コハリトりみっと
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通された広間の上座の一角には、毛足の長い上等な獣の敷物が贅沢に重ねて敷き詰められ、すでに領主ルシウスがゆるりと腰を下ろし、酒盃を手に、くつろいでいる。
姿を見せたカズマに、おいで、といった具合に軽く手を上げて。
銀髪の流れるその優美な様といったら、女よりもはるかに色気がある。
歩を進めるたび、かつん、かつん、と、とても澄んだ心地良い音が足下で響くのを聞き留めて、カズマはやれやれ、と感嘆半分、呆れ半分の心持になった。
柔和ななんともいえぬ良い具合の白虹色の輝きを放っている上質な白大理石の床が、これほど均一で澄んだ音を立てるというのは、一体そこにどれほどの職工の労力と金とが注がれていることか。量っても量りきれぬ。
贅沢で美しいもの好きのルシウス、この十年、その暮し向きは一層華美な方へと流れているようだった。
促されるままにカズマはその隣に腰を下ろして。背もたれに寄りかかるようにして軽く身体を預けると、適度にやわらかくなんともよい心地がした。
ふわりとした、女の良い匂いがそのカズマの隣に座ろうとするのを、ルシウスは制止して。
杯をとりカズマに差し出す、その伸びる白い細い腕は、女のようでいて女のそれではない。瑠璃の瓶子が傾き、ルシウス自身が手づから酒を注ぐ。腕だけ見ればまあ、女のようにも見える、生まれてこのかた、およそ剣など手にした事のないまさに文人の腕だ。瀟洒な楽器を奏でたり、絵筆を取るくらいの途にしか使っていないのが明白である。
ルシウスは侍女ににっこりと微笑むと、言った。
「ああ、特に給仕は要らない。私が勝手にやるから。踊り子も要らない、こちらの若様は女嫌いで有名だからね……もっとも、どうやら最近は多少、変節したらしいけど?」
カズマはぴた、と硬直した。
思わず杯を下げたくなるほど、嫌な予感がした。
「久しぶりに貴殿が来るというからさ。楽しみにしていたのですよ、可愛い私のカズマ。お前はあの男にかまけてもうずっとこっちには寄ってくれなかったですからねぇ」
―――あの男、
ルシウスはギャランをそう呼ばって憚らぬ。
んん、と抗議の色をこめて、カズマは低く喉を鳴らした。
「かれこれ十年も隠遁生活を送ると、そろそろ世の些事が気になるのでは、と思いましてね? 仔細は明日、話をするが、今回私は、貴殿を王宮へ招聘すべく説得に来たのだ」
「ああ、でしょうね」
ルシウスはあっさりと頷く。
そして、いくらあなたの頼みでもそれは聞けませんなぁ、と何処か剣呑な微笑を浮かべて。長い銀髪を指先でくるくると巻きつけ、もて遊ぶ。しなやかな銀髪はしゃらりと微かな音を立て、絡むことなくその細くて白い長い指を滑り落ちる。
「でもねぇ、可愛い私のカズマ、会いたくて会いに来たのだと、そんなリップサービスも時には必要ですよ、私の心証を良くしたければ、それは大変に有効な手段です」
何か策は練ってきてますか? と優しい口調で問うてくる。
「この十年、みながみな、失敗していますからね、この手の交渉」
「私は自分が貴殿と最も近しい人間だと思っているが」
「人選は大正解です」
まるで他人事のようにさらりとそう言って微笑んでいる。
「ご自身を手土産にいらしたと、カズマ? 健気で可愛らしくてよろしい。だが、確かにお前のことは好きですが、それ以上に王宮は大嫌いだけど?」
「……何を言う、私をオモチャに、王宮を掻き回していたくせに」
「政治とは抜け道があってこそ、上手く機能するものです」
悪びれる素振りも無くにっこりとそう返すルシウスに、カズマはかつての王宮の様子を思い出し、苦笑した。
―――まだルシウスが宮中にいた頃、ルシウスの首を縦に振らせるために、どれほど自分が借り出されたことか。
王宮貴族がこぞってカズマを連れ出しに来るのである。カズマさえ同席していれば、ルシウスは上機嫌だった。無論カズマはそれを拒む、だが拒めば拒むほど、諸侯は手を変え品を変え、カズマを引きずり出そうとする。あるいは、カズマ如きを上手く扱えぬ輩は最初から相手にはしない、とルシウスは公言しているといってよい。
上手くカズマを引きずり出してきた時のルシウスの機嫌は、それはもう、この上なく良かった。国王陛下の覚えめでたきルシウスの興さえ買えば、通りそうもない懸案も上手く扱ってくれる、というのが王宮貴族達の公然たる抜け道だった。
十年前までは。
「貴殿を王宮へ連れ戻しに来たのだ」
「楽しいのなら、ね?」
と、言ってまた微笑んで。
美しい男である。
カズマは銀髪の詩人と謳われたこの従兄弟の、女と見まごうばかりのその美しさにどれほど引け目を感じてきたことか、と思う。
正直なところ、昔から並んで立つのが嫌だった。まんざら他人でもない、従兄弟である間柄ゆえ比べられることも多く、だが十年もの年の開きというものは、子供にとっては、知識も経験も、そつの無さも、挽回しようとして到底それが敵うものではない程の大きさであるということをカズマは知っている。
そして、年が十も上のくせに、実際並んでみると年子? と言われるほどに年が近く見える、年齢不詳の美しさのある男だ、優美なその外見に惑わされがちだが、中身はものすごく切れ者だから、ますます始末が悪い。
変人、との誉れも高く、気分のムラも大きく、気に入った人間には非常に良くするが、そうでない相手にはとことん手厳しい、それがこの男の本質である。
「確かに私は退屈しきっています、だが、世の些事には相変わらず興味はないのですよ? 王宮は嫌いです。私が共に楽しい思いをしたいのは、そう、カズマ、お前とですよ?」
お前と遊びたいのです、そう真顔で言って、その端正な顔立ちを近づけてくる。
カズマは苦笑した。
「兄上、私はそういつまでも子供ではない。いつまでもあなたに振り回されているわけには行かぬのだ」
「お。兄上! 兄上コールですね!」
嬉しいな、とルシウスはそれこそ満面の笑みを浮かべた。
「もう何年振りでしょうね! お前がそんな風に呼んでくれるのは! ははあん、そう喜ばせておいて、カズマ、本気で私をオトす気ですね?」
