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[tog]80:嫉妬の巣

「……ずいぶんと、気味の悪い洞窟ですね」
 一歩入るなり、温室に踏み込んだかのようなムッとした暖気が体を包んだ。
 急な暖気と高い湿気の所為で視界が嫌な具合に歪んだ。カズマは一度メガネを外すとそれを几帳面に絹のハンカチで拭いて。
 グラスを磨きつつ、背後にルシウスの気配を待つ。
「以前はもっと、ほの涼しくて静やかな、居心地の良い洞窟だったんですがね? うぷっ」
 こんなとこ、私もごめんです、と、顔を突っ込んでしまった蜘蛛の巣を慌てて手で払いのけながらルシウスがぼやく。
「ブルーピクシーの邪気のなせる業かしらね。息苦しい」
「……で、なぜあなたは私の後ろに? この洞窟はあなたの方が詳しいはずでしょう。あなたが先に立って案内すべきだ」
「こんな小汚い洞窟はもはや私の知らぬ洞窟ですよ」
 ルシウスは即座に否定して。
「剣の腕なら、カズマの方がはるかに上、比べること自体がありえないじゃないか。頼りにしてます、なんてたって四年に一度の剣術大会で四位の成績ですもの、兄は大変自慢にし……うぷっ……また蜘蛛の巣だわ」
 はーいやだいやだ、と大仰にルシウスがその長身を捩る。
 再び連れ立って歩き出したものの、ルシウスの繰言が次第に背後へと遠のいていくのを感じて。
 ほんの数センチ背が高いだけでこう何度も蜘蛛の巣に顔を突っ込むものだろうか、視力でいえばルシウスのほうがはるかに良く、視野も欠けていないはずなのに、ひょいと蜘蛛の巣を避けて歩く、その些細な動作が出来ぬ。躓くたびに己の肩やら腰やらをがくりと捕まれ、カズマはいい加減うんざりと己の首の後ろに手を置いた。
 そうだ、そうだった、この従兄弟はこんな貧弱な下草のひと株にすら躓くくせに、豪奢な毛足の長い絨毯の上では足取り軽やかに優雅に歩ける、そういう男なのだ、と、彼の踏みつけた水溜りが己の裾にまで跳ね返る、そんな不愉快なとばっちりを受けながら、カズマはこの従兄弟の面倒の多さを思った。
 その矢先、案の定、べちゃり、となにか布きれを地面に叩きつけるような音が響き。
 ルシウスがよりによって水溜りの中に転んだのを見て。
「大丈夫ですか?」
 一応はそう問うてみたものの、
「待って頂戴、こんな暗くて気味悪い所に私を一人にしないで」
 独り善がりなその声を聞くなり、カズマの中の苛立ちの針がぶんと振り切れた。
「では先に行きますから」
と言い捨て、洞窟の奥へと足早に進む。
 この洞窟の奥で、周子が危険な目に遭っているかもしれない、そう思うと、もはやこれ以上はどれほど彼に縋られようと待てる気がしなかった。

