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[tog_p2_36]「召喚」/タトパラ2

「トライフル刑事」〜狂気のロンド ガーナ署トリニティ〜/タトパラ2
第36話:「召喚」



 ―――あの父娘は離したほうがいい、
 一口喫うなり、煙草のその小さな火を頭の奥に押し付けられるような、ちりちりと神経に障る痛みが疾った。この手の勘を外したことは無い。
 ―――すっげ、完璧
 ―――そうだな、新人刑事とは到底思えんな
 カズマの冷淡な相槌を思い出し、ふうっ、と溜息にも似た煙を吐いて。
 到底思えない、どころではない。あれでよく今まで危険物のレッテルが貼られなかったものだ、あるいは、化けの皮が剥がれなかったものだ、とでも言うべきか。確かに、彼女は勢いがあって新人の中でもピカイチの出来だった、だが、あの、修三に銃口を向けたときの激怒の様と怒涛の暴れっぷりは何だ?
 その上、的確、とギャランは浅く笑った。
 なぜ彼女があれほど父親に拘泥するのか、国家が事故死と決めたにも拘わらず生存を確信し身を削って行方を探している、その異様さ。探し出すことに何の意義があるのか、いや、何より分からないのは、五年も探して見つからなかった父親が、なぜ、今更ひょっこり目の前に現れたのか、突然の来訪のその理由、それこそが最も剣呑なことのように思えた。
「おれの周子ちゃんじゃ無ぇー……なんて言ってる場合じゃねーな?」
 ―――カズマだって、そう思ってるはずだ。
 ああ頭脳派でいるように見せてその実、非常に勘の鋭い男だ、そうでなければとっくに殺られている、根の慎重な男だ。
 この小休止を終えたら、おれたちはあの父娘を切り離しにかかるだろう、とギャランは思った。理屈じゃない。あれは危険だ、と、おそらく今この瞬間、カズマも全く同じことを考えているだろう、という確信がある。
「別に、周子ちゃんを泣かすわけじゃない、ただちょっと、父親と離れるってだけだ、つまりは、今までどおり、ってこった、な?」
 ギャランは、お、今までどおりとは我ながらナイスセリフ、と自嘲して煙草の火を消すと居間のほうへ足を向けた。勘に突き動かされる身体とささくれを毟るような心の痛みとは、また別だ。


 車椅子に座ったカズマの足下では、周子が四つ這いになって床の上をまさぐっている。
「ええーと、メガネメガネメガネメガネメガネ……」
「……なんというか、君にはイチイチホンットウに肚が立つな」
 そういう細かい嫌がらせは止めろ、と言いながらカズマは己のこめかみを揉むと、メガネを掛け直した。
「だって、補佐官が逃がしちゃったんですよ、んもう!」
 床上に散っている土を指先でこすって。周子はクワガタの入っていた小さなプラスチックの飼育ケースを拾い上げるとカズマにほおった。
 中は空である。
「私が悪いのか?」
「大人しい奥方が欲しいっていうから、せっかく買ってあげたのに」
「そんなこと一言も言ってない、自分の嫌がらせを正当化するな」
 周子に飛び掛られ揉み合っている時にでも、あるいは、修三に銃口を向けた際の一連の騒動の時にでもテーブルの上から落ちたに違いない、むしろ悪いのは周子だろう、とカズマは強く思った。
 低く屈み込んだ周子の長い黒髪が、さらさらと床を撫でるのを見て。
 女の髪が、とりわけ周子の絹糸のような美しい黒髪が床を撫で、床上の細かい埃がその髪に含まれてしまうのを思うと、それだけで、潔癖なカズマには相当なストレスに感じられた。
「窓でも開けとけば勝手に出て行くだろ」
「うっわ、なにそれ、クワガタをゴキブリかなんかと一緒くたにしてませんか? 冬のこの季節に外になんか出したら死んじゃうじゃないですか。最悪、常識ナシ」
「…………。こんな冬の季節にわざわざクワガタを調達する君のほうが余程常識がないというか、大人としての分別に欠けると思うね」
 ―――全く、この女は。
 とんでもない女だぞ、ああも可愛く見えるのはうわべだけ。傲慢だし、強情だし、暴力振るうし……お前は本当にこの女が好きなのか、絶対に騙されてるぞギャラン、とカズマは心の中で溜息を吐いた。
 周子は窓際まで這って行き、やっぱ外には出てないと思いますよ、ちっとも開いてないし、と言って気密性の高いサッシの枠を擦った。
「ああー、それにしても、この窓ガラスもこれまたずいぶんと頑丈そうですね。入れ替え早いなーさすがお金持ちですね、なんかすごい高そうな窓……」
「これも試作品だ、先日の防弾ガラスはギャランが破ったからな」
「また防弾ガラスですか。補佐官はどこぞの将軍様気取りですか、マンセー」
「うるさいな」