よろし、とにっこり頷く。
「いつかはこうしてお前が涙目で頼ってくるだろうと、私、待っていたのですよ。ええと、そう、かれこれ十年ばかり。先だってお前がこちらへ寄ったのは五年前、ですが非常にそっけない挨拶振りでした、がっかりというかなんというか、ああ、思い出した、私ちょっと怒りました、お前があまりにつれないので」
「避けられる理由もご存知のはずだが。涙目? 失敬な」
「女も嫌い、男も嫌いで、好きなのは金だけときている、色気のないことだ」
茶化すな、とカズマは難しい顔をした。
「ねぇ、カズマ、お前に勉学および論術を教えたのはこの私ですよ。いまさら師でもある私を担ぎ出すこともないでしょうに」
「しらばっくれた口を聞くな、貴殿を担ぎ出す理由をも察しているクセに何を言う、サトリ」
「底の抜けたバケツは底の抜けたバケツですよ、水は汲めません」
「水は汲まぬ」
「ほう」
ルシウスはちら、とカズマを軽く睨む。
そして、楽しそうに目を細めて。
「解は素敵ですが、論筋が弱い」
「それを補うつもりです、貴殿で。アシュー殿は政務をこなすには良いが、新施策を立てるには力強さもキレも足りない、貴殿が最適だ、如才ない貴殿の腕ならば、王を中心に周囲を上手く盛り立てることができる」
アシューはもちろん、カズマの優秀さを公言して憚らないギャランでさえ、このルシウスをカズマのさらに上に据えている。
「王は盛り下がりますよ。あの男は私が苦手です」
「貴殿が厳しかったからでしょうに」
十年前のあの夜までは、確かにルシウスが宮中にいて。若くして前王陛下に重用されたルシウスは、その聡明さを買われ、カズマばかりではなく他の有力な貴族の子弟の教育係をも務めていたのだが、勿論、前王陛下の正嫡、ギャラン王子の教育係としての役割をも担っていた。もっとも、ギャランは万事に容赦のないルシウスが怖くて逃げてまわっていたのだが。
「もともとは頭の良い子供だったような気がするのですがね?」
「……貴殿が怖くて勉学を放棄したようなものです」
カズマはきゅっと酒を呷った。
私は自ら王宮へ赴くつもりなど、さらさらありませんがねぇ、とルシウスは余裕たっぷりに首を傾ける。そしてカズマをからかうように眺めて。
「お手並み拝見てヤツですねぇ。私の知を継いだ貴殿の優秀な頭脳が、あの男にどれほど毒されていないか、試せます」
「本気で口説きますよ?」
「いいですよ、やってごらんなさい」
ルシウスは微笑む。
きり、とカズマは軽く呷った杯の縁を噛んだ。その余裕の笑みが、口惜しかった。
優雅な微笑だ。悪意の欠片も見えない。胸の内のものすべてを隠すことのできる完璧な微笑だ。自分はこれほど完璧な微笑を浮かべることが出来ているだろうか、とカズマが自問せざるを得ないほど、年季の入った、一分の隙もない見事な美しい微笑である。
カズマもにっこりと微笑み返す。
グランツの貴公子と褒称される、見事な微笑ではあるのだが。
それを教わったのは、紛れも無く、ルシウスこの人に、だ。
「くす。なんとも可愛らしい」
拙いなぁ、かわいいなぁ、とルシウスはいっそう、余裕の微笑みを見せ、ちろりと、赤い唇を一度なめた。
「私を弁論で打ち負かせるだけ成長したのかしらねぇ?」
「今、試しても良いですよ。酒に酔ったなどと言い訳するほど酔ってもいないし」
「お楽しみは明日です」
きっぱりとルシウスは突き放す。
せっかちなのは相変わらずですね、と笑って。神経質だし気が短い、女とは懇ろにはなれぬ気質ですよね、ラインハルトに馬鹿にされても仕方ありませんねぇ、とチクリと痛いところを突いてくる。
カズマは微かに眉根を寄せた。
酒がぴりりと唇を痺れさす。
―――あれから、十年、果たして自分は、この従兄弟に太刀打ちできるだろうか。
この男は、斬ればそこから音楽が流れ出すような、浮世離れした男なのだ。まるで妖精のようにふわふわとしているこの男を捕まえ地面に引きずり下ろし言うことをきかせることなぞ、果たして本当にできるだろうか。
どれほど時間が経ったろう。
つれづれの話などしながら、瑠璃の杯に幾度口付けたことだろう。
もともと酒に乱れぬ性質である、さほど堪えはしないが、勧められるがままに、酒量はいささか常を過ぎてはいる。
カズマはちら、と眼差しを伏せた。
ルシウスがペラペラと喋り、カズマが寡黙に相槌を打つ。ルシウスの言葉はまるで尽きぬ泉のようである。昔から、カズマを前にした機嫌の良いときのルシウスは饒舌極まりない、まるで魔法の掛かった楽器の奏でる音楽のようにとどまるところを知らぬ。
決して不快ではない、むしろその声は聞いていて心地よいくらいの軽やかな美声なのだが、夜が更け行くにつれ、どうにもカズマはルシウスとの会話に集中しきれぬ己を感じ始めていた。
カズマは時折ふと、視線を泳がせるが、無論周子の姿は無い。
従者にまぎれて食事をとり、それなりの歓待を受けてはいるだろう。エンギワルーがついている限り心配すべきでは無い、と己に言い聞かせつつ、やはり、気にはなる。
カズマは知れず息を吐いた。
「ねぇ、ルシウス、あなたは本当に妖精が見えるのですか?」
「見えますよ、今は私の肩に乗ってます」
「?」
「おや。波長が合わぬと見えぬのです、美を解する、美しい心がね、必要なのですよ」
ルシウスは真顔である。サイズはこのくらい、と片手のひらを広げる。白く透いた四枚羽根で、淡く虹色に発光している、小さな女の子の形、と端的に説明し、夜になると成人した女体に姿を変えて寝所に忍び込んでくるのですよ、素敵でしょう? と微笑んだ。
「ふふ。お前が妖精に興味を持つだなんて。昔は魔物なんているわけない、ときっぱり否定していたのにねぇ?」
「………………」
周子をルシウスに引き合わせる気なぞ全くないのだから、当然彼女はこの場にはいないのだが。なんとも気にかかる。
―――侍女然と、大人しくしていると言ってはいたが…。
さっきの常ならぬ様子といい……ヘンな魔物と出会って揉めてはいないだろうか。
あるいは、何か余計なものに興を惹かれ、エンギワルーの目を盗んで勝手に抜け出したりなぞしてはいないだろうか?