 論術なら、この国でルシウスに勝てるものはいない。
 初等教育から飛び級に次ぐ飛び級であっという間に最高学府を究めると、若くして前王の補佐、王佐職についた、それがルシウス・フォン・ソルティスだ。博識にして優秀な学者であると同時に有能な弁者であり、また、計算に長けた俳優だ。
 己の眉ひとつ、指先ひとつの動きが周囲に与える印象の威力というものを確実に把握している。論調と声色、息継ぎのタイミングとその強弱、そしてその優美にして豊かな表情、あらゆるテクニックを駆使し眼前の相手を、それが個人であれ集団であれ、規模の大小に関わらずやすやすと手中に丸め込むことの出来る、そういう男だ。彼なら一演説ぶつだけで、この国の世論をすら動かすだろう。たとえ国中の者がギャランを否定したとしても、彼がほんの少し、舌先を揮うだけで、たちまちのうちにギャランを新国王として称えるだろう。それほどに口舌の破壊力を持った男なのだ、そのために迎えに来た男なのだ。
 しかしながら。
 頭脳はきわめて優秀なのに、その反面、極端なまでに運動も剣も、からきし駄目ときている。文人の系なればそれらはもともと彼の人生と品格に些かも必要のない類の能力である、というのも事実ではあるのだが。だが極端に過ぎる。
「文武両道、か」
 文武両道のグランツの貴公子、と称えられた自分はある意味この従兄弟ルシウスよりも優れているといえるかもしれない、だが。
 ―――四位。
 先の四年に一度の剣術大会で四位の成績……四位とは微妙な位置だ、と小さく溜息を吐いた。
 自分は特に何かに秀でているわけではない、グランツの正嗣として求められるであろう事柄において等しく研鑚したまでである。
 まして、ルシウス同様、剣の腕について期待される血筋ではない。
 グランツ家は代々金融経済を司る家系であって、むしろハロック・スレルムのような一流の武人を雇う側の立場である。自身が帯剣する必要はないということくらい、カズマとて、わきまえてはいるのだ。
 その自分があえて剣を取ったのは、あの日以来他者の同行を一切赦さぬギャランの足手まといにならぬようにと思ったまでで……それはむしろ、中途半端、あまつさえこの腕で王を護ろうなどとはおこがましいにも程がある、とカズマは思う。
 ギャランは彼自身、相当に強い。
 四年に一度の剣術大会の覇者は既に三度連続して彼だ。
 三度。
 今尚譲らぬその座、その長い年月を、いや、今の彼の年を思えば、その最初の優勝時の幼さにこそ驚嘆と尊敬とを捧ぐべきだろう。
 最強の雄であること、誰とて心惹かれる獣の美しさ、ギャラン王の存在にはそれで十分なのだ。彼が論に弱い点、それは、足りぬ、のではなくもとより不要なのだ。彼にルシウスがつく、それは補うというよりもむしろ、完璧な組み合わせだ。
 天性というものが極端に顕現し、だがその極端さにおいてとてつもない煌きを放つ両人の間にあって、決して届かぬ高みを見ている。
 文武両道、それは同時に、彼らのいるその高みには決して立つことが出来ぬということであり、自分は分を弁えている、その自覚こそがグランツ家次代宗主たる己の矜持であるといっても良い。
 四位と覇者との差。格付けを試みれば答えは容易く出る。
 それは、嫉妬ではなく、諦めだ。

 ―――誰とて心惹かれる?
 だがそう思うと何とはなしに胸の奥が、じり、とした。

「文武両道」
 脳の底をじんと痺れさせる低い周波数、耳語の如き微かな羽音を耳の奥に感じ。
 不意の違和感、それに気を取られた瞬間、唐突かつ強烈な勢いで頬を張られ、メガネが飛んだ。
「…………ッ!」
 ぼやけた視界の先に、燐火の如き青い小さな何かを見た。
 羽音に混じるさざなみのようなくすくす笑いはあざけりのそれだ。
「どっちつかずの、ただの言い訳、その両極の間に何かが落ちているとでも」
 細い胴体に生えるすらりとした四肢、背には透いた青い羽根らしきもの。
 ―――これがブルーピクシーか?
 自分は、ルシウスの持つシルフィーというものは未だ見たことが無い。
 ルシウスに言わせれば、小妖精とは波長が合わないと見えぬものらしい。
 そう聞いたときには詩人めいた言い方だと鼻先で笑ったものだが……、今のカズマにはまさにそれらしきものが見える、メガネが無いので定かではないが、片手ほどに小さな、青い羽根の付いた、手のひらサイズの……少女の姿、に見えた。