 カズマはぴしゃりと遮って、車椅子の肘掛に肘を付き、横を向いた。
 その視界に、修三を見て。
 ―――そういえば、この男はずっとここに居たか、
 ちょっと他所に気を取られただけで、この男はやすやすと周囲に紛れ気配を消す、人のものとはまるで思えぬ彼のこの冷涼な空気、透明でいて閑散たるそれを不気味に思って。
 ―――そうだ、修三の身柄を拘束しなければ
 周子の勢いに上手く誤魔化されてしまったようなこの場の雰囲気はなんだ? とカズマは己の口の端が不自然に引き攣るのを感じた。
 見れば見るほど、周子との血のつながりを濃く感じさせる漆黒の髪と瞳。それも単なる暗色ではなく非常に艶やかな漆黒、このようなものを持つ者を、この父娘を除いて他に見たことがあるだろうか、否、実に特徴的な美しさだった。
 長身で薄い体つき、際立つその美麗な風貌には世俗を超越した飄々とした印象がある、いや、なんと言おうか、捉えどころの無い、重さの無いような男である。地上の重力の縛鎖から解かれた存在、とでも言うべきか。
 ―――ありえない。
 そんなバカな、と己に突っ込みたくなった。風邪の所為だ、熱もあるし頭痛も酷い、さっさと修三の身柄を拘束して身体を休めよう、とカズマは一層厳しい表情をした。
 視界の端に、一服を終えて戻ってきたギャランを認める。視線を合わさずとも互いに考えていることが分かるその事実を改めて認識し、氷塊を一片嚥下したかのように胃の腑が冷える、己の内でかちりと思考の焦点が合った。
 ―――周子を修三に預けては危険だ。
「国際指名手配中のテロリストが、なぜ、こんなところに姿をあらわしたのか、ぜひ聞きたいところだが、修三タチバナ?」
 だが、そうカズマが問い掛けるのと同期して、
「周子」
 修三が唐突に口を開いた。
 カズマは修三の目線のその先を追う。
 その先には、
 ―――周子刑事……
 見えそうで見えなさそうなそのスカートの中、という絶妙なアングル!
 ソファの下を慎重に覗き込み、頬を床に擦り付けんばかりに低く上体を屈めた周子の尻が、次第に高く突き上げるような格好になりゆくのを追って、ギャランは、今まさにさりげなくさりげなーくナイスポジションを求め身体を前屈みに傾げつつあるところだった。
「!!」
 唐突に掛けられた修三の声に、ギャランはそれこそ壊れたバネ仕掛けのオモチャのように跳ね上がって。
 振り返り、慌てて頭をぶんぶんと大きく横に振る。
「いやッ、御父さん、おれまだなにも見てないしっ……」
 健全な青少年の理性を狂わす魔領域、いや、おれの魔物は魔界への帰還を望んでいます切実に、と、半ば本気ともとれる冗談を笑顔で言ってみせたものの、ちらとも視線を寄越さぬ修三の冷たい無表情にギャランはひくっ、と大きく顔を引き攣らせ、
「おおおおお、おれもクワガタ探しを手伝うっ!」
 まるで悲鳴のようにひと声そう叫ぶと、周子の隣に逃げるように滑り込んでソファの下に金髪を突っ込んだ。
 カズマは小さく嘆息した。
 ―――どうも一事が万事、テンポが狂ってかなわんな、周子刑事が絡むと。
 ソファの下を覗き込んだ間抜けな尻二つを眺め、カズマはそっと自分の車椅子の背に手を回した。まさぐって一瞬の後、あるはずの拳銃がそこに無いことに気づき、そういえば先ほど周子に取り上げられたか、とまた少し苛立ちを募らせる。
 ―――それにしてもなんだったんだ、彼女のあの獰猛さは
 修三が絡むなり、周子はまるで別人のような容赦のない動きを見せた。新人刑事とは到底思えぬ身のこなし、間合いのよさ。逆鱗に触れる、にしてもほどがある熾烈さだ。
 ギャランのことが好きだと夜中にひとり泣いていたあの女とはまるきり別人だ、まして、この小ぶりで可愛い無邪気な尻ともな、とカズマは冷静に思った。
 そっと車椅子のハンドリムに手を掛ける。
 周子に気づかれぬよう細心の注意を払いつつ修三のほうへ車椅子を寄せようとしたそのとき、カズマはふと、なんとなく聞き覚えのあるような異音、金属の軸受けが擦れるような奇妙な異音を耳に留めた。
 ―――なんだこの音?
 いぶかしく思った瞬間、不意にこちらを振り返った周子と目が合った。
「補佐官!」
 悲鳴にも似た、周子の鋭い叫び声。
 強烈な電流で弾かれたが如く車椅子のハンドリムから手を離し、カズマは慌ててホールドアップした。
「な、なんだ、私はまだ修三には手を出していないぞ!」
 冗談じゃない、と言いかけた時、ものすごい勢いで四つ這いから身を起こし、すかさず自分の方へ突進してくる周子を見た。飛び掛らんばかりのその素早さに息を飲んだその次の瞬間には、周子が、まさにすぐ目の前に迫っていた。
 凛冽たる殺気!
