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[tog]82:悪魔よりも狡猾な男

 ルシウスの屋敷に戻り、やがて夕食に呼ばれたもののカズマはその席には現れなかった。
「せっかく周子殿とご一緒しようと思ったのに。カズマは一人でボイコットかね? やあ、ですが、なんですね、二人きりで食事をとったとなると、それはそれでさぞやきもちを焼くのでしょうねぇ」
 ルシウスはこう言って、まいったなあ、と長髪をかきあげる。そうはぼやきつつも、全く困った表情をしていない、むしろ楽しそうである。

 ちらりちらりと周子の方を見ては、満足そうだ。

 領主ルシウスに夕食の同席を求められ、周子は遠慮した。だが、わざわざ周子の身支度の為に遣わされたルシウス付きの侍女が、カズマも同席するとの旨を告げたので、周子は大人しく了承した。カズマが断らない、それは即ち、断れない、のだろう、と、つまり強制以外の何物でもなかろうと周子は思ったのだ。従兄弟ルシウス相手に手を焼いているらしいカズマへのささやかな憐憫であったと言ってよい。
 だがしかし。
 ルシウスの侍女が恭しく差し出してきたイブニングドレスの美しさといったら。
 しっとりと輝く、光沢のある深い深い黒、大きく開いた胸元とスリットの入ったシンプルなドレスは、むしろ周子の体つきの良さを、小柄ながらコンパクトにバランス良くまとまった、その本質的な品の良さを強調するが為に誂たような出来だった。
 胸元とスリット、裾にかけて施されたレースには小さな輝石と刺繍とが品良くあしらわれ、光の加減で艶めき可憐な輝きを放つ。
 瀟洒で洗練された美しいドレス、だが、なぜ自分がルシウスにドレスを贈られねばならぬのかが周子は分からない。
 身体を通し、そのサイズがぴったりであるということが、怖い。
 貴族の子女なれば普通喜んで然るべきことなのであろうか、周子には甚だ疑問だった。

「まあ、席におつきなさい、カズマは時間に遅れる子ではない、すぐに来るでしょう」
「そうね。……でも、でしたらやはり、カズマ様がいらっしゃってからにします」
 周子は、着席を勧めるルシウスをやんわりと断った。
 微笑まで、添えた。大サービスだ。
 サトリ、との異名を持つとカズマに聞いたこの男、何でも見透かすというのが気味が悪いのでイヤです、とはまさか正面切っては言えぬ、まして、カズマが同席に同意しているのだと思うと、そうあからさまに拒むわけにもゆかぬ。
 ―――そういえば、ルシウスを王宮へ引きずり出すことに成功したのだろうか?
 カズマの頭の良さは良く知っている、その彼がこれまでに無い難しい交渉事、と言って食事すらろくに手に付けず胃の辺りを撫で擦っていた、その厄介な話はもう既についたのであろうか?
「そういや、洞窟から戻ってきてから一度も顔を見てないな。部屋に戻ってそれっきりって……おかしいかも。もう夕方だし。すぐに一緒に王宮に戻ろう、って言ってたのに」
 周子の小さな呟きをすかさず耳に留め、ルシウスが小首を傾げる。
「王宮に? なぜ?」
「あ、いえ、何でもありません」
 周子は短くルシウスの詮索を遮った。
 ルシウスが推し量るようにほんの少し目を細めるのが、たまらなく不愉快だった。

 くつろぐとよい、と再度ルシウスが着席を勧めたものの、やはり、カズマがまだ来ていない以上、先にテーブルにつくのは憚られ……というより、イヤだった、怖かった。己の直感めいたものがこの男には近寄らない方が良い、と悲鳴を上げたのだ。
 周子はルシウスから一歩離れた。そうして周囲を見回す。
 広間の一角に据えられた虹色の噴水に歩み寄ると、その縁に軽く腰掛けた。

 賢い女性だな、とルシウスが呟くのを聞こえなかったことにする。

 噴水から絶え間なく噴き落ちる水音と、水飛沫が上がる所為で微かな水の粒が肌に触れる、湿気った冷気が心地良いなぁと思いながら、この時周子はようやく自分が疲れていることに気が付いた。
 考えてみれば、それはそう、出立する前にはギャランの下に残すハンズとララクロノフにかなりの魔力を分け与えてきたのである。
 一見平気そうでいても、いざ魔力を使ってみるとその差は歴然、ブルーピクシーを一撃で撃退したのは良いものの、たかが一度や二度呪文を唱えただけでこの身に残る重い疲労感、未だ己の身に魔力が回復しきっていないのを周子は痛感した。