いや、と、カズマはまた別な懸念を挙げる。
先ほどのなにやら急接近な耳打ち。
声は聞き取れなかったが。その距離、やけに近くはなかったか?
―――エンギワルー、 このタイミングで、何か動きを見せるつもりだろうか。
そもそも、軽く揺さぶりはかけてある。
ここ、アラカンサスモートは西側をセリアと国境を接している。ニキロの非武装地帯があるが、エンギワルーほどの手練れであれば国境警備を突破するのはわけないはずだし、十分に馬で突破できる距離と地形である。というよりも、エンギワルーならばむしろおそらく、グランツ家の名で以って商用と称し穏便に、そして堂々と正面から検問を抜けるだろう。
それに相応しい理由はいくらでもあるし、カズマ・フォン・グランツに最も重用されている侍従長として、その仏頂面はあまねく国の要所要所に知れている、いわば顔パスの存在である。
思えば、此度のアラカンサスモート行きを押し切ったのはむしろエンギワルーなのだ。
―――甘かっただろうか。
そうだ、そもそも、周子一人見るだけで既に手一杯だった筈ではないか。
その上ルシウスにまで手を出すだなんて、自分はリスク予測が甘くはないか。
エンギワルーは、自分の身動きが取れぬこの機会に、周子を国外に連れ出す気ではなかろうか、
―――いやしかし、
一度過ぎったそんな疑念を払って。
だが、ここで王宮にルシウスを投入しなければ、今後の自分の動きが難しくなる、ルシウスにこのタイミングで会いにくるのは、必須ではあるのだ、危険ではあるものの、決して間違ってはいない。
―――危険ではあるものの……
しかし、周子を失うのは、その代償としては、大き過ぎる。
「どうしたのです、カズマ、落ち着かないな、酒は不味いですか?」
この酒は気に入らなかったかしら、と、ルシウスは、夜が更け酒がすすむにつれ、なんとはなしに落ち着きを失い行くカズマを軽く詰った。
首を傾け、ちら、とカズマの硬い表情を覗き込む。
「疲れましたか?」
「ええ。結構な長旅だったし。そろそろ休ませていただ……」
「ダメよ、この軟弱者めが」
「…………」
カズマはうんざりと一度緑髪を掻いて。
「兄上。疲れたかと聞いておいて、素直にそう答えれば、普通は寝させてやるものだろう」
「そんなのただの社交辞令じゃないの」
カズマの言葉にルシウスは笑っている。
ああ全く、兄上はいつもの調子だな、とカズマは呟いて。
―――周子の傍にいよう、不穏だ。
嫌な汗を滲ませつつ酒杯を呷るくらいなら、いっそ周子のそばにいたほうが、余程気は楽だとカズマは思った。
やはり周子を連れて来なければ良かった、もしこれがエンギワルーの策ならば、すでに術中にはまっている、と思いつつも、どうにもルシウスとの会話に集中しきれぬ。
そんな気のそらそらとした感じはとうにルシウスの方が察しているはずだ、聡い男だ。
―――誤魔化してもどうせ分かりきっているだろう
今更何の遠慮がある、と言わんばかりにカズマは杯を置いた。
案の定、ルシウスがちら、と目を伏せると、流し目で切り込んできた。
「妖精、ねぇ」
お前がそんな話を振ってくるだなんて、と、灰色の瞳が、容赦ない輝きを湛えている。
「カズマも何か、変わったものと情を交わしたかな?」
「……………」
ええもちろん、お見通しですよ、と、ルシウスはにっこりと笑う。
ぞっとするほど物騒な、美しい微笑みである。
「遠目に見ましたが、黒目黒髪、双黒の女など実に珍しいですね」
「あれは」
「ぞっこんですねぇ」
かっと赤面するだろうと思っていたルシウスは、しらけた顔のカズマをまじまじと覗き込んだ。
「おや。情婦じゃないんです?」
「ええ」
短いカズマの応え。
ふううん、とルシウスはつまらなそうに杯を呷る。
「必要以上に抱きしめていたような感じでしたが?」
「……何を見ていたのです?」
「なに、屋上から望遠鏡で眺めてましてね、ええ、あの、遠視の魔石を使った、特別仕様の望遠鏡ですよ。で、グランツの若様ご一行をね。一番近くの町からここへは馬に乗り換え、あの山道を来るしかないですからね」
一人で馬に乗れると主張する周子を、あんな熾烈な馬捌き、果たしてどこへ行くか分からぬ、ときっぱり言い捨てて、カズマは有無を言わさず自分と相乗りさせていたが、そのこと自体は正解だった。
きょろきょろと、全く落ち着きがない。あれはなんだこれはなんだと、指差してはまるで子供との問答である。これで馬を与えていればきっとあっという間に姿をくらましていただろう、あるいは周囲に気をとられ、馬ごと崖から転がり落ちているに違いない。
「落ちますよ」
と、馬上で身を捩った周子を何度嗜め、体をぴたりと寄せたことか。
そうでもしないと、ほんとに転げ落ちてしまいそうだった。後から腕を回して手綱を取れば、周子はずっと小柄で。華奢な肩に、触れる背に腕に、女らしい骨の細さがある。
まんざら知らぬ身体ではないが、意識のある周子というものは、自分の肌が覚えているそれよりもはるかに奔放で。まこと、御し難い。それこそ、馬に噛ませた噛具を周子の口に突っ込みたいくらいだった。
―――こんな女を抱こうだなんて、王もどうかしている
カズマはそんなことを思い出しつつ、うんざりと首を振った。
「……領内を覗き、と? 良い趣味ですね」
「ただの俯瞰ですよ。お手軽な領内の見回りです、覗きだなんてそんな人聞きの悪い」
えっちな子ね、と瑠璃の瓶子を持ち上げたルシウスを軽く睨み、カズマは一度置いた杯を再び取り上げると、酒を受けた。
くっ、と呷る。
ルシウスは空いたカズマの杯に瑠璃の瓶子を傾け、再び酒を満たす。
「そうそう、それでいい。気のそぞろなお前を無理に付き合わせるのもなかなかストイックでよろし」
ルシウスは、テーブルに肘をついて。
カズマの端正な顔を覗き込み、上機嫌に微笑む。