 ―――殴られる、
と思った瞬間、身体が強烈に前へ押し倒される感覚があって、一拍遅れてそれが、車椅子を後ろへ力いっぱい突き押された所為だと分かった、居間から車椅子ごと突き飛ばされ、廊下の壁に背を打ったその刹那、すぐ目の前で周子の手が、何かきらめく銀色の物体を強く払ったのが見えた。
「伏せろッ、カズマ!」
 シーカーだ! ギャランが鋭く叫んだ。
「くっそ、無ェ!」
 咄嗟に己の腰に銃を探ったギャランが、忌々しげな悪態を吐く。
 炸裂した閃光とともに耳を聾する激しい爆音が響き、瓦解した天井が瀑布のように崩れ落ちた。


「カズマ、大丈夫か?」
 ギャランの声に、カズマは、はっと意識を取り戻した。怖いほどに真剣な青い二つの瞳に覗き込まれ、次いで視界に指が映りこむ。その指が左に右に、静かに移動してゆくのを見て、ああ、とカズマは思った。この男が強く揺って起こさなかったという事は頭を打ったのだな、と察して。
 黙って両の瞳でその指の動きを追ってやると、怯えて竦んだ青い目の主、ギャランがほっとしたような息を吐いた。
「ああ、私は大丈夫だ、それよりも」
 ―――爆発のあの瞬間見たのは周子だった、
 転倒した車椅子に縋りつくようにして身を起こす。塵埃にまみれた白いグラスを指でぞんざいに拭ってメガネを掛けなおし、カズマは引き攣るほど神妙な表情で周囲を見回した。
 不完全な視界に飛び込んだその光景に、思わず息を飲んだ。
 崩れ落ちた壁とひしゃげた柱、瓦礫に埋もれた居間の、例の防弾ガラスを嵌められた東南のその一面だけが、いまだ真摯に屹立し煤けた色を寒空に晒している。
 前回の爆発より建屋の損壊程度はひどい。まして、煤けた超強化防弾ガラスだけが堅牢さを誇示するその光景はいっそずっと異様なものに見えた。
 剥き出しになった頑健な鉄骨の梁、瓦解し崩落した天井の向こうから、浅い冬空の白々と乾いた陽光が落ち、その中にカズマは、痩身長躯の男を見た。
 肩に受け背に回り込んだ光の、輝く影の曖昧さが薄い身体つきに華麗な陰影を刻み、長く艶やかな黒髪がたゆたう水草の如く幽かに宙に揺れている。
 その腕の中に抱くのは、彼のものと同じ黒髪。
 修三が周子を抱き上げているその立ち姿を見たカズマは、凛冽した永劫の氷河の如き眼差しで以って一瞥された。
 ―――悪魔を召喚した魔術師、
 ―――それも、最高位の悪魔を召喚することに成功した魔術師、だ。
 決して相合わせてはいけない禁忌の組み合わせ、それは到底、父親が娘を抱きかかえている、といった一般的な図ではない。己に向けられた、その漆黒の双眸に宿る静かな獰猛さを前に、カズマは手足の先が急速に冷えゆくのを感じた。

 その威容が、ちら、と揺れた。
 周子がその腕の中から下りようとし、それを一瞬、修三が抗った、と見えた。
 周子はかまわず身を捩る。
 ずるり、
 それはまるで何か、熟しきった果実が自ずと毀れ落ちるかのような奇妙な離れ方だった、あるいは何か、もっとずっと真逆の、例えば時満ちぬままに引きずり出した胎児にも似た何か……そう思った瞬間、落雷にも似た強烈な怖気がカズマの背筋を疾った。
 だが。
「お怪我は無いですか、補佐官」
 周子の声は若い。
 既に耳に馴染んだそのいつもの声に、だがそれはやはり周子だ、とカズマは現実に引き戻されて。
 周子は一度黒髪を強く揺すって、髪に積もった石膏片とコンクリ片の混じった細かい塵埃をほろった。微粒子がキラキラと光に散り輝くその様子はなんだかまるで手品のような可憐さで。
 カズマは数瞬、呆けたようにそれに見入った、あるいは、見惚れた、と言っても良かった。
 周子が近づいてくる、そして周子はカズマの前に来ると、すっと膝を折って、車椅子のカズマの顔を下から覗き込んだ。
 その真摯な黒目のなんと美しいことか。
 ―――否。
 カズマはすぐに利き手でメガネを抜いた。
 意識を取り戻した直後、緊張のあまり無造作にグラスを擦った所為で、微小な粉塵がレンズ面を傷つけ、あまつさえ、ガラス粒子の中に塵埃が入り込んでしまっているのだと、理屈がましくカズマは思って。
 グラスを日に翳し目を眇め、紗をかけたように視界が無闇に乱反射するその原因が、案の定想定の範囲内であることを確かめ、カズマはなんとか平静を保とうとした。
 メガネを外し、己のおぼつかぬ視力に平静を求めたのはこれが初めてのことだったかもしれない。
 周子は思わず黙ってしまったカズマの目をじっと見詰め、やがてその無事を納得したのか、ほんのりと微笑んで、小首を傾げた。