「脱いだらすごいってのは、カズマだけではなかったのですねぇ」
「……脱いでませんけど。ちっとも」

 ふふん、とルシウスは上機嫌に鼻を鳴らす。
「私の審美眼は確かですからね」
 周子がわざわざ距離をとったにも関わらずルシウスは近づいてくる。どこか容赦の無い近しさ、いかにも親しげなその様子がたまらなく気に障った。周子は再び立ち上がってルシウスから離れたかったが、カズマの手前、さすがにそれはあからさまに過ぎるかと自制した。
 たとえば子供らに無粋に愛玩の手を伸ばされる猫、気に食わないのを我慢してぴたりと身を固くする猫のように周子は耐えた。
 そんな周子のすぐ隣に腰掛け、ルシウスはしかし、と呟いて首を捻る。
「そのような美しい見かけと違って、ずいぶんと豪胆な方ですね? 王を、ろくでなし呼ばわりするとは」
 周子はちら、と顔を顰めた。イヤなところを突いてくる、と思う。
「ああ、忘れて。そのせいでいつもカズマ様に迷惑を。場をわきまえぬ私の言葉が彼の寿命を縮めるのだそうですから」
 冷たく返すがやはりルシウスはにっこりと微笑みを浮かべている。
 まあ、実際それで寿命が縮むなら、カズマの余命はもってせいぜい一年だ、とでも軽口を叩きたいのが本音だったが、ルシウスにその動じぬ微笑で見つめられると、まるで唱えた呪文を無効化されたときのような、静謐が肌を締め付けるなんとも嫌な気分だった。

「いや、実はね、私もかねてからそう思っていたのですよ」
「は?」

 周子は少々険のある顔になってルシウスを見た。
 ルシウスはその灰色の瞳にぐっと力を込め、周子の黒い瞳を覗き込む。

「その点、われわれには共通の認識がある」

 ―――そうだろうか?
 部外者の私がなじるのと、臣下たる立場の者がなじるのとではずいぶん意味が違うのではないだろうか?
 周子はなんだか物騒な気がして、言い知れぬ寒気を両肩に感じた。
「ふむ。ですが、王のことは少なからず大切に思っているわけですね、今のこの沈黙、私の真意を量りましたね?」
 微かに肩を強張らせた周子の、困惑に曇った表情を見て取って、ルシウスは感心したかのように、目を細め、またにっこりと微笑む。
 ああいけない、噴水の傍は結構冷えますよ、と掛けて寄越す声は、噴き落ちる水の微かな飛沫よりもずっと冷ややかだ。
 一分の隙もない完璧なルシウスの微笑。周子はぞっとしてそれを見つめる。淡い灰色の麗々しい瞳。まるで瞳が吸いつけられるかのような、目を逸らすことを許さぬ威圧感がある。

