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[tog]77:娘

「あたたたた……」
「弱っちいもんだなァ」
 周子をあっさり組み敷いて、クレリック・リザートは余裕たっぷりに笑った。
「……おっと。組んだ後は三秒以内に身を起こせ、とね」
 クレリック・リザートは苦笑いしつつ周子の身体の上から素早く身を起こす。周子の手を引くと、ぐいっとその身体を起こしてやり、ついた土ぼこりをほろってやる。
「体術教えてんだから多少の触れあい、っつーのは仕方ないと思うんだがな? どうもお前の親父は厳しくていけねぇ」
「クル、だけど胸をこう……揉むのは多少の触れ合いではないよ」
「わっ、ばか、言うな!」
 周子の口をがばりとその大きな手で塞いで、クレリック・リザートは慌てて修三のほうを振り向き、繕った笑みを浮かべた。
 修三はといえば、庭先のテラスに腰掛け、軽く目を伏せて何か考え事をしているようである。その様子にクレリック・リザートはほっと安堵の息を吐いて己の胸を撫で下ろした。こつん、と周子を小突く。
「ばか、ちくるなよ。ちちくりあうのはおっけーだがな?」
「だからそのおっさんくさい駄洒落はやめな。そーゆーの、若い娘に嫌われるって知ってる?」
 再びわきわきと胸のあたりに伸びてきた無骨な手をばちん、と払って、周子はクレリック・リザートを見上げる。太い首、太い腕、厚い胸板、よく日に焼けた肌。がっしりした筋肉質の鍛え上げた肉体は、周子の知る、父修三のものとはまるで違う。

 修三の、磁器のように白い肌、滑らかな両袒を思う。

 これで同じ男という種類に属するのだから驚きだ。
 修三は男である、だから、修三のような姿形が男というものなのだろうと周子は思っていたが、どうもクレリック・リザートに言わせれば違うらしい。確かに、そう言われて改めて周囲を見渡せば、クレリック・リザートのように武骨で頑強な肉体を誇る男は多くあれど、修三のようにしなやかな、つややかさと美しさを湛えた男は稀……というより、他に二人といなかった。
「ねえ、クル、剣を教えてよ。体術なんてもう十分だわ」
 おねだりするように上目遣いで見上げれば、クレリック・リザートは、んん、とまんざらでもない感じで喉を鳴らして、頬を指先で掻く。
 そして、ちら、と軽く睨んで見下ろして寄越す。
「どこが十分なんだよ、おれに全然かなわねーくせに。剣だと? そんなほっそい女の身体で、おまえに剣なぞ使えるわけがねぇ。剣が使いたきゃ、腕にその三倍の太さは必要だ」
 クレリック・リザートはそう言って周子を上から下まで眺める。剣を扱うような筋肉はこの軽くてしなやかな身体には無用のものだ。そもそもが向いていない。
「それに、ミアムの召喚の種には剣が使えねぇ制約があるって聞くぞ。イビサとは組んで長いが、奴も今まで一度たりとも剣をとったことは無い。つーか、奴は平然とおれを盾に、血生臭い前衛戦をさせやがるがな」
「制約ならタトゥーだけでもう十分よ。あんなもの、くそくらえだわ」
 きっ、と唇を噛んだ周子を見て、はあやれやれ強情なもんだ、と己の首の後ろをトントンと軽く叩いて。
「またそれか。ったく、悪いこた言わねぇ、早いとこどっかテキトーな男で手を打てヤ。さもなくばいつか、どこの馬の骨とも分からん男にうっかり名前を刻まれて、痛い目見るぜ?」
「うるっさいなー、私はそんなヘマ踏まない」
「へえへえ。ったく、気が強ええこって。おれなら気心知れてるし何も遠慮は要らんのだがな。やさしくやさしく飼ってやるって言ってんのによ。……んまあ、とにかく。お前に剣なんざ無理、剣は教えない、せっかくこんなすばしっこいイイ身体してんのに、余計な筋肉つけるなんざ勿体無い。お前には剣は向かん。あ、あー、いや、おまえにぴったりの剣があるぞー、うわはは、お前に向いてる、ぴっちゃしだ!」