「補佐官……私たち、夫婦ですよね?」
「あ、ああ」
 唐突ともいえる周子の奇妙な問い。
 読めぬその意図にぎこちなくそう返し、カズマはなぜか修三を見遣った。
 こちらを見詰めている黒い影、逆光のために昏く曖昧に輝く影ながら、だが、彼が機嫌を損ねているのは分かった。
 ―――父親である彼に、周子を妻にしたことを報告していないのはまずいだろう、
 ―――いや、そもそも、彼の娘との結婚の承諾を未だ得ていない、
 どういうわけか、今のこの時この場には到底相応しくないであろう極めて世俗的にして慣習的な考えが脳裏を過ぎった。
 いや、それよりも何よりも、彼女は既に一個の成人であり、彼女が父親の許可無く夫を得るのはまさに正当以外の何物でもない、と思い、そして、既に彼女が他の誰の物でもなく自分の妻であることを、まずははっきりと彼に宣言しなくてはならない、それこそが今この瞬間において最も優先すべき重要事項である気さえ、した。
 それは、父親に対し彼の娘との結婚の承諾を得る、といった世間一般的な慣習をなぞろういうのではなく、目の前に立つこの玲瓏美麗な男が厄介な干渉者であり、先に獲物を仕留めたのは自分であることを誇示すべきだという類の、なにか、ひどく本能的な、言い知れぬ危機感にも似た攻撃的な焦燥だった。
「良かった」
 にこっと周子に微笑まれて、これを率直に受け取ったカズマは思わず頬に朱が昇るのを感じた。
「お怪我が無くて何よりでした」
「ああ。屋敷はひどいが、身体は大丈夫だ、それで十分だ。それより君のほうこそ……」
「配偶者による被害は親告罪。器物損壊罪にはあたりますが、まさか告訴はしないですよね? っていうより、天下のグランツ家の若様が奥さんを訴えたりしたらそりゃおおごとですし」
「は?」
 周子の安否を、言葉で、理性的論理的に確認しようとした矢先のこの言葉に、カズマは目をぱちくりさせた。
 周子は唯一残った窓のほうを指差して。
「先ほど伺いましたがこの窓は確か、最先端のテクノロジーが凝縮された防弾ガラス、以前ギャラン刑事が破ったものと同じ試作品ですよね? ギャラン刑事の強烈なアプローチで軽く十ニ、三分は保つ、って代物でしたよね?」
 カズマは思わずメガネを掛けなおし、大真面目な表情でブリッジをずり上げた。
 一度かわされ行き場を失った論理的思考が、周子の誤認訂正に向かう。
「装甲車で、だ。あのバカなら君が絡めば五分。ついでに言うなら前回破壊されたガラスの改良型、強度と限界耐熱度が一割ほどアップしている代物だ、シーカー如きでは爆破はされない、そのように改良されてあると聞く」
 さすがですね、と周子の感心したような表情と相槌に、カズマは妙な満足感を得た。自尊心を擽られた、といって良い。鷹揚にひとつ頷き、さらに続ける。
「前回はギャラン刑事が割った後での爆発だった、爆圧が外へ逃げた分、そう酷いものでもなかったが、今回は、しかし……ひどいな、全壊だ」
 シーカーの性能もアップしているのではないか? と口にしたカズマは、そういえば、この締め切った室内の、一体どこからシーカーは入り込んだんだ? と嫌な予感を舌先で撫でるように呟いた。
 修三の方へ向けかけた視線を周子が遮る。
 笑顔なのが引っ掛かる、と大いに疑念を抱きたいところだが、いかんせんそれがこうも愛らしく見えてしまうのは、これはどうやったってこの傷メガネの所為だ、と再びカズマは赤面して。
「窓が残ってたら全壊ではないんじゃないんですか?」
「柱が残っていなければ大丈夫だが? そうだな、一応念のため、後でギャランに綺麗にしておいてもらった方が気分も良いな、ははは」
 全壊と半壊とでは保険で補填される金額に大きな差があるからな、と呟いて。ここでカズマの言う、綺麗、はつまりは、更地に戻す、の意に他ならない。
 カズマは荒々と広がった白い寒空を見上げた。
「全壊は全壊だが、上手い具合に天井が抜けて、むしろ助かったと言っても良いだろうな。天井から爆圧が抜けたのは何よりだった。窓は、室内での爆発を想定するのなら、むしろもっとずっと脆い方が却って良いかもしれない、後で詳細に内圧を検証すれば良いデータになるだろうな」
 こう結論づけて。
 それから、ふと、カズマは首を捻った。
 数秒の間、たっぷりと間を空けて、カズマは、果たして自分は一体何の解説および評価をしているのか、と、軽く混乱する。
「では、私の判断は間違ってはいなかった、むしろ感謝の念さえ覚える、ということで良いですね」
 ―――感謝の念?