 青い。

 その姿、その色、ルシウスが懇意にしているかのシルフィーではないだろう。
 ―――凶暴で、いたずら好きの? ブルーピクシーが見えるという事は、こちらがその波動に同調したということか?
 先ほどからじわじわと胸に巣食いつつあった劣等感を煽るような己の思考のそれは、
 ―――ああ、術にかかったのだな?
 カズマは不快感を露わに眉根を寄せた。
 じんじんと鈍い頭痛がする、めまいに似た感覚で足もとがふらついた。
 いつの間にその数が増えたか、首を回して周囲を見れば、いくつもの冴え冴えとした青の対の目が、自分を取り囲んでいる。
 ぼやけた焦点ながらカズマはそれらを注視した。
 目が、はっとするほど、青い。
 まっすぐに、こちらの心の底を見透かすような強い光を湛えた眼差し。

 ああ、誰かの目に似ている、と思った。

 確かに、周子を振り回すギャランの存在が大きくて。
 どれほど周子に手痛くやられても平然としているギャランの男らしい勢いが、何か無性にそら恐ろしくて。たとえ周子にこてんぱんにやり込められ、わあっ! と泣いて駆けていったとしても、しばらくすればまた何事も無かったかのように周子の隣にちゃっかりと陣取っているのである。これをなんと評したら良いか、カズマには分からない。
 懲りていない。どれほどの抵抗にも、拒絶にも、全く懲りぬ素振りである。
 分からないからいっそう、妙な胸の痛みを感じる。
 言葉で説けぬ次元のもの、そんなものを目の前に突きつけられる感覚がある。

 ―――始末が悪い

 カズマはブルーピクシーの邪気に当てられた自分に無性に腹が立った。宙に浮いた燐火の如きそれに向かって一度剣を振る。
「きゃん!」
 途端、まるで子犬のような甲高い悲鳴が上がった。
 その刀身への感触に、思わずぎょっとして。
 柄を握った己の手をまじまじと見た、本当に子犬でも手に掛けてしまったかのような気がしたのだ。
 凶暴という程の手応えは、無い。
 というよりもむしろ、ひどくいたずら好きで凶暴凶悪、と聞くその小妖精の、全く思ってもみなかった可愛らしい憐憫を誘うその悲鳴に、たちまち強烈な罪悪感が胸に宿った。
「きゃん!」
「きゃん!」
「きゃん!」
 振った刀身の、確かに当たった手応えと、存外にひ弱なその感触。甲高い愛らしくも悲痛な叫び声と、斬れば斬るほどいっそう周囲の気配が増えていく奇妙な増幅の感覚と。
 増えているのか減っているのか。
 斬れば斬るほど、斬った先からますます増えるようなその感覚にカズマは混乱した。
 ―――術が解けたか?
 カズマはあたりを見回す。
 ブルーピクシーの姿は消えている。
 だが、腕を掴む、服の裾や髪を引く、足元を掬われる、明らかなその感触がある。
 噛まれるような痛みを払ってそこに触れれば、手にはわずかに血がついている。
 所作の頻繁さと空気を震わせる羽音の多さ、周囲の気配から察するに明らかに取り囲む敵の数が増えていると察知する。
 ―――これでは、見えていたほうが、手っ取り早い!
 体を払い、剣を振るが、目に見えぬ小さな相手を退治するのは一層厄介で。
 よってたかって身体を啄ばまれるようなこの感覚に、カズマは極端に苛々した。