 ―――カズマの従兄弟だと言っているこの男は。
 カズマよりもはるかに、微笑が、上手い。

 そして、怖い。
 カズマよりもはるかに、底が知れぬ。

 小首を傾げ、ルシウスはさらに問うてくる。
「カズマがここへ来た理由、聞いてます?」
「……さあどうでしょう? あなたに伺候復職を勧めるため、とかそんなことを聞いたような気もしますが」
 さらりと流そうとする周子の瞳を依然強く捕らえたまま、よろし、とルシウスはうなずく。
「カズマがこんな風に私に泣きついてくるのは、実に久しぶりでしてね。幼い頃は私にべったりだったのですが、ほんのちょっと物心がつくとすぐになんでも自分でやりたがって……全く、弟というものは、かわいくないものです、ええ、実際には私と彼は従兄弟の立場にありますが」
 そう言ってルシウスは笑うと、一度軽く目を伏せ、周子の黒瞳を解放した。
 威圧感を一掃したその美麗な面貌を、それでもまだ魅入られたように周子は見詰めて。
「サーデュラス前王陛下は失踪、と。もう一年ほどになりますが、彼は王としては実に優秀でした。彼の胸の内に持つ残忍さ、それを政治に向ける限りは。全く、人生というものは……わき道が多いものです、いとも簡単に、逸れる」
 ああも己の身勝手な恋情に拘泥して、と、続けるその言葉、そこには、かつてこの国の王であったという男に向けるには過ぎた侮蔑の色がある。
 ルシウスは前王サーデュラスよりもはるかに年若なはずである。
 異例の若さで前王陛下に重用された、と聞く。いくら優秀な臣下であったとしても、その華やかな経歴はむしろ前王に恩があると言って然るべきであって、このような侮蔑の言葉を吐ける立場であるはずも無い。
 まるで吐き捨てるが如き冷たい言い草に、周子はこの男の本質を感じて無闇に胸の芯が冷えた。
 そしてルシウスはまたにっこりと優美に微笑んで。
 こういう瞬間瞬間に微笑んでみせるということが、むしろ、そら恐ろしい印象を与えるということを存分に知り尽くしている男だ。
 そして周子がその意図を汲むことが出来るほどに聡いことも、ルシウスは承知している。
「……正直、この国の将来なんてどうでもよろし。ただ、カズマの頼みですから、少しはね……遊んであげようかしらと。実際夕べは……涙目で、意地でも私を引きずり出す、なんて健気なことを言うものですからねぇ、可愛らしかったこと」
「カズマ様は、王に夢中ですから」
 王、と周子の言葉を復唱してルシウスはちら、と目を細める。
 周子が言葉を変えた、そのささやかな抵抗に気づいたからだ。
 周子はギャランのことを、王、とは呼ばぬ、それをルシウスはすでに察している。
 形良い薄い唇の口角が興味深げに、にゅう、と吊り上った。
「そうなのです。年の端ほんの十六ばかり、人生これからというときに、あのろくでなしにつかまってしまって。私がほんのちょっと目を離した隙に」

「ろくでなし……」

 周子は軽く眉根を寄せ、ようやくルシウスから視線を外すと、目を伏せた。
 王、と呼ばった自分の言葉を受けて、あえて再び、ろくでなし、と言って寄越してくるあたり、明らかにこちらの様子を試しているのだと周子は知る。舌先で唇をちら、となめた。

 ―――ろくでなし。

 自分で言っておきながら、他人がそう言うと、胸が痛む。
 なんだろう、この感覚……
 何処か、嫉妬、に似ているのかもしれない。

「おもしろいですね、うん、なるほど面白い」

 そんな周子をしばらくの間しげしげと眺め、ルシウスが唸った。
 その時、カツカツカツ、と廊下をこちらの広間へと近づいてくる足音が聞こえた。
「カズマ、あれが本気で怒ったらどんな顔するのでしょうか、まだ見たことがないのですよねぇ? ……ふむ、あなたを使ってなら、あの子を本気で怒らせることが出来そうです」
 ルシウスは軽くうなずいて、じいっと周子を注視する。
「仲の良い従兄弟というのも少々物足りなくて」
「……あの?」
「愛しさと憎さ、人の情においてどちらが強烈なものかと問われればもちろん後者です」
「?」
「知的好奇心ですよ?」
 端正な顔立ちが近づくその様子を、周子は綺麗なものだなぁと感心して見つめ。
 唇が触れて初めて、周子はその近づいた意図を知った。
 たっぷり一拍あけた後、驚いて突き放そうとした周子を、その長身に任せてあっさりと抱き締め、再びルシウスが周子の唇を、深く奪った。