 カズマは眉根を寄せ、すぐ目の前の周子を見上げた。
「ええ。咄嗟の判断で、シーカーを天井に投げました、あの頑健な窓が閉まっていたので、閉塞空間における爆発はむしろ危険だと判断したが為であります」
 非常に職務的な、理路整然とした報告のように聞こえた。警察官、いやそれ以上の、むしろ軍に在籍した経験があるといってよいほどの、端的で規律的論理的な報告である。
「周子刑事、君は」
 強く違和感を感じたカズマだが、周子は笑顔で押し切ろうとする。
「と、言うことで、私や父さんに責任はない、と御納得いただけますね?」
「……ええっと。ちょ……ちょっと待て、何の話だ?」
 カズマはすこぶる混乱した。
 ―――ドサクサに紛れて修三まで付随していなかったか?
「先に言っときますけど、補佐官のお家は無駄に金がかかってそうだし、要らん所に特に、ってなわけで、到底弁償とか出来無いっていうか。私を補佐官の命の恩人だと思っていただければ、お屋敷壊したくらいじゃ十分相殺可能、むしろご祝儀が出てもいいくらいですけどさすがにそれは辞退して、で、私も父さんも悪くないし……あれっ? あの、あれは質蔵か何かですか?」
 そこで父さん、は余計だろう、と口を挟みかけた絶妙なタイミングで、周子は瓦解した建屋の、だがそれでも頑強に崩れず残っている四角い蔵のような一角を指差した。
「……セーブルームだ、あそこが頑強なのは君だって知ってるはずだろ。質蔵を自宅に有してどうする、私は質屋か!」
「じゃ、やっぱり全壊じゃないじゃない! どうしよ!」
「あれは別だ、保険の対象外!!」
 ―――いや待て、今すべき話は、そういう話だろうか
 ―――否。まして、彼女の父親に対するわけの分からぬ焦燥めいた牽制であるべきはずもない、
「周子刑事、どうしてシーカーがここにあった?」
 周子の目が一瞬、ほんの一瞬、泳いだ。
 この瞬間、カズマはすべてを悟った。
「…………理由を聞かせてもらおう、修三?」
 修三に向けようとした視線を再び周子が遮る。
 あまつさえ、両手で頬を挟まれ、額をくっつけんばかりに間近に迫られる。
「全壊でも半壊でも! 補佐官の大好きな保険とか年金とかで補ってください! 大体、うちにはそんな大金は無いし、補佐官はお金持ちですし、その差は歴然、よもや修理代を請求なんて、してくれるな!」
「論理がやや苦しくなってきたな、周子刑事。破綻の兆候だな。して、貴様が狙ったのは私か? ギャランか? なんの理由がある、修三タチバナ」
 無遠慮に頬を挟んだ周子の両手首を掴んで捻り上げると、修三の柳眉が厳しくなった。
「あたたた……命の恩人が目の前にいるんですけれど!」
「命を奪おうとした人間もな? 君が庇うとすれば、ただ一人だ」
「ほ、補佐官をシーカーから庇いましたけどっ」
「それは認めよう」
 ―――否。否、否、否
「だが」
 カズマはひたりと周子を見据えた。
「今厳しく激しく追及すべきは、シーカーを持ち込んだのは修三か!だ!」
 カズマの内に、瞬く間に瀑布の如く轟音を立てて苛立ちが募った。
「修三が持ち込んだのか!」
「じゃあ請求書は、署のほう、そうだ、アアア、アシュー課長に」
「誤魔化すな! 君に非があるのなら、請求するに決まってるだろ!」
 アシュー課長の、弱りきった渋面が脳裏に浮かんだ。その刹那、怒りの矛先が不当に歪められた気がして。
 ―――最後の最後、強引に捻じ曲げられた気がする!
 怒りに任せた腕が周子の細首を掴もうとして、かわされた。かっとなってハンドリムに手を掛けたが、ガガッ、と硬い音と共に存外の抵抗を感じて。足下を見れば、いつのまに置かれたのか、ご丁寧にも左右の車輪の下に大きな瓦礫片が挟み込まれていて、そこへ車輪が乗り上げている。もはや前にも後ろにも進めない。
「君の仕業か! 周子刑事!」
 カズマは大きく舌打ちした。
「非常に威圧的で嫌な行為だ、不適切な行為で差別の一種、車椅子である私への身障者ハラスメントと私は取るが? 断固抗議する。まさに道徳観念および職業的行動に反する行為だ、分かっていてあえてやっているところが許しがたい、君はそれでも刑事か!」
 正面切って馬鹿にされた、と思うなりその屈辱に身体が熱くなった。
 殴りたい、いや、この足が健在なら、蹴り倒したかった。
「足の方が、まだ、長いんだ、違う、まだ、じゃない、はるかに、だ!」
「オーケー。シーカーの件、忘れてくれます? 父さんに手を出さないともう一度約束してくれます? その、衝撃と混乱と屈辱と羞恥に弱い生体ハードディスクは何発喰らえば、綺麗に飛んでくれます?」
 意外と、拳、重いんですよ、と周子はニヤリ笑った。
 可憐な周子の面影は何処にも無かった。
 修三が絡むなり、まるで悪魔のように変貌を遂げる周子を、この三秒後にカズマは顔面に痛烈に思い知ることになる。


 ―――カズマ、すまん!