「伏せてっ」

 突如響いた甲高いその声に身体の方が先に応じた、鼓膜に響いたその声、次いで鼻先にぬるい土の香を嗅いだ。胸から落ちるように身体を地面に叩きつけたその衝撃がさらに一瞬遅れて走り、カズマはかっ、と小さく喘いだ。
 高速度で入力された感覚の一切が、わずかなタイムラグで以って漣のように押し寄せ脳を痺れさせるこの感じ、炸裂した火炎の強烈な勢いが奇妙な獣の如き圧迫感で身体を地へと組み敷き押し付ける、身の危険が迫っていればいるほど遅れて体感する寒気にも似た興奮、その嫌な感覚が背一面にべっとりと滲んだ。瞬間、呼吸が震えた。
 目に見えぬ大量の何かがぼとぼとと降り注ぐ感じがあった。
 洞窟の壁に激突し不気味な唸りを上げた焔が、燃え盛る糧を求め入り口へと天井を舐めるが如き勢いで伸びるのをカズマは見た。
 ―――まずい、
 咄嗟に身を起こし周子の方へ駆けようとした次の瞬間、だから洞窟ってトコはイヤなのよ! と逆ギレした女の悪態が響き、金属音にも似た刹那の凛冽たる静寂、肺のひりつくような強烈な冷気に呼吸を奪われ思わず膝を折った。
 やりすぎだ周子、と思った次の瞬間、体が傾ぐ感覚と、傾ぐ視野の下に鋭利な凍てついた瓦礫が、それがサンダル履きの足で乱暴に蹴り崩されるのを見た。
 ぐい、と両肩を掴んで捻るようにして身体を押さえられた。倒れかけるところだった身体を支え覗き込んでくるその黒目黒髪は、無論、間違えようの無い、かの女である。
「しつっこいわね」
 周子はあきれたようにそう一言、カズマの喉元のあたりに手を伸ばすと、むんずと何かを掴んだ。それが、抵抗したのだろう、一瞬ちくりとカズマの喉に、噛まれた痛みが増したが、すぐにその痛みは引き剥がされた。
 周子はその何かを……恐らく、いや間違いなく、ブルーピクシーだろう、それを容赦なく何度も地面に叩きつけるような仕草をし……きゃんきゃん、と憐憫を誘う悲痛な泣き声が上がった。が、周子は全くお構いなしの表情で凍りついた地面にひどく叩きつけた。
「み、見えてるんです?」
「見えてるわよ……って、見えないの?」
 周子が意外そうな声を上げた。こんなへんてこな魔物が見えないの? と聞いてくる。カズマは思わず唸った。
「れ、劣等感の強い人間にしか見えないはずです」
「! それが助けてくれた人間に対して言う言葉!?」
 周子が、かっ、と黒目を剥いた。
 ぶんっ、と最後に大きく洞窟の壁に叩きつけるように放って。
 べちゃ、と嫌な音がして、あの可愛らしくも悲痛な泣き声は止んだ。
 カズマは額の生え際のあたりがにわかに寒くなった気がした。いや、気分の問題ではなく、おそらく確実に物理的に血の気は引いているだろう、そう思った。
「あっちこっちまあよく噛まれてるよ! 具合悪くない?」
「具合どころか。……きゃんきゃん、て、なんともまあ可愛らしい泣き声で私は非常に罪悪感が募りました……気分が悪い。残酷です、ひどい、これはひどいやり様だ」
 いくらなんでもひど過ぎるんじゃないのか周子、とカズマがうろたえた眼差しを周子に向ける。
 周子がいっそう目を剥いた。
「ウソ! うげっうげっうげっうげっ! って、すんごいおっさんくさい野太い声の悲鳴だったけど? ふわぁ、へぇ、小さな可愛い女の子!? あっはっは、ふふん、そらまるきり騙されてる、奴等は人の心の弱みに付け込むのよ、まああんたが一番手加減してくれそうな形に化けたんだろうけど」
「……………………」
 周子に笑い飛ばされ、カズマは継ぐべき言葉を失った。
「顔色悪いわ」
「え、ええそりゃ……」
 しかしそれは先ほどブルーピクシーを撲殺した悪鬼のような表情とはまた打って代わった可憐な上目遣いで。心配そうなその色、思わずカズマは息をのんで周子を見詰めた。
「血が出てる」
 顎先をつかまれぐい、と横に捻られるなり耳の下あたりに小柄でも立てられたかのような鋭い痛みが走った。
 思わず抗おうと身体を強張らせたその肩をきゅうと押さえられて。
「……ん、ちょっと待って」
 湿気った声、それに気を取られた途端、周子の手が、服の裾から無作法に入り込んだ。腰のあたりから胸のほうへと手を突っ込まれ、直に素肌を触れ胸板をまさぐられ撫で回され、カズマは思わず身体を強張らせた。