 真面目な表情で却下したクレリック・リザートだが、途端ににへらーと笑った。
「剣! 剣だな! おまえにぴったりの剣がおれの両足の間に下がって……うほほおう!」
 クレリック・リザートが妙な体勢で身を竦ませた。それもそのはず、その右頬のすぐ側を短剣が掠め飛んだのである。
「……入用か?」
「って! 使ってから言うな!」
 クレリック・リザートの後方の地面には、修三の放った短剣が鋭く突き刺さっている。明らかに命を狙った角度だ。己の右頬を擦りながらあてあぶねぇあぶねぇ、とぼやくそのこめかみから冷や汗が一筋伝い落ちた。
 まるで何事も無かったかの如くテラスに腰掛けている修三を見て。
「イビサ、なんだ今のは。召喚の種は呪文やら魔石やらを扱う能力の代わりに、武器らしい武器は持てねぇって制約が」
「私はそう魔力を削がれることもない、修練を積んでいる」
「そうなの? じゃあ私も鍛える!」
 修三の言葉に、周子がすかさず食いついた。
「父さんにはタトゥーが無いし、うっそびっくり、その上剣も使えるだなんて。私も父さんが包丁以外に刃物を使ったところなんて初めて見たけど。ちょっとこれって最強じゃない。やーホントに大尊敬、憧れちゃう。私、頑張ってまじ父さんみたいになる!」
 修三は静かに目線を向け、周子をまっすぐ見つめた。
 しばらくの間沈黙し、やがて、困ったように眉をひそめた。
「あれは……包丁だ」
「どう見たっておれの短剣だろ!」
 それで誤魔化したつもりかお前! とクレリック・リザートは指差してツッコむ。
 勢いの良いクレリック・リザートを無視し、やはりしばらく間をあけてから、ふーむ、と修三は重く唸った。
 長く沈黙した。
 本当に困ってしまったようだった。
 やがて、言葉を捜しあぐねた挙句、だがどうにも見つからないといった表情で、ぽつり、と周子に言った。
「……おまえは何も鍛えなくて良い」
「でもいざって時にさ……」
 周子がすがるように食い下がろうとしたが、そんな周子を遮り、クレリック・リザートがニッカリ笑って二人の間に割り入った。
「いざって時は無ぇ。おれとイビサがついてるからな」
 な! とクレリック・リザートが存外の気安さで修三の肩に大きな手のひらを置いた。
 首を回し、修三がクレリック・リザートを見る。そして、ほんのわずかに目を細めた。
 ―――あれ?
 周子はそんな修三を見て。
 修三が娘である自分以外の他人にそんな表情を見せるのはとても珍しかった。
 なんだかこの瞬間、クレリック・リザートと父修三との間の距離が確実に縮みつつある現実を目の当たりにした気がして。
 胸がちくりと痛んで、息が止まった気がした。
 この感覚に、覚えは無い。
 この焼けるような、胸を押し潰すような息苦しさはいったいなんなのだろうか、クレリック・リザートと修三とを交互に見比べ……ふと、修三と眼が合った。
 その途端、至極強い、はっきりとした力で、修三に眼を射抜かれたのを感じた。
 修三の黒い瞳が真正面から捕らえて離さぬ。揺らぎの一切の無い、強い眼差し。物理的ともとれる圧倒的な威圧感を周子ははっきりと感じて。

「おまえは普通の女でいい」

 修三はぴたりと周子を見据え、そう言った。
 未だ知らぬ、痺れるようなめまいのような感覚に襲われ、今度こそ周子は本当に呼吸を忘れ、ただただ修三を見詰めた。
 どのくらいの間そうして見詰め合っていたのか。
 クレリック・リザートの武骨な手が、トン、と頭の上に乗ったその衝撃で、身体から緊張が解けた。周子は、救われたような思いでクレリック・リザートを見上げる。
 実の父娘でそんなに見詰め合うな、と言ってクレリック・リザートは己の太い首筋の後ろに手を当てた。ほとほと呆れ果てた、とでも言いたげな素振りだ。
「この御父ちゃんはな、お前さんのその魔力が玉に瑕なくらいだと思ってるのさ」
「へ?」
「ラッシュにそんな魔力がなけりゃあなァ、もっと幸せになれると思うんだが」