 周子が一発華麗にカズマの顔面に拳を見舞った瞬間、修三から注意を逸らしたその一瞬の隙を捉えて。
 ギャランは修三の胸倉を掴むなり、一気に部屋の中央から隅に引きずり寄せると、その背を強く壁面に叩きつけた。
「……にしても早ぇ。親父さん、あんた一体何者だ」
 ドスのきいた低い声で修三にそう迫った。

 補佐官! と叫んだ周子の甲高い声を聞いたその瞬間、ギャランは、シーカーを手の平で払ってそのままカズマにダイブするかのようにして車椅子を強く押し出した周子を見た。
 それは、まるで猛禽類の強襲の如き、目を瞠るような素早さだった。
 そのままカズマの車椅子と一緒に廊下の方へダイブするかと思いきや、周子は強く床を踏み込んで俊敏に身体を反転させると、先ほど弾いたシーカーを掴むべく、宙に手を伸ばした。
 周子の指先がシーカーに触れるなり、ぴし、と嫌な金属音が耳に突き刺さり、既視感にも似た嫌な予感がギャランの肌の表層を疾る。
 ―――まずい!
 その瞬間には既にギャランは床を蹴っていた、
 だが。
 ギャランが手を伸ばしたとき、届くと思っていた周子の体がそこには無かった。己の瞬発力と俊敏さには自信がある、だがその瞬間、それを上回るスピードで周子を攫って行ったものがある、長い黒髪、長身の薄い体つき、しなやかにして華麗な、蛇のように素早い黒い影。
「あっ」
 周子が小さく声を漏らした、修三の腕の中に抱きとめられた衝撃で、掴んでいたシーカーを取り落としたのだ。
 咄嗟に周子が、窓と天井とを見比べ、修三に縋った。
「窓はダメ、父さん、天井を抜いて!」
 ギャランはこの瞬間、修三の表情に浮かんだ酷く不満そうな色を、見た。ヤメテ、と叫んでもう一度周子が修三の首に縋り、修三はそれに応える代わりに、その健康サンダルを履いたつま先で、周子の取り落としたシーカーをひょいと居間の天井へと蹴り上げた。シーカーが爆発するのが先か、蹴り上げられたシーカーが修三のその素っ気無いつま先により加えられた正体不明の質量と破壊力で以って天井に穴を開け屋根を貫通し外に飛び出したのが先か、定かではない。
 肺を押しつぶすが如き爆圧の息苦しさ、ギャランは熾烈な爆風に全身を打たれ床に叩き付けられながら、痛覚だけが一際冴え渡る意識の中で、この男、堂々の土足じゃねぇか、と修三の不敬さを呪った。

「人間じゃねぇような速さだったな、まさかおれより先に」
「……貴様がスカートの中に気を取られているからだろう」
「!! ギャラン刑事!」
 慌ててスカートの裾を押さえ、真っ赤になった周子が叫ぶ。
 なんも見てねぇから! とギャランは慌てて振り返ると大振りで否定して。
 再び修三の胸倉を掴んだその手に、先程よりも一層の力を込めた。
「ごごご、誤魔化すんじゃねぇや、修三、てめぇ一体……」
 誤魔化してるのはお前だろう、とでも言うかのように修三は一度目を細めたが、すぐに無表情に戻ると、冷たい刃物のような声で呟いた。
「手を放せ、命は無いぞ」
 ギャランはハッとして周子を後顧する。
 止めようと思えば止められた、だがあえてわざわざカズマを殴らせたその理由、即ち周子の隙を突いて修三を手中に掻っ攫ってくる、という目的もほんのわずかな間のみ達成されたに過ぎなかった、既に周子が腰に手を当て、ギャランのすぐ後ろに立っている。
 だが、殺気は無い。
 それにしても、と周子は呟いて。
「……確かに、父さんに手を出したら殺すって、言いましたけど」
 言ったけどさ、と周子は困ったように眉根を寄せ修三を見上げる。
「そうあからさまに殺せと言われても……父さん」
 周子は手を伸ばすと、修三の胸倉を掴んだギャランの手首を、いつのまにかしっかりと掴んでそのままの状態をキープしている修三のその手を、そっと外した。
「あっ、修三てめぇ!」
 おれを殺す気だったか! そんな素っ気無い顔でひょっとして殺る気マンマンだったか! とギャランは叫んで、再び猛烈な勢いで修三の胸倉を己へと引き寄せた。
「警告は二度はしない、ギャラン刑事」
 唐突に生じた強烈な殺気と共に、脇下に硬質な筒状の金属が当てられたのを感じて。
 ギャランはどっと冷や汗を噴いた。
「お、……おーけー、周子ちゃん」
 修三から手を離すと、ギャランは両手を頭の上で組み、ゆっくりと振り返った。
 向こうの車椅子の上で鼻血を流して軽くのびているカズマを見て。
 ああー、おれの可愛い周子ちゃんがまるで別人だァ、と涙混じりの声で嘆いた。
「修三、てめぇなんざどっかに行っちまえ、貴様がいると周子ちゃんが物騒になる、愛らしさ半減だちくしょう……うわっ、ぷ」