「ああ、お前はついこの間は、なにやらガーナの歴史とミアムについての資料を寄越せ、と、そんな書状を携えたあの仏頂面の侍従長を寄越したのでした。ええ、お前の頼みですから、多少の資料はあのハゲたおっさんに持ち帰らせましたが、ふふ、やはりあなた自身が出張って来ましたね、本当はそれを相談しに来たのでしょう?」
「相談する気はない。貴殿が、思わせぶりなことを書いて寄越すからだ。失せた百代目、と。何を知っている?」
「そこはそれ、何を知りたいか、カズマの交渉力に依存します」
「実にイヤな感じだ」
「鍛えて差し上げると言っているのです。お前のそのひたむきさだけでは、あのバカを国王に据えたところで到底支えきれぬ」
「バカ? ……口を慎め! いくら貴殿でも、臣下であれば聞き捨てならぬ言葉だ」
「ふん、臣下ではないよ? 私はもう十年も前に落籍しています、あの男は嫌いです、お前の初心なトコロを全部掻っ攫っていった罪は大きい。カズマを突付くのが、私のイッチバーンの楽しみだったのに」
カズマはぴたり、と杯を唇に当てたまま止めた。
「……ひょっとして、貴殿が王宮を去った理由はそれですか?」
「他の男の手垢の付いたお前など。なんだか腹が立ちまして」
「嘘だろう?」
「ウ・ソ。ふふ」
喰えぬな、とカズマはうめいた。
「いや、とにかく、私は自分が鍛えられるためにこちらへ伺ったのではない、掏り替えるな! 貴殿を王宮へ引きずり出すために、来たのだ。貴殿のその知の化身とも言うべき知識と先見の明と良く切れる論術を、王宮にて揮え、と」
「ふふん、相変わらず強情で頑固ですね、そんなにあの男が好きですか……まあいい。で? その、黒……」
「貴殿には関係の無い話だ」
カズマはぴしゃり、と遮った。
「ほう、手厳しいですね」
ルシウスは目を細めた。
つくづく、おもしろそうな話ですね、と呟いて。
「カズマの情婦じゃないとして、だがお前はそれを連れ回している。私を王宮へ引きずり出そうという、お前にとってかつてないほどに厄介な交渉ごとの場にもね? 片時も目を離さずにはいられぬ女、と? しかも、私には関係の無い話、ときた。どうやら残念ながら私への手土産ではなさそう。すでに売約済み、ということか」
カズマは黙って杯を呷った。
ともすれば、それがギャラン王の情婦だと結論付けるのは容易いだろう。
「私よりもお前よりもさらに身分の高い者に既に売約済み。そしてお前はその女に大変丁重にかしづいているというわけだ、女嫌いで有名なカズマが。身近に置いているのでしょう? 余計な虫がつかぬよう、あんな仏頂面でマッチョなゲーハーに護らせて」
「ゲーハー……」
再度、面白そうだな、と呟くルシウスの赤い唇が、面白くなくて。
カズマはもういいだろう、と話を切り、今度こそ杯を置いた。
「グランツ家から寵姫を出す気なの?」
「兄上には関係がない、口出し無用だ」
「面白いですねぇ」
カズマはキッチリと、杯をテーブルに返し伏せた。退席するという意思である。
軽くメガネを押し上げると、己の襟元をぴっ、と正す。几帳面で神経質な、カズマらしい苛立ちの仕草である。
―――面白くない。全く、面白くない。
なぜ、周子にばかり、みな目を向けるのだ、胸が、じりじりする。
このルシウスなぞ、まだちゃんと会ってもいないというのに。
なぜこうも興を惹かれるのか。
カズマは胸に渦巻いた苛立ちをねじ伏せるかのように、冷たく目を伏せた。
「では、復籍の件、明日キッチリと話をいたしましょう。今回の私の用向きはそれに尽きる、違えるな、兄上」
そう言って、席を立とうとしたカズマの上着の裾をぐい、とつかんで、
「まあ、待ちなさい」
と、ルシウスは引き止めた。
にっこり微笑んで。
「食事をとってからお行きなさい。あなたはまだ育ち盛りです」
カズマは思わず目を剥いた。
「……いつまでも子ども扱いを」
「おだまり」
ルシウスはテーブル上の料理を指しては、これはどういう料理で材料をどこから取り寄せただのなんだの、詳細な料理の講釈を始めた。たしかに、どれもこれも美味そうな贅沢な料理ばかりが並んではいるのだが。
滔々と展開してゆくルシウス節、その贅を尽くした古今東西グルメ話を強引に遮り、カズマが席を立とうとすると、ぐぐぐー、とまるで駄々をこねる子供のように強くカズマの上着の裾を引いて握って離さない。
ルシウスが再度、食事をとるように大真面目な顔で命じてくる。
「とにかく長旅で、疲れているでしょうし、まずはキッチリ腹ごしらえです。カラ酒ばかり呷って。胃を病みます、そんな不良に育てた覚えはないですよ」
「疲れていると思うのなら休ませろ、兄上」
そう言い返して、カズマはキッパリと首を横に振った。
「……結構だ、貴殿のその奇妙な心づくしはもう十分」
ひどく冷たいカズマの声に、はあ、とルシウスは深くため息を吐き。
昔はもっと素直だったはずなのに、とわざとらしく呟いて寄越すルシウスに、カズマは露骨に眉根を寄せた。
「昔っから貴殿はどこかズレて世話を焼くのです、もう十分です、よくもまあこんなタイミングでありがたくも食事を勧めて下さることだ、要りません」
「何をそんなにカッカしているのでしょうかねぇ? 全くカズマはあの黒いのに夢中なんですねぇ? 心配でたまらないときた」
「黒いのっ!?」
あまりにその特徴のみを捉えたルシウスの言葉に、思わずカズマは復唱する。周子のことをそんな風に呼んだ人間は初めてである。
あまりに端的なその表現にしばし言葉を失うカズマに、ルシウスは不遜に微笑みかけた。
「そんなに心配なら、ここへ、同席させればよいでしょうに」
「!結構です!」
軽く頭髪を逆立ててカズマはキッパリと断り、今度こそ毅然と立ち上がる。
ルシウスはそんなカズマを見上げると小首を傾げ、にっこりと微笑んだ。
「先ほどの話、考えても良いですよ……黒い手土産に免じて」
到着した時に見た、あの、仕留めるべき鼠に狙いを定めた猫のような、爛々と輝いた眼差しである。
カズマはえらく厄介なことになりそうな予感に眩暈を覚えた。
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姿を見せたカズマに、おいで、といった具合に軽く手を上げて。