「……私、いまでも十分幸せだけど」
 間。
 たはー、と大きく仰け反ってクレリック・リザートは大仰に首を振ると、修三の背中をばしんと叩いた。
「幸せだとよ、御父ちゃん」
 どうするよ、ますます手離せねぇなァ、こらまじで他所に惚れた男が出来たらどうするよ、とニヤニヤして茶化す。
 修三はちら、と半眼に伏せ、無表情のまま静かに返す。
「ラッシュが幸せになれるのなら、任せもしようが……まあそれは、万一いたらの話だ」
 青田刈りだなァ、張り切るなァ、とクレリック・リザートはまた茶化して笑った。
「ラッシュが百代目でなけりゃイビサも苦労しないのにな」
「まただ。クル、ねぇ、百代目って何のこと? 私、父さんに苦労をかけてるってこと?」
「クル」
 修三の冷たい制止の声に、クレリック・リザートはびくと目尻を引き攣らせた。
「あー、はいはい。……とにかく、だ、ラッシュ、何も心配するな、いざとなったらおれがあのくそババアを返り討ちにしてくれる」
「クル」
 再度修三が窘めた。
「ああ? なんだよ、それも秘密かよ」
 修三は冷たく唇を引き結んでいる。
 ―――まただ、
 周子はぞっと背筋が冷えるような心持で修三を見上げた。
 このところの修三は、こんな素振りをすることが本当に多い。それはもはや、隠し事、を通り越し、周子とは別次元にでもいるかのような印象ですらある。
 周子には知る必要がない、と言う修三が、とても遠くて。
 この世にたった一人の血縁、自分には頼れるのは修三しかいない、父さんが好き、物心ついてからずっと、これほど一途に親愛の情を向けているのに……父さんは私が邪魔ではないのか、それこそ自分は修三のお荷物なのではないかと周子は不安になってしまう。
 そんな時周子は、父修三にはどうにも近寄り難い距離を感じて、まるでこの世に自分がたったひとりぼっちに取り残されてしまったかのような気がする。それは、御し難い恐怖にすら思え……修三この人しか、自分にはいないというのに……修三さえ、側にいてくれればいいと確かにそう思うのに。
「ねぇ、父さん……何なの?」
「別に」
 修三はふい、と顔をそむける。
 おいおいそんなにナゾッコ父ちゃんしてると、ほら、最愛の娘が不安がるぞ、と茶化し、クレリック・リザートは眉をしかめた。
「ああ? なんだイビサ、おまえ、ひょっとしてひょっとすると、この調子じゃガーナ行きすらも話していないのか? ……なんなんだよ、どういう親子だよ、会話のない親子か? 家庭崩壊か? 引越しの算段すらついてねぇのか。確かにおれは身体ひとつで来いとは言ったが、行く気ってのがまるで感じられ無ぇな! そもそも、おれはなんでこう暢気にラッシュの組み手の相手をしてるんだ、引越しは明日だろうが」
 クレリック・リザートの言葉に周子はびっくりして飛び上がる。
「ひ、引越し? なんで? どこへ?」
「ガーナだ」
「ガーナ? ミアムの外? うっそそんなのありえないじゃん、……ってどこよそれ」
「聞いて驚け、おれさまの国だ!」
「国!?」
 聞けば、クレリック・リザートはもはや一傭兵と呼ぶには、その勢力は大きくなりすぎたようだった。元は一傭兵の成り上がり、だが、事実彼のもとには既に多くの兵力と経済力とが集まっており、傭兵集団というより、独自の政策を布いた国家たる趣が、確かにあった。
「国を作ったの? あんたが? あんたが王様? 合コンかなんかのネタひきずって……」
「ねぇよ! かみさんがうるさくてな。王妃にすりゃあ、ちったあ見栄も張れるってんで大人しくなるかと思ってな……ああ、ああ、いやいや、違う、違うって」
 クレリック・リザートはぶるりと身震いした。さんざんあちこちで女をたらしこんでいるくせに、本妻にはどうにも頭が上がらないらしい。男の甲斐性と愛嬌とを備えた男である。
 取り繕うように、ごほん、とひとつ咳をして、イビサを呼ぶためだ、と胸を張った。