「失礼します」
 聞き覚えのある、低く落ち着いた、毅然とした声が広間に響いた、と思うなり、
「―――大変失礼いたしました」

 即座にぱたりとドアが閉められた。
 してやったり! といったふうにルシウスは周子をパッと解放すると、上機嫌でパンパン! と音高らかに手を打った。それは貴人が従者を呼びつける、遠慮のない命令だ。
「残念だったね、シルフィー、カズマじゃなくて。だがこのハゲたおっさんでも十分楽しいよ、ナイスでグッドなタイミングです」
 ルシウスは宙を仰ぐと上機嫌にそうまくし立てた。
 ドアの向こうでためらったような気配と、困惑したような間が数瞬空いて。再びルシウスが貴人然とした打ち手を響かせた。その打ち様は明確な命令の意を示し、従者であればそれが誰であれ、このように手を打ち鳴らす貴人の傍に遭った者は無視の出来ぬ類のものだ。
 遠慮がちにドアが開き、そこに先ほどの男が顔を出す。
 目線を下げたまま、ちらとも広間の中を見ようともせず、戸口で恐縮しきったように深くスキンヘッドを下げた。
「今しがたは大変失礼致しました、お取り込み中のところ、……なにとぞご容赦を」
「失礼も何も。こちらはお宅の姫ですよ」
 鷹揚なルシウスの、だが意外な言葉に、途端に弾かれたようにエンギワルーが目線を上げる。

「なんと!」

 短く叫んで絶句した。
 が、すぐに気を取り直したか、ルシウスの面前にもかまわず、ずかずかと広間中央までやってくると、周子の腕をむんず、と強く掴んで引いた。

「! なんて事をしてるんです! それに、なんて格好してるんです!」

 ふむ、とルシウスは満足そうだ。
「侍従長のこの反応。あの子はよほど大切にしているんでしょうねぇ?」
「お戯れもほどほどに願いたい!」
 仏頂面をますます顰めて。エンギワルーの憤慨ぶりは頭でお湯が沸かせそうな勢いだ。乱暴に周子の腕を引き、ルシウスからさらに一歩大きく引き離す。
 ルシウスは自分と周子との間に生じた冷え冷えとする空間をにこりと眺めている。
「周子殿、その可愛らしいお口の銀の滴をお拭きなさい?」
 周子は飛び上がって手の甲で口を拭った。
 唾液で濡れた手の甲を見るなりたちまち真っ赤になった周子は拳を握り、殴るべく身体を撓めかけたが、拳どころか抗議する隙さえ与えずルシウスはぴしりと一言問うた。
「カズマは?」
 はっ、と我に返るエンギワルー。
 そもそもドアを開けたのはその用件を伝えるためだったはずだ。

「実は、お倒れになられまして」


「だったら、もっとずっと先に言いなさいよ!」
「なんですと! あなたが軽忽にもこちらの領主殿とキスなどしているからでしょうが!」
「違っ、あれはいきなし」
「やれやれ本当に子供だな」
「説教くさっ、ガキはキスなんざしないでッショーガ!」
 突如勃発した周子とエンギワルーの遠慮のない激しい舌戦を面白そうに眺めて。おや、侍従長とも親しいのだね、身分を感じさせぬ姫だねぇ、などと微笑んでいたが。
 だが二人の口論の勢いが少しも収まらないので、ルシウスはやがてとうとう横槍を入れた。つまりは、飽きたのである。
「……で? 医者を呼んだほうがよいかしら?」
 その冷やかな声で、エンギワルーがはう、と嘆息とも悲鳴ともつかぬ声を上げた。
 いつもの仏頂面に戻るとルシウスを見て、気まずそうに唸った。
「いえ。ただひどくお疲れになられたようで。多少熱はありますが、数日休めば大丈夫かと。申し訳ございませんが夕食に臨席できぬ旨、ひとまず奏上にあがった次第で」
「ふむ。しかし心配ではありますね、見舞うことにしよう、姫もいらっしゃい?」
「姫?」
 周子が後ろを振り返る。
「姫ですよ」
 ほらあなたのことですよ、と畳んだ扇子の先で周子の鼻先を軽く突いて。その意外そうな顔、おや、カズマは本当の本当にあなたを姫としては扱っていないのか、とルシウスはまた笑った。どうやらますます機嫌が良くなったようだった。