銀髪の流れるその優美な様といったら、女よりもはるかに色気がある。
歩を進めるたび、かつん、かつん、と、とても澄んだ心地良い音が足下で響くのを聞き留めて、カズマはやれやれ、と感嘆半分、呆れ半分の心持になった。
柔和ななんともいえぬ良い具合の白虹色の輝きを放っている上質な白大理石の床が、これほど均一で澄んだ音を立てるというのは、一体そこにどれほどの職工の労力と金とが注がれていることか。量っても量りきれぬ。
贅沢で美しいもの好きのルシウス、この十年、その暮し向きは一層華美な方へと流れているようだった。
促されるままにカズマはその隣に腰を下ろして。背もたれに寄りかかるようにして軽く身体を預けると、適度にやわらかくなんともよい心地がした。
ふわりとした、女の良い匂いがそのカズマの隣に座ろうとするのを、ルシウスは制止して。
杯をとりカズマに差し出す、その伸びる白い細い腕は、女のようでいて女のそれではない。瑠璃の瓶子が傾き、ルシウス自身が手づから酒を注ぐ。腕だけ見ればまあ、女のようにも見える、生まれてこのかた、およそ剣など手にした事のないまさに文人の腕だ。瀟洒な楽器を奏でたり、絵筆を取るくらいの途にしか使っていないのが明白である。
ルシウスは侍女ににっこりと微笑むと、言った。
「ああ、特に給仕は要らない。私が勝手にやるから。踊り子も要らない、こちらの若様は女嫌いで有名だからね……もっとも、どうやら最近は多少、変節したらしいけど?」
カズマはぴた、と硬直した。
思わず杯を下げたくなるほど、嫌な予感がした。
「久しぶりに貴殿が来るというからさ。楽しみにしていたのですよ、可愛い私のカズマ。お前はあの男にかまけてもうずっとこっちには寄ってくれなかったですからねぇ」
―――あの男、
ルシウスはギャランをそう呼ばって憚らぬ。
んん、と抗議の色をこめて、カズマは低く喉を鳴らした。
「かれこれ十年も隠遁生活を送ると、そろそろ世の些事が気になるのでは、と思いましてね? 仔細は明日、話をするが、今回私は、貴殿を王宮へ招聘すべく説得に来たのだ」
「ああ、でしょうね」
ルシウスはあっさりと頷く。
そして、いくらあなたの頼みでもそれは聞けませんなぁ、と何処か剣呑な微笑を浮かべて。長い銀髪を指先でくるくると巻きつけ、もて遊ぶ。しなやかな銀髪はしゃらりと微かな音を立て、絡むことなくその細くて白い長い指を滑り落ちる。
「でもねぇ、可愛い私のカズマ、会いたくて会いに来たのだと、そんなリップサービスも時には必要ですよ、私の心証を良くしたければ、それは大変に有効な手段です」
何か策は練ってきてますか? と優しい口調で問うてくる。
「この十年、みながみな、失敗していますからね、この手の交渉」
「私は自分が貴殿と最も近しい人間だと思っているが」
「人選は大正解です」
まるで他人事のようにさらりとそう言って微笑んでいる。
「ご自身を手土産にいらしたと、カズマ? 健気で可愛らしくてよろしい。だが、確かにお前のことは好きですが、それ以上に王宮は大嫌いだけど?」
「……何を言う、私をオモチャに、王宮を掻き回していたくせに」
「政治とは抜け道があってこそ、上手く機能するものです」
悪びれる素振りも無くにっこりとそう返すルシウスに、カズマはかつての王宮の様子を思い出し、苦笑した。
―――まだルシウスが宮中にいた頃、ルシウスの首を縦に振らせるために、どれほど自分が借り出されたことか。
王宮貴族がこぞってカズマを連れ出しに来るのである。カズマさえ同席していれば、ルシウスは上機嫌だった。無論カズマはそれを拒む、だが拒めば拒むほど、諸侯は手を変え品を変え、カズマを引きずり出そうとする。あるいは、カズマ如きを上手く扱えぬ輩は最初から相手にはしない、とルシウスは公言しているといってよい。
上手くカズマを引きずり出してきた時のルシウスの機嫌は、それはもう、この上なく良かった。国王陛下の覚えめでたきルシウスの興さえ買えば、通りそうもない懸案も上手く扱ってくれる、というのが王宮貴族達の公然たる抜け道だった。
十年前までは。
「貴殿を王宮へ連れ戻しに来たのだ」
「楽しいのなら、ね?」
と、言ってまた微笑んで。
美しい男である。
カズマは銀髪の詩人と謳われたこの従兄弟の、女と見まごうばかりのその美しさにどれほど引け目を感じてきたことか、と思う。
正直なところ、昔から並んで立つのが嫌だった。まんざら他人でもない、従兄弟である間柄ゆえ比べられることも多く、だが十年もの年の開きというものは、子供にとっては、知識も経験も、そつの無さも、挽回しようとして到底それが敵うものではない程の大きさであるということをカズマは知っている。
そして、年が十も上のくせに、実際並んでみると年子? と言われるほどに年が近く見える、年齢不詳の美しさのある男だ、優美なその外見に惑わされがちだが、中身はものすごく切れ者だから、ますます始末が悪い。
変人、との誉れも高く、気分のムラも大きく、気に入った人間には非常に良くするが、そうでない相手にはとことん手厳しい、それがこの男の本質である。
「確かに私は退屈しきっています、だが、世の些事には相変わらず興味はないのですよ? 王宮は嫌いです。私が共に楽しい思いをしたいのは、そう、カズマ、お前とですよ?」
お前と遊びたいのです、そう真顔で言って、その端正な顔立ちを近づけてくる。
カズマは苦笑した。
「兄上、私はそういつまでも子供ではない。いつまでもあなたに振り回されているわけには行かぬのだ」
「お。兄上! 兄上コールですね!」
嬉しいな、とルシウスはそれこそ満面の笑みを浮かべた。
「もう何年振りでしょうね! お前がそんな風に呼んでくれるのは! ははあん、そう喜ばせておいて、カズマ、本気で私をオトす気ですね?」
よろし、とにっこり頷く。