「―――ッ、ちょ、ちょっとまて周子」
 素肌の上をまさぐるその手を服の上から押さえ込んで。
 制止をきかず首筋をなぞりなおも奔放にまさぐろうとするその手の甲を、カズマは強く抓った。
「いっ、痛っぁい!」
 周子が悲鳴を上げるのと同時にがばり、と力づくでその身を引き剥がす。
 勢い余って突き飛ばすような形になったものの、カズマの胸の中に手を入れたままの周子に服の前を思い切り強く引っ張られ、却って周子の上に折り重なるようにして二人倒れこんだ。
「な、なにすんのよ」
 目の端を滲んだ涙でわずかに濡らした黒い下睫毛は、とても贅沢な煌めきに見えた。
「それはこちらのセリフだ、こ、こんなところでなにを始めようとするのだ」
「ぃ?……バカッ!」
 一瞬周子が眉を顰めた後、ものすごい勢いで鼻先に突き手を喰らった。
 周子の黒目が吊り上がっている。
 思わず鼻先を押さえて仰け反ったカズマの胸倉をつかんでがくがくと揺すって。あの魔除けは何処にやった! と周子は問い詰めた。
「そもそもあの魔除けって、こういうときに身体を護ってくれるもんデッショーガ! 何こんなトコでフクロにされてんのよ!」
「えっ?」
「魔除けよ、魔除け、首に掛けてんでしょ違うの?」
 もう一度その手が服の裾から不躾に入り込んで胸のあたりをまさぐってくる。
 動物の如き邪気の無い勢いで無遠慮にもぞもぞと素肌の胸板を撫で回すその手を、慌ててカズマは拒んだ。服の上から押さえ捕まえて強引に引きずり出すと、律儀に周子の膝の上に置いた。
 そして一度咳払いをして喉を鳴らし、胸襟を正した。
「かの魔除けは、嫌がる王に無理矢理……私の不在時に御身に万一のことがあってはなりません、あれは元来王のものゆえ」
 周子の眼差しは厳しい。
「で? あんたは大人しくあーんなおっさんみたいな魔物にやられていると?」
「おっさん?」
「だっからあれの正体はオッサンみたいなキモい魔物だって!」
 ものごっつ囲まれて噛まれて喜んでんじゃないよばっかじゃないの!? 自分の身も守れてないじゃん、と周子は矢継ぎ早にまくし立て詰ると、喧嘩を売らんばかりの勢いでぐぐっと胸ぐらを掴んで、
「そんなにあのバカが大事?」
 いや、周子がその返答を赦さなかった。
「ほら、立てる? 大丈夫?」
 周子はそう言うと力づくでカズマの腕を捕んで引き起こした。
 周子がカズマのまわりをくるくると回って背と膝とをほろってやる。
 こんなとき、小柄で華奢なこの身体の何処にそんな力があるのかとカズマはつくづく感心するのだが。
 さすがに、背負って行ってやろうか、と真顔で尋ねて寄越すその表情、まるで子供でも相手にするかのようなその扱いを前に、カズマはたっぷり沈黙した後、苦笑した。
「周子、相手を見て言葉を選……」
「見たわよ、見て言ってんのよ、ボケッ」
 今更カッコつけんな、と即座に腹を拳で叩かれ、身体を二つに折った。
 カリカリと苛立ったそのむしろ横暴な勢いに、カズマは抗議すべく苦い表情で顎をひきかけ……それからふと真顔になった。
 ぼやけた視界ではあるが周子が不安そうな表情をしているのを見たのだ。
 周子の苛々とした態度は即ちその不安の裏返しだと知って。
「どうかしましたか?」
「聞くけど!」
「はい」
「あんたがこんなところで魔物と戦ってる理由は?」
 想定外の周子の問いに、カズマは、ん? と一度首を傾げた。
「……何です? あなたが先に洞窟に入ったからではないですか。ここはブルーピクシーの巣になっておりルシウスに言わせれば大変危険な洞窟であるとか」
 そう答えた後、はて、と改めて周子を見、もう一度首を傾げた。
「……あれ? れ? なぜ後ろから登場です? ―――ッッ!」
 向こう脛を思いっきり蹴られ、カズマは思わず脛を抱えその場にしゃがみ込んだ。
「バカ! 私がここへ来たのはあんたが先に入ってったからよ! いつまでも出てこないんだから心配したじゃないの、余計な手間を掛けさせんな馬鹿!」
 手間の掛かるバカは一人でもう十分なのよ、と厳しい眼差しで周子は腕組みをして。
「ま、まあ、いいわ、とにかくこれは牙の教徒の仕業じゃあないのね!? あんたが、わざわざその早馬で”私を呼びに”来たんじゃなく、あんたが気に掛けたのは他の誰でもなく、つまりは”あのバカを”じゃなくて、”私を”、私を心配して追って来たって言うんなら、あのバカはまるきり関係無いってことね? あの大バカは無事ってことよね?」