「おれはただのしがない傭兵だが、イビサのおかげでこうも名を馳すことが出来た。イビサの腕は間違いねぇ、おれの稼ぎをベースにつぎ込んでなお余りある稼ぎっぷりだ。いい働きをする男だが、しかし、よってたかってお前らに名を刻ませようとしやがるベースのやり口は気にくわねぇ。道具か何かのように扱いやがって。だからおれのところに来い、と」
 そのために国を作った、とクレリック・リザートは言う。
 ベースに代わって修三を有するために国を作ったなどと言うあたり、到底正気の沙汰ではない。
 召喚の種を駆使し、召喚契約によって各国王諸侯の望みを叶えるベースの底知れぬ影響力は、まさに各国の深い部分にまで及んでいる。そのベースから召喚の種を取り上げるとは、つまり、ベースの機嫌をひどく損ねるということは、世界を敵に回すということだ、ベースの一言で、各国の軍が、それも正規軍が動くのである。
 ゆえに今まで誰一人としてミアムの召喚の種に手を出そうとした者は無いのだが。
 クレリック・リザートは、そのミアムの召喚の種の中でも最も高値のつく、修三と周子を取り上げようというのである。その度胸の程は常人をはるかに超えている。
 修三の家に上がり込んでは酒を呷り、周子にセクハラを働くとんだエロ親父であるが、その実かなりの実力と相応の度胸とを兼ね備えた、いっぱしの男なのである
「一国の国王が客人として招聘すれば、ベースも文句は言えねぇはずだ、どのみち、ベースにはたんまりと金も積んだしな、身請けには十分すぎる大金だ。これ以上うだうだ言うなら後は叩っ斬るだけだ」
 身請け、とクレリック・リザートは悪びれず言ってのけた。
 修三が低く喉を鳴らした。
「……お前の下になぞ、行かぬ」
「はあっ? なんだよそれ、ベースから逃がしてやるって言ってんだぞ? ベースの束縛を絶つ、それこそお前の最大の望みだろうが」
 焦ったように修三の肩をぽんぽんと叩いて、その秀麗な顔を覗き込む。
「こんなトコ抜けておれのところへ来いよ、来るだろ、来るよな?」
「引越しを了承した覚えなぞ全く無い。我々は我々だ、我々の好きにする、お前の庇護は要らぬ」
 返す修三の声は冷たい。
 たっぷりと長い時間、クレリック・リザートは沈黙し、やがて、まいったな、と呟く。ばりばり、と頭をかきむしって、あきれたような、宥めるような表情で修三を見た。
「おれは別に悪気があって言ってるんじゃねぇぞ? お前ら父娘二人、おれの後宮で蝶よ花よと暮らせとか言ったのは、ありゃ冗談だぞ?」
「あたりまえだ」
 露骨に不快そうに眉を寄せ、クレリック・リザートをひと睨みした。
「我々に軽々しく手を出すなと言っておる。ラッシュを護るのは私ひとりで十分だ」
「だが剣を使う人間が欲しいだろ? 実際、お前に接近戦は無理だ」
 クレリック・リザートは素早く切り返した。珍しく引く気は無いらしい。
「……要らぬ」
「おう、さすがにちょっと揺れたな。珍しい。こういう瞬間瞬間が、ものごっつおれにゃ響くね! 溺愛したい」
 愛しくて死にゅ! と嬉しそうに笑う。
「大丈夫だ、あのババアはおれが叩き斬ってやる、まかしとけ。だから、そんなに頑なになるな。おれはお前の力になりたいんだ、イビサ。お前の望みなら何でも叶えてやる、ベースが嫌いならおれがベースを潰してやる、ベースにつるんでる王諸侯も軒並み倒してやる、お前の為に世界を統べてやる、お前の言うことならなんだって聞いてやる、おれはお前の味方だ、少しはおれを頼れ」

「……何でも?」
「ああ、なんでもだ!」

 クレリック・リザートは胸を張る。
 では、と修三はゆらりと静かに立ち上がった。微笑むように軽く唇を引いたが、低い詠唱をその舌に乗せるなり、きゅっと両目が吊り上がった。はっと魂が竦むほど艶やかな黒き瞳、凛冽冷冷たるそれに、一瞬、むしろ金色に近い鮮烈な耀きが宿る。

「消えろ、目障りだ」