「いつかはこうしてお前が涙目で頼ってくるだろうと、私、待っていたのですよ。ええと、そう、かれこれ十年ばかり。先だってお前がこちらへ寄ったのは五年前、ですが非常にそっけない挨拶振りでした、がっかりというかなんというか、ああ、思い出した、私ちょっと怒りました、お前があまりにつれないので」
「避けられる理由もご存知のはずだが。涙目? 失敬な」
「女も嫌い、男も嫌いで、好きなのは金だけときている、色気のないことだ」
茶化すな、とカズマは難しい顔をした。
「ねぇ、カズマ、お前に勉学および論術を教えたのはこの私ですよ。いまさら師でもある私を担ぎ出すこともないでしょうに」
「しらばっくれた口を聞くな、貴殿を担ぎ出す理由をも察しているクセに何を言う、サトリ」
「底の抜けたバケツは底の抜けたバケツですよ、水は汲めません」
「水は汲まぬ」
「ほう」
ルシウスはちら、とカズマを軽く睨む。
そして、楽しそうに目を細めて。
「解は素敵ですが、論筋が弱い」
「それを補うつもりです、貴殿で。アシュー殿は政務をこなすには良いが、新施策を立てるには力強さもキレも足りない、貴殿が最適だ、如才ない貴殿の腕ならば、王を中心に周囲を上手く盛り立てることができる」
アシューはもちろん、カズマの優秀さを公言して憚らないギャランでさえ、このルシウスをカズマのさらに上に据えている。
「王は盛り下がりますよ。あの男は私が苦手です」
「貴殿が厳しかったからでしょうに」
十年前のあの夜までは、確かにルシウスが宮中にいて。若くして前王陛下に重用されたルシウスは、その聡明さを買われ、カズマばかりではなく他の有力な貴族の子弟の教育係をも務めていたのだが、勿論、前王陛下の正嫡、ギャラン王子の教育係としての役割をも担っていた。もっとも、ギャランは万事に容赦のないルシウスが怖くて逃げてまわっていたのだが。
「もともとは頭の良い子供だったような気がするのですがね?」
「……貴殿が怖くて勉学を放棄したようなものです」
カズマはきゅっと酒を呷った。
私は自ら王宮へ赴くつもりなど、さらさらありませんがねぇ、とルシウスは余裕たっぷりに首を傾ける。そしてカズマをからかうように眺めて。
「お手並み拝見てヤツですねぇ。私の知を継いだ貴殿の優秀な頭脳が、あの男にどれほど毒されていないか、試せます」
「本気で口説きますよ?」
「いいですよ、やってごらんなさい」
ルシウスは微笑む。
きり、とカズマは軽く呷った杯の縁を噛んだ。その余裕の笑みが、口惜しかった。
優雅な微笑だ。悪意の欠片も見えない。胸の内のものすべてを隠すことのできる完璧な微笑だ。自分はこれほど完璧な微笑を浮かべることが出来ているだろうか、とカズマが自問せざるを得ないほど、年季の入った、一分の隙もない見事な美しい微笑である。
カズマもにっこりと微笑み返す。
グランツの貴公子と褒称される、見事な微笑ではあるのだが。
それを教わったのは、紛れも無く、ルシウスこの人に、だ。
「くす。なんとも可愛らしい」
拙いなぁ、かわいいなぁ、とルシウスはいっそう、余裕の微笑みを見せ、ちろりと、赤い唇を一度なめた。
「私を弁論で打ち負かせるだけ成長したのかしらねぇ?」
「今、試しても良いですよ。酒に酔ったなどと言い訳するほど酔ってもいないし」
「お楽しみは明日です」
きっぱりとルシウスは突き放す。
せっかちなのは相変わらずですね、と笑って。神経質だし気が短い、女とは懇ろにはなれぬ気質ですよね、ラインハルトに馬鹿にされても仕方ありませんねぇ、とチクリと痛いところを突いてくる。
カズマは微かに眉根を寄せた。
酒がぴりりと唇を痺れさす。
―――あれから、十年、果たして自分は、この従兄弟に太刀打ちできるだろうか。
この男は、斬ればそこから音楽が流れ出すような、浮世離れした男なのだ。まるで妖精のようにふわふわとしているこの男を捕まえ地面に引きずり下ろし言うことをきかせることなぞ、果たして本当にできるだろうか。
どれほど時間が経ったろう。
つれづれの話などしながら、瑠璃の杯に幾度口付けたことだろう。
もともと酒に乱れぬ性質である、さほど堪えはしないが、勧められるがままに、酒量はいささか常を過ぎてはいる。
カズマはちら、と眼差しを伏せた。
ルシウスがペラペラと喋り、カズマが寡黙に相槌を打つ。ルシウスの言葉はまるで尽きぬ泉のようである。昔から、カズマを前にした機嫌の良いときのルシウスは饒舌極まりない、まるで魔法の掛かった楽器の奏でる音楽のようにとどまるところを知らぬ。
決して不快ではない、むしろその声は聞いていて心地よいくらいの軽やかな美声なのだが、夜が更け行くにつれ、どうにもカズマはルシウスとの会話に集中しきれぬ己を感じ始めていた。
カズマは時折ふと、視線を泳がせるが、無論周子の姿は無い。
従者にまぎれて食事をとり、それなりの歓待を受けてはいるだろう。エンギワルーがついている限り心配すべきでは無い、と己に言い聞かせつつ、やはり、気にはなる。
カズマは知れず息を吐いた。
「ねぇ、ルシウス、あなたは本当に妖精が見えるのですか?」
「見えますよ、今は私の肩に乗ってます」
「?」
「おや。波長が合わぬと見えぬのです、美を解する、美しい心がね、必要なのですよ」
ルシウスは真顔である。サイズはこのくらい、と片手のひらを広げる。白く透いた四枚羽根で、淡く虹色に発光している、小さな女の子の形、と端的に説明し、夜になると成人した女体に姿を変えて寝所に忍び込んでくるのですよ、素敵でしょう? と微笑んだ。
「ふふ。お前が妖精に興味を持つだなんて。昔は魔物なんているわけない、ときっぱり否定していたのにねぇ?」
「………………」
周子をルシウスに引き合わせる気なぞ全くないのだから、当然彼女はこの場にはいないのだが。なんとも気にかかる。
―――侍女然と、大人しくしていると言ってはいたが…。
さっきの常ならぬ様子といい……ヘンな魔物と出会って揉めてはいないだろうか。
あるいは、何か余計なものに興を惹かれ、エンギワルーの目を盗んで勝手に抜け出したりなぞしてはいないだろうか?