「え?」
「あんたが慌てて私を呼びに来るったら」
「ええ」
「あのバカが怪我したとか死にかけてるとか、そんな所だろうと思ったから!」
 思わずカズマはメガネのない眉間の下あたりを利き手の中指で押し上げた。
「ギャラン様がどうかしましたか?」
「ああもう!!」
 大真面目なカズマの問いに、周子が真っ赤になって身を捩らんばかりに飛び上がった。
「な、なんでもないってば!」
 心配させんなァッ、ヴォォケッ! と周子は吐き捨てて踵を返す。
「か、帰るよさっさとこんなトコ出るわよ、歩け、こンの貧弱メガネ! 無事? 無事って何よ! ああそりゃ無事でしょうよ、バッカは王宮で昼寝でもしてるでしょうよ、もちろん私にゃ全然関係ないっていうか、ずばり関係ない。バカだわ、私何の心配してるのかしら、関係ないでしょうよ、バカ! ああ、もう、私もバカだわ! バカ! なに言ってんのかしら、バカ、バカバカバカ!」
「……落ち着きなさい、周子」
 突如バカバカと罵りながら地面を蹴り始めた周子の勢いをカズマは冷たく抑えた。
 カズマ自身、ギャランのことをバカと言ったことも無ければ、実際そう思ったことも無いのだが。だが、周子がバカと呼ぶのが、それが即ちギャランのことであるのは既に理解している所でもある。
 どういうことか、こう、目の前で周子がバカバカと言い続けると、その言葉の数だけ、その場にバカの文字が積み重なり行くようで不思議と実体を伴うようで。呼んだか? とでもギャランが輝かんばかりの笑顔でこの場に不意に現れるような、そんな心持がして、カズマは落ち着かぬ気分になる。
「王の事をバカと言うな、無礼です」
 微妙な苛立ちを王への敬意にすり替え、カズマはぴしゃり、と言い捨てると、周子の言葉を静かに注意深く反芻し、そして厳しい表情になった。
「牙……牙の教徒がどうかしましたか?」
「思い出したのよ、いろいろとね! あの石をギャランに返してもらわなきゃだ!」
「ほう」
 つらつらと話し出した周子の話を聞き終え、カズマは痛烈な表情をした。
「……物騒だな」
 生贄か、百代目そのものをそうと必要とするか、そう呟くとカズマはすぐにうなずいた。
 その決断は早かった。
「では、すぐにでも王宮に戻りましょう。王は強い、王なら石を任せてええもちろん大丈夫なはずですがやはり心配です……周子?」
 周子の両肩が、がたがたっと唐突に激しく震えたのを見、カズマは慌てて周子の顔を覗き込んだ。
 周子の顔から血の気が引く、その異様な早さを見た。
「かの石は魔力を吸う。戦力たるあなたの身を思えば石は手離したほうが良い、だが、連中の狙う石を王に持たせるのが得策とは思えません」
「ええそうね、”王に持たせるのは得策とは思えない”わね」
「周子?」
 唐突に鋭い棘の突出した言葉にカズマは軽く眉を上げる。
「あんたが心配するのはギャランのことばかりだわ」
「しゅ……」
「…………」
「周子?」
 間近で覗き込むと周子は、己の真意を測りかねるかのように呆然とし、それから神妙な表情になった。
「……どうしよう、なんだか私すっごく気分が悪い。私、やっぱあったまおかしいわ、タトゥーの所為だ、どんどん頭がおかしくなってきてる……」
「周子?」
「……なんでもない」
 ―――なんでもなくなんかない
 今の瞬間、ギャランのことを心配するのが自分ばかりではないことに、強烈に嫉妬したのだと思った。タトゥーの所為だ、そして、どういうわけかそれと同時に、カズマが真っ先に心配したのがギャランのことだったということにも自分は強烈に嫉妬を覚えた、と知った。
 どちらに何をどう嫉妬したのか知れぬ、だがとにかく、なにやら不穏で強烈な暗い感情が胸を潰した。
 自分は命を狙われているのである、それをカズマは全然気にかけてはいない、あまつさえ……、
「戦力って言った。戦力って」
 この男は私よりもやはりギャランの方が大事なのだ、いや、それはそうである、これまでずっとそれを貫いて生きてきた男なのだ、ギャランとカズマとの間には誰も割り込む余地など無い…というより……、