 不意に強烈な風の塊を口中に押し込められ、ギャランは一瞬仰け反った後、反射的に身を屈めた。頭蓋骨が痺れるほどの轟音があたりに響く。
 白く乾いた冬空を遮り、唐突に落ちた黒い影、ギャランは空を見上げ、金髪を激しく乱すこの強い風の正体を知る。
 轟音たる波長の隙間を縫って小さいが特徴あるキンキンとした電子音、カズマの緊急衛星通信のコール音が響き、カズマが車椅子の上でがばっと上半身を起こしたのが見えた。
「ヘリが着陸できないだと? ……ああ、ああそうだろうよ!」
 カズマが宙を見上げ自棄になって叫んだ。スキーに行くためにヘリを呼んだことを思い出し、カッと頭に血が上って、手にしていた通信機を床に叩きつけた。自宅の屋上にヘリポートを設けているが、そもそも天井のないこの状況では、ヘリポート云々どころではない。
 そのつもりだ、と修三は突然のヘリの登場もまるで気に止めぬが如く悠然とギャランの言葉に応えた。強風に吹き乱れた周子の黒髪に指を入れ、幾度か優しく梳り、それから指先で周子の白い柔らかな頬を一度撫でた。その仕種は不可解なほどに甘く、慈しみを超えた深い陶酔が滲んでいる。
「ちょうど良いものが来た」
 修三は一度空を見上げると、周子の黒瞳にゆったりと微笑む。

 そのとき、キキーッ! と獣が四ツの肢爪を地面に食い込ませるが如き鋭く甲高いタイヤの擦れる音が響いた。強引に蹴散らすかのようにコンクリ片を掻き分け踏みつけする音がして、その向こうから、大柄な男が瓦礫をよじ登りやって来る。
「若っ!?」
 心底焦ったエンギワルーの声が響いた。
「お屋敷が吹き飛んでいるので腰を抜かすかと思いました」
「ああ、驚いてもらえて私は光栄だよ」
 お前の慌てる様は久しぶりに見た、と、ぶすっと、カズマは言って。
 おや、鼻血まで噴いてますか、とエンギワルーはさらに目を丸くすると、失礼、と短くも律儀に断り、主人の鼻骨と頬骨の無事を指先で確認した。周子に殴られた、と聞かされて、数瞬言葉を失ったが、エンギワルーはなぜか己の胸襟を正した。
「これはまたずいぶんと派手な夫婦喧嘩ですな」
 まあしかし夫婦とはこのようにして距離を縮めてゆくものですぞ、と諭すように続け、エンギワルーは朗らかに笑った。
「やあ良かった、若もようやくこれで一人前に……」
「よくない!」
 私は殴られ損だぞ! とカズマは叫んで。
「大体、一個家屋を全壊に至らしめる夫婦喧嘩があるものか! どんだけ度量がデカい夫婦だ! これはテロだ! この死神のような父親が……」
「舅御との揉め事でございますか! さっそく人生の醍醐味をフルコースで所望されるとはさすが若……」
「違う!」
 心の壁をフルに展開させ、カズマは潔癖に否定した。
 エンギワルー、岩の如き屈強な肉体を誇る大男、極めて腕の立つボディガードにして同志だが、こと、周子のことになると途端に甘くなる、それはこの間の夜会の時点で既に明らかになっていたし、以来、彼はどうにかしてあの周子を本当にこのカズマ・フォン・グランツの妻として据えたがっているのだ、しかも、この二人は絶対に上手く行くといった妙な確信まで抱いているらしいから面倒なことこの上ない。カズマは苛々と車椅子の肘掛を指先で気忙しく小刻みに叩いた。
「…………周子刑事、して、君はこの始末をどうつける気だ? 屋敷は全壊、父親はれっきとしたテロリスト、我々は派手な夫婦喧嘩、ギャランは仲間はずれだ」
 ギャランが途端に泣きそうな表情になったのを見て、幾分胸がすいた気がしたが、そんな微かな余裕も周子は許さなかった。
「夢オチ」
「あり得ない」
 瞬時に激しい苛立ちが炸裂した。
「君ら父娘は、人様の家を壊しておいて、夢でした、で済ます気か!」
 般若のような顔で怒鳴られ、さすがに周子もびくっと飛び上がるなり数歩後退さった。
 背中が何かに当たった、と周子が思った次の瞬間、腕を強く引かれ、周子は宙に吊られて足をばたつかせた。
「ああっ、父さん!?」
 いつの間に下ろさせたのか、修三がヘリから下りた縄梯子を既に幾段か上っている。
 ちょうど良いものが来た、とまるで出前先を間違えた蕎麦屋から蕎麦を取り上げるかのような素振りで、このヘリをもらう、と平然と言い放つ修三に、カズマは己の脳内で数本の血管が切れる音をはっきりと聞いた。
「エンヴィ、落とせ」
「だめっ!」
 懐に手を入れかけたエンギワルーの手許を周子が鋭く蹴り上げた。
「!!」
 抜きかけた拳銃が床に落ちて。
 周子は素早く縄梯子から飛び降りるとそれを拾い上げ、シャツの胸元に押し込み、再びカズマの顔面に拳を見舞った。