いや、と、カズマはまた別な懸念を挙げる。
先ほどのなにやら急接近な耳打ち。
声は聞き取れなかったが。その距離、やけに近くはなかったか?
―――エンギワルー、 このタイミングで、何か動きを見せるつもりだろうか。
そもそも、軽く揺さぶりはかけてある。
ここ、アラカンサスモートは西側をセリアと国境を接している。ニキロの非武装地帯があるが、エンギワルーほどの手練れであれば国境警備を突破するのはわけないはずだし、十分に馬で突破できる距離と地形である。というよりも、エンギワルーならばむしろおそらく、グランツ家の名で以って商用と称し穏便に、そして堂々と正面から検問を抜けるだろう。
それに相応しい理由はいくらでもあるし、カズマ・フォン・グランツに最も重用されている侍従長として、その仏頂面はあまねく国の要所要所に知れている、いわば顔パスの存在である。
思えば、此度のアラカンサスモート行きを押し切ったのはむしろエンギワルーなのだ。
―――甘かっただろうか。
そうだ、そもそも、周子一人見るだけで既に手一杯だった筈ではないか。
その上ルシウスにまで手を出すだなんて、自分はリスク予測が甘くはないか。
エンギワルーは、自分の身動きが取れぬこの機会に、周子を国外に連れ出す気ではなかろうか、
―――いやしかし、
一度過ぎったそんな疑念を払って。
だが、ここで王宮にルシウスを投入しなければ、今後の自分の動きが難しくなる、ルシウスにこのタイミングで会いにくるのは、必須ではあるのだ、危険ではあるものの、決して間違ってはいない。
―――危険ではあるものの……
しかし、周子を失うのは、その代償としては、大き過ぎる。
「どうしたのです、カズマ、落ち着かないな、酒は不味いですか?」
この酒は気に入らなかったかしら、と、ルシウスは、夜が更け酒がすすむにつれ、なんとはなしに落ち着きを失い行くカズマを軽く詰った。
首を傾け、ちら、とカズマの硬い表情を覗き込む。
「疲れましたか?」
「ええ。結構な長旅だったし。そろそろ休ませていただ……」
「ダメよ、この軟弱者めが」
「…………」
カズマはうんざりと一度緑髪を掻いて。
「兄上。疲れたかと聞いておいて、素直にそう答えれば、普通は寝させてやるものだろう」
「そんなのただの社交辞令じゃないの」
カズマの言葉にルシウスは笑っている。
ああ全く、兄上はいつもの調子だな、とカズマは呟いて。
―――周子の傍にいよう、不穏だ。
嫌な汗を滲ませつつ酒杯を呷るくらいなら、いっそ周子のそばにいたほうが、余程気は楽だとカズマは思った。
やはり周子を連れて来なければ良かった、もしこれがエンギワルーの策ならば、すでに術中にはまっている、と思いつつも、どうにもルシウスとの会話に集中しきれぬ。
そんな気のそらそらとした感じはとうにルシウスの方が察しているはずだ、聡い男だ。
―――誤魔化してもどうせ分かりきっているだろう
今更何の遠慮がある、と言わんばかりにカズマは杯を置いた。
案の定、ルシウスがちら、と目を伏せると、流し目で切り込んできた。
「妖精、ねぇ」
お前がそんな話を振ってくるだなんて、と、灰色の瞳が、容赦ない輝きを湛えている。
「カズマも何か、変わったものと情を交わしたかな?」
「……………」
ええもちろん、お見通しですよ、と、ルシウスはにっこりと笑う。
ぞっとするほど物騒な、美しい微笑みである。
「遠目に見ましたが、黒目黒髪、双黒の女など実に珍しいですね」
「あれは」
「ぞっこんですねぇ」
かっと赤面するだろうと思っていたルシウスは、しらけた顔のカズマをまじまじと覗き込んだ。
「おや。情婦じゃないんです?」
「ええ」
短いカズマの応え。
ふううん、とルシウスはつまらなそうに杯を呷る。
「必要以上に抱きしめていたような感じでしたが?」
「……何を見ていたのです?」
「なに、屋上から望遠鏡で眺めてましてね、ええ、あの、遠視の魔石を使った、特別仕様の望遠鏡ですよ。で、グランツの若様ご一行をね。一番近くの町からここへは馬に乗り換え、あの山道を来るしかないですからね」
一人で馬に乗れると主張する周子を、あんな熾烈な馬捌き、果たしてどこへ行くか分からぬ、ときっぱり言い捨てて、カズマは有無を言わさず自分と相乗りさせていたが、そのこと自体は正解だった。
きょろきょろと、全く落ち着きがない。あれはなんだこれはなんだと、指差してはまるで子供との問答である。これで馬を与えていればきっとあっという間に姿をくらましていただろう、あるいは周囲に気をとられ、馬ごと崖から転がり落ちているに違いない。
「落ちますよ」
と、馬上で身を捩った周子を何度嗜め、体をぴたりと寄せたことか。
そうでもしないと、ほんとに転げ落ちてしまいそうだった。後から腕を回して手綱を取れば、周子はずっと小柄で。華奢な肩に、触れる背に腕に、女らしい骨の細さがある。
まんざら知らぬ身体ではないが、意識のある周子というものは、自分の肌が覚えているそれよりもはるかに奔放で。まこと、御し難い。それこそ、馬に噛ませた噛具を周子の口に突っ込みたいくらいだった。
―――こんな女を抱こうだなんて、王もどうかしている
カズマはそんなことを思い出しつつ、うんざりと首を振った。
「……領内を覗き、と? 良い趣味ですね」
「ただの俯瞰ですよ。お手軽な領内の見回りです、覗きだなんてそんな人聞きの悪い」
えっちな子ね、と瑠璃の瓶子を持ち上げたルシウスを軽く睨み、カズマは一度置いた杯を再び取り上げると、酒を受けた。
くっ、と呷る。
ルシウスは空いたカズマの杯に瑠璃の瓶子を傾け、再び酒を満たす。
「そうそう、それでいい。気のそぞろなお前を無理に付き合わせるのもなかなかストイックでよろし」
ルシウスは、テーブルに肘をついて。
カズマの端正な顔を覗き込み、上機嫌に微笑む。
「ああ、お前はついこの間は、なにやらガーナの歴史とミアムについての資料を寄越せ、と、そんな書状を携えたあの仏頂面の侍従長を寄越したのでした。ええ、お前の頼みですから、多少の資料はあのハゲたおっさんに持ち帰らせましたが、ふふ、やはりあなた自身が出張って来ましたね、本当はそれを相談しに来たのでしょう?」