 ―――私は今何を思った? カズマに大切にされたいと思ったのか?

「かっ、帰るっ!!」
 くるりと踵を返し洞窟の外へ向かおうとした周子の腕を、カズマは力強く引き寄せた。
「石は、私が持つ」
「えっ?」
 目を丸くし聞き返した周子。
「なななに言って! 無理。あんたなんかに石を渡せない」
「私のことは信用できないか?」
「えっ?」
「落ち着きなさい」
 気を引いたその隙に楔を打ち込むかの如く、カズマはぴしりと一言、厳しい声を掛けた。
 不安定に揺れる黒い瞳を強く見据え。
「あなたの身を思えば石は手離したほうが良い、だが、かといって、持てば狙われ殺され奪われるであろう石、私はそんな石を王に持たせるのは得策とは思えない、無論、他者の誰にもだ。あなたは極端なまでに他人を信じないが……私に持たせるのが不安ですか? 牙の教徒とかかわりがあるから?」
 真摯な眼差しだった。
「ミアムの召喚の種は他人を信じぬ性質であると兄上に聞いた。むしろ文献においては、懐かない、という表現がなされているようだ、ミアムの中でも特殊な血系タチバナたるあなたはおそらくその中でも最も極端で気位が高い、本当の意味で近くに置くことができるのは親族か、その、タトゥーの主か」
「このタトゥーは事故よ、望んで刻んだものじゃない、死んでも撤回する、ギャランが私を好きだと言うのは既にタトゥーの効力に支配されてるからだ、それこそ最も信用できないものだ、貴様如きがタトゥーについて言及するな」
 黒目を吊り上げきっぱりと言及を拒んだ周子の拒絶を前に、カズマはええ、とさらりと微笑んですぐに頷いて。
 そして、言った。

