるのならば。
―――あなたが怒るべきはその珍妙なヒゲではないはずだ
私に穢された、と、つまりはもはや王の下へ行ける身ではないと力づくの論理でねじ伏せ、こちらへ引き寄せるまでだ。
そのための論法ならば、いくらでも揮ってやろう、欲しい女を自分にがんじがらめに縛り付けることが出来るならば、どのような論術も謀略も尽くそうと思う。
むしろ、そうしたかった。
周子を論理的にねじ伏せることなど、今のこの内なる熱情を御することを思えばずっと容易いことに思えた。
だが。
カズマは、そうだよねぇ、と頷く、ほっとした表情の周子を見て、だがやはりあきらめるしかないであろう現実を静かに悟った。
手にしていた経済紙をテーブルに放り、ダイニングを後にする。
ふと、戸口のところで足を止めて。
いや、足が、止まったのだ。
動かなかった。
カズマはゆっくり振り返ると、一度だけ、あがいてみることにした。自分が思うより酷くしつこく、欲情がうずいているのだ。先ではなく、いま、欲しいのだ。到底、手放せそうな気がしない。
―――いっそこのまま、自分のものに、
周子に歩み寄り、その左腕を取った。
「はて、このあざはなんですか」
「え?」
その肩にカズマがきつく噛んだ歯型がついている。愛しい痕だった。
周子は首を回し、その肩の赤い痕を見、たちまち眉根を寄せて不満げに口の端を下げた。
「どうりでなんか痛いって思った、シャワー浴びたときピリピリしてた」
率直なその言葉、それから周子はううん、と唸って、カズマを見上げた。
かなり長い間、周子はカズマを見上げていた。
だが。
出てきた言葉はカズマの予想をはるかに超えるものだった。
「ずいぶん久しぶりに出たわ」
「は?」
「うん、昔から、たまに……気づいたら出来てるの、さすがにこんな、齧られたみたいなのは初めてだけど。もっと赤みの淡い感じのが」
「……昔から?」
カズマは眉をひそめた。
「私、体がおかしいんじゃないかって父さんに言ったことがあるけど。ヘンな病気か、ああ、あとはなんか厄介な魔物の呪いか、とかって。クルはキスマークだって、冗談じゃないって、すんごい怒ってたけど、冗談じゃないのは私の方よ。そんなもの誰につけられるって言うのよ。あり得ない。もうとにかくすごい不思議でさ? 朝起きたらこんなのが浮いてて……首筋とか、胸元とか、太腿の内側だとか、なんか柔らかいトコばっかり狙ったように付けられてて、何の魔物の呪いか知らないけど、気持ち悪いよねぇ」
周子は不満そうに、そして困り果てたようにてへへ、などと笑ってみせる。
「特異体質かなんかだろう、って、父さんが」
カズマは自分の瞳孔が開いたのを感じた。
抑え難い気持ちに揺れながら、気づかれぬよう、さぞやんわりと、つけたのだろう。思えば確かに、周子のその肌の反応は存分に成熟していた。
男を知らぬと以前当人は言っていたが。確かに、抱けばその芯に初心な手ごたえを感じたが。だが。その肌に手を這わせたときの、微かに震える、なめらかな、触れれば触れるほど離れ難くなる、すべての情欲を吸い付けるような妖艶な様はどうであったか。
むしろ、存分に、愛された肌である。
カズマはここに至りて初めて、修三の想いが分かった気がした。
実の娘に対するそれではない。むしろ相当に入れあげているのである。
むしろ狂気に近い恋情であろう。抑圧に抑圧を重ねた、ぞっとするほどに壮絶な色気が渦巻いていたことであろう。
―――修三……
眩暈のようなものを感じて、カズマはふらり、と背を向けると戸口から足を一歩踏み出した。
鋭い馬のいななきが、唐突に空気を裂いた。勢い良く馬を駆ってきたらしい、馬の急停止するひづめが土を擦る音。そしてすぐに、どかどかっ! と玄関に騒々しい靴音、次いで快活で元気の良い男の声が廊下に響く。
「めしっ! 腹減った!」
廊下の向こうのその声に、弾かれたように周子が飛び上がった。
「あ、いや! 待って! カズマ様ちょっと待って!」
周子が出て行こうとするカズマのシャツの裾を、はっし! と掴んだ。
不意に強い力で引かれたのと、カズマ当人がとことん脱力していたのもあり、カズマは振り向きざまに大きくよろけ……
―――修三はどのようにして周子をこれほどに縛り付けることに成功したのか
カズマは、踏みとどまるわけでもなく、ほとんど抱きしめるかのように周子に身体を預けようとし……
その瞬間。
力強い腕が、大きく傾いたカズマの体を強く支えた。
「おい、大丈夫か?」
ギャランだった。
[tog]65:ライアー
Created: 2006-07-10 Modified: 2007-12-08
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- 2006-07-10 03:32
- カテゴリ : 「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中
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