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[tog]3:父の名に知るもの

 ベースの敷地境の鉄門扉の向こう、日褪せたレンガの壁に寄りかかっているその姿、細身の黒いパンツと素肌に白シャツ一枚羽織っただけの素っ気無い姿だが、その気負いのない様がまた、修三らしい。
 腰ほどまであるまっすぐで艶やかな漆黒の髪は、彫金の髪飾りでひとつに束ねられ、風が疾ると、その冴えた空気の抜けた一筋の余韻に一層香気が際立った。
「……父さん」
「おまえがタチバナであろうが無かろうが、なにも回りに流されて自分を見失うことは無い」
 いつもどおりの怜悧な無表情だが、落ち着いた、心に深く沁みるような父修三の声である。それは至極冷静で、また温かった。

 修三はそれ以上は何も言わなかった。
 無言のまま、周子は修三と並んで歩いた。自宅へ戻ると、修三は軽く周子の肩を押して促しテーブルにつかせた。
 トン、と冷えた水の入ったグラスが目の前に置かれ、周子はそれを両手でとった。
 飲み干すと、胸がすっとした。
 下手に言葉をかけられるより、その無言がありがたくて。決して冷たくない冷静さが、そっと包んでくれるようで、ようやく芯から安堵した。
「父さんだけだ、私が安心して傍にいられるのは」
 ああ、ひどい目に遭った、とテーブルに突っ伏して周子が呟くと、
「いつまでも未隷属でいるつもりか」
と、修三はあきれたように笑った。未だに誰の名もその腕に刻んではいない父さんの方がはるかに頑固だろうと周子は思いつつ、父親のその顔を見る。
「タトゥーなんか要らない」
「気にするな、そのうち誰かに惚れるだろう」
「やー、無理。父さんよかいい男なんていない気がする」
 修三はわずかに目を細めた。日頃笑わぬ男であるとは思っていたが、この男が実の娘である自分にしか笑顔を見せぬ男であると知ったのはつい最近だ。タチバナの血、このミアムでもたった二人しかいないその血、その身内。周りの人間との魔力の格差が、己の異質さが際立ちゆくにつれ、修三こそ真に理解し合える唯一の相手だと、周子はこのごろ特に強く思うようになってきた。

 父娘である、だが周子は、この父とずっと一緒に生きていけないものかなと、思った。

 娘の言葉に真摯な色をみて修三は静かにテーブルについた。椅子の背に身体を預け腕組みをすると、無言で静かに目を伏せ、周子の言葉を聞いた。
 修三を包む、まるで何処か異界へスルーするかのようなその澄み切った静寂さは、修三が重大な判断を引き出すときの独特の雰囲気だと既に周子は知っている。こんな静けさの後に修三が下した決断はこれまでどんな場合においても覆ることのない、強いものだった。たとえそれが困難な暗殺の依頼であろうと、夕食の献立決めであろうと、下した決断の強さは同じだった。その後にどんなことがあっても動じぬ確固たる決断というものを、修三は下すことが出来た。
 周子は父が何を言い出すのか、待った。
 この国を爆破すると言い出したとしても、周子はこんな押し黙った後の修三の言葉には驚かないことにしている。この信頼は言葉では言い表せない。

 長い沈黙を、周子は待った。

 やがて修三は席を立った。無言だった。
 気乗りしない表情で時計を見上げると、戸棚の引き出しの中から赤く透いた魔石をひとつ取り出した。空間を移動する効力をもつ魔石である。
「あれ? どこか行くの?」
「……召喚。あのバカがまた金をつぎこんだのだろう。しぶといものだな」
 肩透かしを食った気分だった。
 周子がその十倍もの値で扱われるとはいえ、修三を召喚する契約金もまたべらぼうに高い。
 莫大な金をつぎ込んで、確かな経験値と安定した魔力を有するミアムの召喚の種実力ナンバーワン、その修三を召喚するのはここ数年、百戦錬磨の傭兵、クレリック・リザートただ一人と決まっていた。
「これだけの額をそうたびたびつぎ込むバカは他にいないがな」
 だがこれで最後だ、すぐに戻る、そしてミアムを出よう、と修三は言った。
 周子に寄るとそっと抱きしめる、周子の耳元で、甘く低い声で、ずっと私のそばにいるがよい、と修三は囁いた。それは周子が今まで聞いたことの無い、爪先まで痺れ上がるような甘い色を含んだ、修三の声だった。
 抱き寄せてくれるその手が、それは到底、血の繋がった父が娘に触れるそれではないと周子は知ってしまった。
「タチバナの真の名はベースでさえ知り得ぬものだ」
 周子は修三の真の名を知っている。ずいぶんと昔に修三が教えてくれたその意味を、ようやく知った。
 目を丸くしてたっぷり数瞬、周子は唖然と修三を見つめた。そんな周子のやはり幼い反応に少し困ったような逡巡したような表情を浮かべはしたが、それはほんの一瞬で、修三は周子の戸惑いを押し切るようににっこりと満面の笑みを浮かべてみせた。笑顔ひとつで相手をねじ伏せる、己の蠱惑的な容色の魔力をも熟知しているきわめて冷静な態度だった。
 背を向け、今にも魔石の効力を呼び覚まし召喚される地へ飛ぼうとする修三の気配、周子は我に返ると、ソファの上にぞんざいに放られたままの”封印の書”を拾い上げた。
 出掛ける修三にそれを差し出すのはいつもと変わらぬ仕草だが、かすかに手は震えた。
「要らぬ」
「? いつも持っていくじゃない。父さんは面倒くさがりだからこいつで魔物を召喚して一気に終わりに……」
「あ奴ごときに手間取らぬ」
「えっ?」
 あ奴って、クル? とクレリック・リザートの愛称を漏らして周子は身体を一瞬硬直させた。
「とととととうさん?」
「遊びは終わりだ」

 すぐに戻る、修三はそう言って赤く透いた魔石を手のひらに載せ、二言三言、呪文を呟くと、すっとその姿を消した。


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