「今は鎮痛解熱の薬湯を召されて眠ってらっしゃいますので」
 周子を部屋の中に案内すると、エンギワルーは周子を残しさっさと後ろ手にドアを閉めようとした。
「では、私は他にも所用がございますから」
「……えっ、一番気心の知れたあんたがついてなくてどうするの!」
「…………………」
 いかにも嫌そうに、エンギワルーが眉根を寄せた。
「あなたは大人しく若の側に。下手にあちこちで騒ぎを起こされると却って若の神経に障ります。いっそ若の傍にいてくれたほうが私は余計な気を使わなくて済む。特に何だ、先ほどのあれは!」
「まだ言ってんの! 年寄りってのはしつっこいなっ! ちょっとキスしてただけじゃない」
「だけ? 開き直ったな!」
 年寄りとは何だ、とエンギワルーに脳天をごちんとやられ周子は怪鳥の如き声を上げた。
 お止め、カズマが目を覚ましてはいけないよ、とルシウスは二人の間に割って入ると、周子を見、うっとりと微笑んでみせた。
「そんな美しいなりをして。また私の中のお茶目さんが悪戯をしてしまいそうですよ」
「うわっ」
 一声叫んで周子は勢い良くドアを閉めた。
 すぐ鼻先で、鼻を打ち付けんばかりの勢いでドアを閉められ、ルシウスはくつくつと肩を小刻みに震わせ笑った。
「いや、まったく。今日は朝から退屈しないですねぇ」
 カズマは良い手土産を持ってきました、と真顔で頷く。
「しかし。見てくれは良いが無防備で軽忽、あれが当代の寵姫とは、前代未聞だな」
 その言葉にエンギワルーは仏頂面をいっそう顰めた。
「当代の寵姫……若がそのようなおっしゃりを?」
「ふむ、お前はそれに異論がありそうですね」
「いえ。とんでもございません」
 エンギワルーは慌てて否定した。
「カズマがあれに夢中だというのは、お前のような色気のないハゲ頭の仏頂面の四十過ぎのおっさんでも一目瞭然というわけだ? ふふん? これは、大変ですね」
 ルシウスはやれやれ、といった風に軽く肩を竦めた。
「あの黒いのも……まあ、全く女の色気が無いというか、ああ、無いのはむしろ自覚のほうか……ハゲ頭の仏頂面の四十過ぎのおっさんと、双黒の美女、目覚めたときに枕許にいるのなら、絶対後者のほうが具合がいいと思いますがねぇ、はるかに。……ああ、なんです? シルフィー? ……え? 緑癒石?」
 ルシウスは不意に斜め上方を見上げると、エンギワルーには聞こえぬ声、なじみの小妖精シルフィーの声に耳を傾けた。そして宙に向かって鷹揚に頷いた。
 色気の無いハゲ頭の仏頂面の四十過ぎ……酷い言われ様だ、とエンギワルーは口元に手を当てがっくりと肩を落とし低くうめいた。


 ベッドサイドのテーブルには水差しや、薬湯の袋やらが置いてあって。
 カズマの額の上のタオルに触れればまだ冷たく。既に一通りの処置は済んでいるらしいその様子に、まあ、あのエンギワルーのことだ抜かりはあるまい、と周子は納得すると枕もとに椅子を引き寄せた。
 その顔を覗き込む。
 熱を帯びた朱が頬に散り、顔色は滅法悪いが。
 綺麗な顔立ちだなぁ、としみじみ思った。
 普段はメガネのグラスに遮られ、造型の良さはあまり目立たないが、こうしてみると大変にいい男だ。ルシウスと血のつながりがあるのもそこに見て取れる端正な顔立ち。だが何より明らかなのは、緑髪と紫瞳という極めて珍しいその取り合わせ、即ち、面貌の趣の明らかな相違を不問してなお、実父ルドルフに瓜二つと言わしめ得るほどに特徴的なグランツの血の発露であり、グランツ家を継ぐべき正嫡たる証をその身に備えている。カズマが生まれながらにして一体どれほどの経済的社会的祝福と重責とをその双肩に背負っているのか、グランツ家次代宗主というものの存在やら意味やら価値やらを周子はしばらく考えたが難しくなって頭を振った。