「補佐官、父さんに何もしないって言ったじゃない」
「だが、みすみす逃がすわけにはいかんだろが!」
「命の恩人の言うことが聞けないんですか!」
「君の父親は明らかに私の命を狙ったんだぞ、今更何を言うんだ説得力の欠片も無いじゃないか」
「だから、忘れてよ! あと何発必要!?」
 ぐぐっ、とカズマが怒りに顔を紅潮させたが、周子、と後方の空から修三に名を呼ばれ、周子は、ぽん、とひとつ手を打つとあっさり笑った。
「 ……あっ、じゃあ、私が忘れる、ねぇ補佐官、都合よくトンズラ、ってことになるみたい、今生の別れ、さらばじゃっ!」
 軽快に身体を反転させると、周子は修三が上りゆくその縄梯子に飛びつく。
「ちょっ! ちょっと待てよ周子ちゃん!」
 行っちゃダメダ、とギャランは慌てて手を伸ばしたが虚空を掠ったに過ぎない。
「カズマ、行くぞ、とにかくここで逃がしちゃおしまいだ」
 あの美麗親父に周子ちゃんを掻っ攫われてたまるか、とギャランは叫んでカズマの胸倉を掴むなり己の背にほおり上げ、上方を揺れる縄梯子の端を掴んだ。
「まさかお前私をおぶってこれを上る気か! この熾烈なヘリ風の中を成人男子背負って上るのは絶対無理だ、絶対落ちる、絶対死ぬ、無茶をするな、死ぬ気か! 周子刑事だって、こんな強風の中こんな不安定な足場で上れるわけが無いだろが! 下で待っ……」
「いんや! あの手つき足つきはぜってー慣れてるね! 見ろ、あんなにすいすいがしがし上ってるじゃねぇか、……って、ぅお、おおおおっ!」
 かつて無いほど厳しい表情で一度上を見上げたギャランだが、途端に動揺することしきりの、妙な、喜色に満ちた高い声を上げた。
「しゅしゅしゅ周子ちゃん、パンツが丸見え!」
「なんてこと仰るんですか! ギャラン刑事っ!」
 次の瞬間、周子に蹴り落とされそうになってギャランは、はっし、と片手でギリギリ縄梯子を掴みなおした。
「馬鹿か周子刑事! ギャランは私を負ぶっているんだぞ! 少しは状況を見……」
「補佐官まで見たって仰いますかっ!」
 このむっつりメガネ! と周子は叫んで。
 カズマが慌てて頭を引っ込めた次の瞬間、見事にギャランの顔面に周子の蹴りがヒットした。
「カズマ、カズマてんめ……」
 お前ら夫婦はおれに恨みでもアンのかこら、とギャランは片手で鼻先を押さえて。
 周子が縄梯子を上りきるなり、ヘリは急速に高度を上げ始め、縄梯子は一層激しく不安定に揺れた。
「ととととと、父さん?」
 修三の手にしたナイフを見て周子は慌てて。
「き、切るの! ってか切ったら落ちて死ぬ、この高さじゃ!」
「…………。このくらい平気だろう?」
 その表情はまるで、猫は二階から落としても大丈夫だ、とでも言わんばかりの表情で。
 いや、ちょっと待ってそれ全然説得力ないから! と周子は叫んで修三にタックルした。
「こういうのを……」
「こーゆーのを必要悪という、とかじゃないから! 明らかに殺人行為だからこれ」
 唇に乗せ掛けた言葉を、周子にぴたりと言い当てられ、修三は一拍間を空けた後、にっこりと笑った。
「なに不謹慎な笑み浮かべてんだ、修三!」
 ガッ、と縄梯子からごつい男の手が伸びて、次いでギャランのがっしりした両肩がヘリの床に乗った。くっそ、さすがにキツイ、とうめきながら身体を機内へと引き上げる。ギャランは猛烈な風でぐしゃぐしゃに乱れた金髪を強く揺すって。
「ひと二人殺しかけといてなに笑ってやがんだ、こんの変態親父!……ぐはっ!」
 周子に顎先を思いっきり蹴り上げられ、ギャランは操縦席のすぐ後ろへと転がった。
「父さんに向かって変態とは何よ!」
「……あたたたた、いや今日の周子ちゃんまじ容赦ない……ああっ、カズマ!」
 ギャランの背に縋ったままだったカズマは、ギャランごと勢い良く飛ばされ操縦席の背に頭を打って昏倒してしまっている。ギャランの肩が怒りに震えた。
「修三、てめぇ何処行く気だ」
「とりあえず……」
「とりあえず、で済むような所か」
 ギャランは立ち上がると、青い瞳で凄んだ。
「人様のヘリをジャックして何処行こうってェんだ、牙の教徒のアジトか? アア?」
「周子と二人きりになれるところ」
 邪魔だから降りろ、今すぐ、とすこぶる迷惑そうな表情ではっきりと言い放った修三に、
「なに恋人みてぇな寝言こいてんだてめぇ!」
 もいっぺん言ってみろ、突き落としてやる! うがー!! とギャランは掴みかかった。


(第37話へつづく)
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