「では逆説、タトゥーのない私のことは信頼できませんか」

 すっと音もなく胸に突き刺さった。
 遮るグラスの無いカズマの素の眼差しを真っ直ぐに受けて。
 どのくらい時間が経ったのか、あるいは。

 ―――あるいは、……見惚れていたのか

「具合が悪いなら、抱きますか? おぶりますか? 顔色が真っ白ですが」
「いや! いい!」
 周子は身を翻しざま、ばっ、とその胸を突き放し、真っ赤になって拒否した。
 その勢いによろけたカズマのきょとんとした丸い二つの目、この綺麗な紫の目はどうせギャラン以外のことには無頓着な目なのだ、現実はこうだ、この男は私を懐柔しギャランさえ無事ならそれで良いのだ。この男が、カズマが真っ先に心配するのは自分ではなくギャランの身なのだ。
「石は、王から取り上げ即刻破棄します」
 砕くのが手っ取り早いですかね、砕けますか? と周子に聞いてくるその表情はとても現実的なものだ。
「だから抜けないって。タチバナの血以外がはめると抜けないんだって。あの石、あれはあれでやっぱいっぱしの呪いの指輪なんだって。砕くも何も、抜けない、無理」
「落とします」
 きっぱりとカズマが言った。
「え!」
 周子は歩き出そうとしたその足を空中でぴたりと止めた。
 振り返り見上げるカズマの表情には、いささかのたじろぎも無い。
「落とすって? 落とすってあのバカの指を切り落とすってコト? だだだめだよ、仮にも国王だし、あああ、あんな綺麗な男なのに、そんなあっさり何処か欠けさすなんて!」
「……綺麗、って……そんなこと問題ではないでしょうに」
「駄目だって! 何言ってんのよ! あんのバカ、美形なだけがとりえの男なのよ、カズマ様だって、ギャランの指が欠けるのはイヤだってこないだ言ってたじゃないの!」
 周子は思わずカズマの服の裾を強く引いて。
 駄目だと繰り返す周子に、カズマは、真顔になるとしばらく黙った。

「王の指ひとつが、そんなに大事ですか」
「当たり前でしょが!?」

 かの盟約石を発動させるのにタチバナの百代目の血が、すなわち、周子の命が必要だと明かされて、咄嗟に自分が心配したのは、
「王はお強い、心配は無用です」
 石を狙われる王の御身ではなく、周子のその身以外にほかならぬ、とカズマは知る。ギャランのことを真っ先に心配しなかったのは、彼自身が相当に強いからだと、彼への心配は無用であるからして己はそのさらに先を読んだのだと、そう、己の情動に理由をつけたのだが。
 カズマはもはや、そう理由づけた理由すら、知っている。
 御し難いほどの、かっ、とした何か熱いものが、己の骨身をきしませる。
 ―――たかが、指ひとつ。
「王は、あなたの為になら指の一本や二本、喜んで落とすでしょう」
「いやよ。私、そんな指なんか欲しくないもの!」
 ざばりと黒髪を逆立てて周子は拒んだ。
 その周子の肩に両手を置いて、カズマはぽんぽんとあやすように軽く叩いた。
 ―――この女は己の命より、王の指一本の心配をするというのか……タトゥーの呪主の指一本を……タトゥーはそれほどにこの女の心を縛っているのだろうか。いや、そもそもそれはタトゥーゆえの情であろうか、あれほどに強く望まれ繰り返し繰り返し好きだとかき口説かれ、夜毎に抱かれ、熱心に寄せられる好意をそれでも拒む女がいったい何処にいるだろうか、相手はあの、ギャラン王である……。
 滑らかな剥き出しの肩。
 首から続くその両肩の、小ぶりで敏捷そうな美しい造型、骨と筋肉を包んだ白く艶やかなその肌。そして、その白い肌に不釣合いな……
 周子の肩に置いた利き手を、するり、と下ろして、

 ―――肌が、薄い。
 獣に裂かれたが如き凄惨な傷痕、周子の二の腕の傷に指先で触れた。

 再生してさほど時の経っていないその薄い肌はどう感じたのか。その名をなぞられ、ふるっと切なげに肩を震わせた、その頼りない表情が痛ましくも、なんと、なんと、腹立たしいことか。

 ―――タトゥー、なぜその機会が私に与えられなかったのか
 カズマは生まれて初めて、望んでも決して叶わぬものを望む自分を見た。

 カズマは、苦い思いで一度周子をきつく見据えると、行きますよ、と冷たい表情で促した。


[tog]80:嫉妬の巣 [200/02/21]
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