 ―――そういえば、メガネ、割れてたな……
 ベッドサイドに置かれたメガネは昨夜かけていたものとは別物だ。
「ひゃー、ずいぶん、きっついのかけてるのねぇ」
 何の気なしにそれを掛けるなり、不意に視界がぐにゃり、と揺れて。周子は思わず小さく奇声を上げた。
「……なにしてるんです」
 歪んだ視界の下方で、強い紫の光を二つ見た、と思うなり、その光ががばっ! と顔のすぐ間近に迫った。
「およ?」
「およ? じゃありません! 人が熱を出して寝込んでいるのに、勝手に眼鏡で遊ばないで下さい、スペアはこれしか持って来ていないんですよ!」
「機嫌が悪いのは、寝ているのを起こしたからか、メガネで遊んでいたからか、スペアが他に無いことの不安ゆえか……さあどれだ?……あたっ、あたたたた、耳が、ミミガー!」
 耳を引きちぎりそうな強引さで周子からメガネを取り上げると、カズマは素早くかけた。すちゃっ! と音でもしそうな勢いだった。
 いつもと全く変わらぬ容赦ないカズマの様子に、周子は軽く肩を竦め、
「顔色が酷いから心配したけど、げ、元気そうね?」
「休んでいる枕許でふらふら揺れてる不気味な人影を見たら、そりゃ誰だって起き上がります! 何事かと思いました、瞳が黒いから、さすがに、あなただとは分かりましたが、いや、ちょっと、待て、そう軽々しく成人男子の寝所に入るべきではない、貴様恥を知れ」
「貴様恥を知れ!? なにその言い草!」
 看病してやってんのに? と言う周子に、それ態度のどこがです、と憮然と応え、そして、ふと、視線を周子の胸元に落とした。
「……なんだってそんな格好をしてるんです……」
 なんだか急激に部屋の空気が冷えた。一層機嫌が悪くなったらしい。
 品の良い紫の瞳が、怒りを湛えて物騒にギラリと光った。

「ルシウスの奴……」

 カズマは掛け布をばさりと捲ると寝巻きのまま床に降り立った。
 ぐらりと体が揺れる。
「ま、ままままあ、寝て!」
 周子は慌ててカズマの両肩を強く突き押すと、ベッドに倒した。
 勢い良く押し倒され、周子を抱きかかえるようにしてベッドに仰向けになったカズマは不機嫌に唸った。
「………新手の嫌がらせですか? 人が具合の悪いときに」
「とにかく、寝てて。じゃないとエンギワルーに私、ここ殺される」
「じゃないと、の接続のイミが不明ですが!」
「あんたの看病を任され……」
「邪魔しにきたとしか思えませんが!」
 眉を吊り上げ抗議したカズマは、その近さを改めて知る。その肌の触れて滑らかな心地を自分は知っている、周子の細い首筋、まろい肩を、すぐ側に見て。
 つややかで白く、吸い付くように滑らかな、それは一度は知った肌である。
 ドレスの胸元からこぼれんばかりにのぞく、己の胸板の上ではしたなく潰れる豊かで柔らかなその質感、ほのかな、だがすこぶる好い匂いがして。
 あまつさえ、身を起こし反転させれば簡単に組み敷くことが出来る、なんと無防備で無用心なものか、と焦燥にも似た強い衝動が鼻腔の奥の奥を焼いた。
 ―――嘘だろう?
 カズマは己の預かり知らぬ情欲をなじった。
 こうも容易く、女の肌に欲情するなど、これまでに無い衝動だった。
 たっぷり間が空いて。
「分かりました。とにかく横になりますから、どいてください。これじゃあまるで……」

 かちゃり、とドアが開いた。

「おおっと!?」
 銀髪の主が、ドアノブをつかんだまま、軽く仰け反った。
「お邪魔だったかなぁ、なんてぇ……っていうか、もうそんな元気なの?」
 若いっていいわねぇ、と微笑むルシウスを見るなり、カズマは電気ショックを喰らった野獣の如き勢いで跳ね起き、突き飛ばされた周子は珍妙な悲鳴とともに派手な音を立ててベッドの上から床に落ちた。
「あらまあ大変、大丈夫、姫?」
「ひめっ?」
 慌てた素振りで部屋に駆け入り、柳のような長身を屈めて周子を抱き起こすルシウスのその言葉を、カズマは素っ頓狂な声で繰り返した。
 ルシウスは乱れた周子の黒髪を撫で、非難の色濃く眉根を寄せる。
「女性をこうも突き飛ばすなんて、ひどいですね、カズマは」
 妙にしっとりとした手つきで抱き起こされて戸惑う周子に、ルシウスはぐっと顔を寄せると、頬が触れんばかりの近さで甘く囁き尋ねた。
「……大丈夫です? 姫?」
「彼女が姫などと呼ばれる理由は微塵もないが、兄上」
 ルシウスの艶めいた声色を打ち消すが如く強い口調で一言そう声を掛け、カズマは腕組をした。
「なんだかやけに近くないかその距離……周子、ちょっと目を離した隙にあなたまたなにか、なにか取引でもしましたか!? まさかこのルシウス相手に取引をですか!! 悪魔との契約よりもなお性質が悪い、この男は悪魔よりもはるかに狡猾です、なんて物騒な真似を!」
 ルシウスはにっこりと笑うと、その腕に周子を抱いたままゆったりとカズマを仰ぎ見る。
「悪魔? はは。なんです、照れ隠しにもほどがありますよ? 乱暴な。どっかのろくでなし国王の乱暴さがうつったのかしら?」