 瞬時に生じた火炎がクレリック・リザートの胸倉めがけて炸裂し、頑強な肉体がいとも容易く後方へすっ飛んだ。はるか後方でクレリック・リザートの体躯を地に打ち付ける重い音が響き、地が揺れた。
「ちょっ! ちょっと! ととと、父さんっ? クル!」
 慌ててクレリック・リザートのところに駆け寄ると、周子は息があるのを確認し、咄嗟に治癒呪文を唱えた。怒った顔で修三をキッ、と睨む。
「ねえ! 父さん、長老を殺るってどういうこと?」
「……」
「何なの! まただんまりを決め込む気? 父さんってば!」
 修三は答えない。
 感情的に詰め寄ろうとした周子の手首を掴んだのは、クレリック・リザートだった。
 ああ、あいつマジでおれを殺す気だったな、手加減が無ぇじゃねぇか、と意識を取り戻すなり、地の上でそううめいた。ごめんね、と周子はもう一度癒しの呪文を唱える。
 お前が謝るこたねぇ、とクレリック・リザートは真顔で呟き、脳震盪を気遣ってか、しばらく地面の上に身体を横たえたまま、額に手を当て湿気た息を吐きじっと動かなかった。その様子はとても獣っぽかった。
 やがてよろよろと半身を起こし、大きくひとつ息を吐いて土の上に胡坐をかく。
 心配そうに覗き込む周子の黒目を、大真面目に見詰め返して。
「ラッシュ、お前だけでもガーナに来い。ベースの飼い殺しになってるくらいバカなこた無いぞ? ましてお前は百代目だ、長老が黙っちゃいない。お前ももう大人だ、自分の人生自分で決めろ、ベースからもミアムから抜け、もっと自由に生きろ」
「ベース? 百代目、って、長老がどう黙ってないというの?」
「タチバナの百代目はお前だ、百代目はドランクドラゴンを……ぐおっ!」
 容赦なくクレリック・リザートの額を蹴り倒して、修三はその言葉を遮った。素足にサンダル履きの、生活感溢れるそっけないその足には不釣合い過ぎるほど、まったく容赦の無い、鋭い一蹴だった。後頭部を勢い良く地面に叩きつけたクレリック・リザートが、その衝撃に頚椎を傷めたのだろう、なんとも痛烈な奇声を上げた。
「父さん!」
「……その余計な口を封じる。ラッシュ、手を出すな」
「待って父さん、友達じゃないの」
「友達?」
 修三は初めて聞いた、とでもいうような表情をした。
「イビサ! お前! 育て方間違ってるぞ。大事にすることと何にも教えないこととは全然違うぞ。ラッシュだって自分で物を考えるだけの大人だぞ!」
 クレリック・リザートがそう叫んだ瞬間、修三の足がその喉仏を躊躇無く踏み抜いた。湿気った嫌な音が立った。
 酷く容赦の無い仕打ちだった。
 驚きのあまり硬直して見詰める周子の目の前で、修三は足下の男の、その厚い胸板に利き足を乗せ、膝をかなり高い位置まで上げると、心臓のあたり目掛け体重を乗せるように強く踏み下ろした。同時にうっ、と息を詰めたような、声にならぬ短いうめき声が上がり、頑強な体躯が一瞬硬直する。
 加減次第で十分殺せる、剣呑な余裕漂う仕種で踏みにじると、修三はクレリック・リザートを冷ややかに見下ろした。
「お前の考えを我々に押し付けるな。お前が我々にとって正しいとはつゆ思っていない。我々は我々だ、お前達には与しない」
 そう告げる声はいままで周子が聞いたどんな声よりも冷たく、殺伐としていた。
 此の世のものではない声音というのは、まさにこんな色かもしれない、と周子は思った。
 ハッ、と息を飲んだクレリック・リザートの気配があった。
「お前達? たち? ああ? お前、おれをどっかそこいらの下らん輩と一緒くたに扱う気か! バカにすんな! お前、自分とラッシュ以外は全部アウトオブ眼中なんだな! おれまで敵扱いしやがって。マッジでいかれてンな!」
 修三は何事も無かったかのように踵を返す。寝る、とだけ言い捨てて。
「寝る? 寝るって、まだお昼前だよっ! っていうかそんなことを聞きたいんじゃなくて! 父さん、父さんってば!」
 追いかけようとしたその背中には明確な拒絶があって。