「相談する気はない。貴殿が、思わせぶりなことを書いて寄越すからだ。失せた百代目、と。何を知っている?」
「そこはそれ、何を知りたいか、カズマの交渉力に依存します」
「実にイヤな感じだ」
「鍛えて差し上げると言っているのです。お前のそのひたむきさだけでは、あのバカを国王に据えたところで到底支えきれぬ」
「バカ? ……口を慎め! いくら貴殿でも、臣下であれば聞き捨てならぬ言葉だ」
「ふん、臣下ではないよ? 私はもう十年も前に落籍しています、あの男は嫌いです、お前の初心なトコロを全部掻っ攫っていった罪は大きい。カズマを突付くのが、私のイッチバーンの楽しみだったのに」
カズマはぴたり、と杯を唇に当てたまま止めた。
「……ひょっとして、貴殿が王宮を去った理由はそれですか?」
「他の男の手垢の付いたお前など。なんだか腹が立ちまして」
「嘘だろう?」
「ウ・ソ。ふふ」
喰えぬな、とカズマはうめいた。
「いや、とにかく、私は自分が鍛えられるためにこちらへ伺ったのではない、掏り替えるな! 貴殿を王宮へ引きずり出すために、来たのだ。貴殿のその知の化身とも言うべき知識と先見の明と良く切れる論術を、王宮にて揮え、と」
「ふふん、相変わらず強情で頑固ですね、そんなにあの男が好きですか……まあいい。で? その、黒……」
「貴殿には関係の無い話だ」
カズマはぴしゃり、と遮った。
「ほう、手厳しいですね」
ルシウスは目を細めた。
つくづく、おもしろそうな話ですね、と呟いて。
「カズマの情婦じゃないとして、だがお前はそれを連れ回している。私を王宮へ引きずり出そうという、お前にとってかつてないほどに厄介な交渉ごとの場にもね? 片時も目を離さずにはいられぬ女、と? しかも、私には関係の無い話、ときた。どうやら残念ながら私への手土産ではなさそう。すでに売約済み、ということか」
カズマは黙って杯を呷った。
ともすれば、それがギャラン王の情婦だと結論付けるのは容易いだろう。
「私よりもお前よりもさらに身分の高い者に既に売約済み。そしてお前はその女に大変丁重にかしづいているというわけだ、女嫌いで有名なカズマが。身近に置いているのでしょう? 余計な虫がつかぬよう、あんな仏頂面でマッチョなゲーハーに護らせて」
「ゲーハー……」
再度、面白そうだな、と呟くルシウスの赤い唇が、面白くなくて。
カズマはもういいだろう、と話を切り、今度こそ杯を置いた。
「グランツ家から寵姫を出す気なの?」
「兄上には関係がない、口出し無用だ」
「面白いですねぇ」
カズマはキッチリと、杯をテーブルに返し伏せた。退席するという意思である。
軽くメガネを押し上げると、己の襟元をぴっ、と正す。几帳面で神経質な、カズマらしい苛立ちの仕草である。
―――面白くない。全く、面白くない。
なぜ、周子にばかり、みな目を向けるのだ、胸が、じりじりする。
このルシウスなぞ、まだちゃんと会ってもいないというのに。
なぜこうも興を惹かれるのか。
カズマは胸に渦巻いた苛立ちをねじ伏せるかのように、冷たく目を伏せた。
「では、復籍の件、明日キッチリと話をいたしましょう。今回の私の用向きはそれに尽きる、違えるな、兄上」
そう言って、席を立とうとしたカズマの上着の裾をぐい、とつかんで、
「まあ、待ちなさい」
と、ルシウスは引き止めた。
にっこり微笑んで。
「食事をとってからお行きなさい。あなたはまだ育ち盛りです」
カズマは思わず目を剥いた。
「……いつまでも子ども扱いを」
「おだまり」
ルシウスはテーブル上の料理を指しては、これはどういう料理で材料をどこから取り寄せただのなんだの、詳細な料理の講釈を始めた。たしかに、どれもこれも美味そうな贅沢な料理ばかりが並んではいるのだが。
滔々と展開してゆくルシウス節、その贅を尽くした古今東西グルメ話を強引に遮り、カズマが席を立とうとすると、ぐぐぐー、とまるで駄々をこねる子供のように強くカズマの上着の裾を引いて握って離さない。
ルシウスが再度、食事をとるように大真面目な顔で命じてくる。
「とにかく長旅で、疲れているでしょうし、まずはキッチリ腹ごしらえです。カラ酒ばかり呷って。胃を病みます、そんな不良に育てた覚えはないですよ」
「疲れていると思うのなら休ませろ、兄上」
そう言い返して、カズマはキッパリと首を横に振った。
「……結構だ、貴殿のその奇妙な心づくしはもう十分」
ひどく冷たいカズマの声に、はあ、とルシウスは深くため息を吐き。
昔はもっと素直だったはずなのに、とわざとらしく呟いて寄越すルシウスに、カズマは露骨に眉根を寄せた。
「昔っから貴殿はどこかズレて世話を焼くのです、もう十分です、よくもまあこんなタイミングでありがたくも食事を勧めて下さることだ、要りません」
「何をそんなにカッカしているのでしょうかねぇ? 全くカズマはあの黒いのに夢中なんですねぇ? 心配でたまらないときた」
「黒いのっ!?」
あまりにその特徴のみを捉えたルシウスの言葉に、思わずカズマは復唱する。周子のことをそんな風に呼んだ人間は初めてである。
あまりに端的なその表現にしばし言葉を失うカズマに、ルシウスは不遜に微笑みかけた。
「そんなに心配なら、ここへ、同席させればよいでしょうに」
「!結構です!」
軽く頭髪を逆立ててカズマはキッパリと断り、今度こそ毅然と立ち上がる。
ルシウスはそんなカズマを見上げると小首を傾げ、にっこりと微笑んだ。
「先ほどの話、考えても良いですよ……黒い手土産に免じて」
到着した時に見た、あの、仕留めるべき鼠に狙いを定めた猫のような、爛々と輝いた眼差しである。
カズマはえらく厄介なことになりそうな予感に眩暈を覚えた。
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- 2006-08-27 05:20
- カテゴリ : 「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中
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