 周子の足が竦んだ。
 クレリック・リザートが身を起こしたが、その肩は怒りでぶるぶると震えていた。
「……ものすんごく手痛く振られた気分だな、あいつは平気で人のプライドを踏みつける、おれがそこいらの下らん輩とおんなじに見えるってぇのか、畜生!」
「あ、あのクル、ごめん、父さんはきっと悪気は無いんだと思……」
「ああ、ねぇだろうよ! イビサはお前の事以外はどうだっていいんだからな! 悪気もナンも、視界にすら入ってねぇんだろうよ、畜生!」
 猛ったその怒声に、周子がびくり、と身を竦めたのを見て、クレリック・リザートはまずいと思ったのだろう、苦々しく口の端を下げた。お前に怒ってもしょうがねぇ、と周子をまるきり子ども扱いして一線を引くと、ふう、と深く息を吐き、それからしばらくの間沈黙した。
 やがて、片眉を顰めて周子を軽く睨む。
「実際お前らは何がどう、どこまでの仲なんだ? 正直に言え」
「仲も何も……一緒に暮らしてるだけで普通に、父娘?」
「ホントに?」
「うん」
「かー! マジで!?」
 クレリック・リザートはほとほとあきれ返ったようにのけぞり、再び地面に背を打った。その拍子に周子の手を強く引いたので、周子はクレリック・リザートの厚い胸板の上に乗りかかる形になった。
 じたじたする周子を太い腕でがっしりと抱きしめて。
「柔らけぇな、こんなこともしてないのか?」
「してないしてない、っていうか放してよっえっち!」
「バカみたいに晩生だな」
 クレリック・リザートは周子の太ももをなで上げ、尻にまで行き着くと、ショーツのゴムを指先に引っ掛け、ぱちん、と弾いた。
「……やめてよ、えっち。んもう最近みんなそればっか。恋愛しろとか男と寝ろとか名を刻めとか。恋愛なんて自由にしていいじゃない、なんでほっといてくれないの、タチバナがそんなに特別なの? そんなにこの血統が欲しいの? そりゃあ魔力の強さは他のミアムの人間見てもその差は歴然としてるけどさ、でもだからって何もそこまで……情が無いとかなんだとか責められることはないと思うんだよね……私のことを欠陥品扱いしてさ、国中でハブるなんてひどいよ」
 周子はしゅんとする。
「父さんも父さんで、全然何にも話してくれないし。こうも隠されると、なんだか私のこと邪魔なのかとか、どうでもいいのかとか、思うじゃん。私は父さんのお荷物になんかなりたくないの、ああ、なんだか気が変になりそう、私には父さんしかいないのに。親子なのに、親子らしい会話も無いし……昔から変わってる人だなとは私も思ってるけど……でも父親だし……ねえ、父さんは私が好きなの? 娘として?」
 クレリック・リザートはたちまち目を剥いた。
「知るか! なんでおれがそんなことお前に言わにゃあならんのだ!」
 黒く長い睫毛が震えるように揺れる。
「そ、その……百代目だから? タチバナの、魔力が強いから? だから父さんは私を育ててくれてるの? 召喚の契約金、高値がつくから?」
 そりゃ父さんに一生苦労させないくらいに稼ぐ気はあるよ、誓うよ、任しといてよ、親孝行するよ、と周子は真顔で言う。
「だから、なんでもするから! 私、父さんと二人で暮らしていきたいの、ただそれだけなの、それだけが私の望みなのに」
 うーん、始末が悪いな、とクレリック・リザートは重く唸る。
「ホントに百代目の意味も知らねぇんだな、お前はかわいそうだな。イビサめホントにとことん箱入り娘に仕立て上げやがって。ま、確かに、お前が百代目でなけりゃア、そりゃイビサはこんなに神経質にならんだろうさ」
 教えて欲しいか、と問うクレリック・リザートに、周子は素直にうなずいた。
「父さんが、何考えてるのか、知りたい。私は父さんの負担になってるのか、かばうとか守るとか戦うとか殺すとか、最近どうにもこうにも物騒な気が……それって私が父さんに迷惑をかけてるってことなの?」
「迷惑だと思っているかどうかはともかく、あいつのやってることは確かにキチガイ沙汰だな。教えてやってもいいぞ、その点、おれはいろいろと事情通だ」
 そう言って、クレリック・リザートは抜け目無く瞳を光らせた。
「いいか、おれは所詮ただの傭兵だ、見返りがなきゃやってられん稼業さ、そこでだ、取引と行こうじゃないか。おれに抱かれろヤ。イビサ以外の男を知れ。世間はもっとずっと広いってことを教えてやる」
 おじちゃんが手取り足取りいい具合ってのをじっくり教えてやる、といつもの冗談口調へと続けたが、目は真面目だった。
 周子が間近のクレリック・リザートの目を覗き込む。
 そこに本気の色を見、周子は眉根をきゅうと寄せると首を横に振った。
「え、絶対やだ」
「ギブアンドテイクだ、お前は父親の事とか自分の事とか、知りたいんだろ? おれはいろいろ知ってっぞ、身を売る価値は十分にある、お前も大人だ、自分のことは自分で責任を持て」
 おれは何も卑怯なことは言っていない、ヤらせろとも言っていない、お前が自分の意志で欲した情報に対価を払う心意気があるのかどうかを言っているんだ、お前が大人になる気があるかどうかと問うているのだ、とクレリック・リザートは真顔で畳み掛けた。
 周子の黒目が、潤んだようにゆらりと揺れる。
 クレリック・リザートは、己の言葉に、これまでにない明らかな手ごたえを感じた。
「どうしよう、あんたがまっとうに見えてきた」
「おう、おれはまっとうな社会人だぞ、イビサはかなりの変人だ、あいつをデフォルトに据えるな」
 しばらく押し黙って考え込んで、それから周子はこっくりとうなずいた。
 よし、とクレリック・リザートは内心ガッツポーズをすると、間髪入れずに言葉巧みに確約を取り付ける。
「おれは今夜ここの離れに泊まる、イビサの目を盗んでお前がおれのところに来い。おれが動くと奴にバレる、奴の言うところの虫ケラ検知用の結界があちこちに張ってあるからな、実際おれもずいぶんとお前に夜這いを仕掛けたが、ことごとく痛い目に遭ってるしな」
 イビサの言葉からして、娘に近づく者には容赦はしないが、娘の方から寄る分には文句は言わぬのだろう、とクレリック・リザートは冷静に説得した。
「イビサ自身、お前に惚れた男がいるならそれで良いと言っていたからな」
「う、うん」
 クレリック・リザートが腕を外すと周子はパッ、と身を起こした。神妙そうな顔だが再び目を合わせると見る見るうちに紅潮してゆく。
 本当に初心な、可愛い様子だった。
 征服欲がむくむくと湧きあがり、クレリック・リザートは己の身を起こすなり再び周子の手を強く引き、虚を突かれて腕の中に倒れてきた周子の唇をあっさりと奪った。
 それは存分に手馴れた、強引で男くさいやりようで。
 クレリック・リザートはニヤッ、と笑う。
「前金。まさかキスぐらいは初めてじゃあないだろ?」
「は、はは初めてよ!」
 ぱっちん! と派手に一発平手を見舞って、周子は脱兎の如く駆け去っていく。
 クレリック・リザートはそんな周子の小さな背中を見送りながら、打たれた己の頬をなで、ふうん、と唸った。
「ほんとに全然手付かずなんだな、ちょっと勿体無いくらい、というか……あちゃー、なんだか罪悪感だなー……おれも年くったかなー……今日こそは上手い具合に丸め込めたんだがな。だがまあ、誰だって大人になるわけだし、おれが頂いても構わんだろう……どっかの馬の骨に喰われるのはそれこそ癪だ」
 短く刈り込んだ後頭部をさすりさすり、おれも年かなぁー、とクレリック・リザートはがっくりと肩を落とした。この瞬間、どうにも周子が、己の血を分けた実の娘のように思えてならなかった。世間知らずの箱入り娘、気狂いじみた父親の深い愛情と甘い執着とが骨の髄にまで染み込み血肉を為しているこの娘の、その行く末を本気で心配した。


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