「ろくでなし……」

 ごっそりと血の気を引いて、カズマがうめいた。
「周子、ルシウスとなにがありました?」
「な、なにって……そりゃ」
 ―――キスしてたとはさすがに言えな……
「…………………………」
 さすがは奸智に長けたルシウス、絶妙なところであっさりと沈黙する。
 動揺して見上げてくる思惑通りの周子の反応、ルシウスは周子を放し巧みに一歩離れると、涼しげに周子とカズマの様子を交互に見た。やれやれと軽く腰に手を掛け、静観を決め込んだ、と表明するその一連の仕草に、過分に艶めいた色を、わざと滲ませて。
 冷静に距離をとりながら、それでいていかにも何かあったことを匂わせるそのルシウスの態度にカズマは、かっ、と頭に血を上らせた。

「王を!」
 カズマが、怒りに肩を震わせ、周子を思いっきり怒鳴りつけた。

「王をろくでなし呼ばわりするとは、あなたしかいないだろう! 彼を玉座に据えることに私がどれほど日夜腐心しているか分からないのか! その粗野で劣悪な口と態度の、周りに与える影響を、考えろ!」

 その怒声のものすごい勢いに、びくっ! と周子は大きく飛び上がって。
 痺れるような長い沈黙、凍るような静謐があった。

「ごめん、もう言わない」
 息を止めたままの周子が、肺の中の最後の空気を吐き出すかのように小さく、謝った。
「はい、それまで!」
 ルシウスの声が終止符を打った。
「だがルシウス!」
「おだまり」
 カズマの言葉を、ぴしゃりとルシウスは遮る。
「ルシウス、王をろくでなし呼ばわりするなどあなたも迎合するに程がある、周子はあなたに一体何をけしかけた」
 御し難い激情に駆られそのやり場も知れぬまま、張り詰めた糸が切れたかのようにカズマはベッドに仰向けに倒れこんだ。どさりと湿気った音がする。
「ふむ、面白いところへ怒りの矛先を向けたね。これはわざと? いや、お前は実は気づいていないのかね?」
「余計な手出しは無用だ」
「ああ、なんだ。知ってはいるのですね」
 ルシウスは目を細めて頷くと、一人深刻な、それでいてひどく冷静な表情で、カズマの顔を覗き込む。
 長く白い指先でタオルを氷水に浸して絞り、その額にのせた。
「熱が上がりましたね。シルフィーに聞きましたが、ブルーピクシーには毒があるそうです。お前はずいぶん噛まれたようですからね、辛いでしょう」

 触れるな、と邪険にその手を払って、カズマが顔を背けた。

 ルシウスはやれやれ、と一つ息を吐いて。
 カズマにガッツリと叱られて、所在なげに床に座り込んだままの周子のそばに屈むと、ルシウスはその手に緑に輝く石を握らせた。
 周子が驚いた表情をしてそれを見る。
「緑癒石……」
 癒しの力を持つ魔石である。そのあでやかな緑色は貴石のように美しいが、無論、常人が持つ類の石ではない。
「シルフィーがくれました。使うようにと。あなたも数箇所噛まれているはずだ、体がだるいのはその所為? 辛いのではないですか?」
 周子はルシウスの手にその魔石を押し戻した。
「私には無用だわ、このぐらい、屁でもない」
「屁でも!?」
 たちまちルシウスが目を丸くした。
「その言葉、よいですね! 本当に気の強い。美しい魂だ。だが、うん、カズマに叱られたのは、どうやら堪えたようね。あの子にあの勢いで怒鳴られたのは初めてかね? あの子が感情に任せて怒鳴るだなんて滅多に無いね、うん、私も初めてだ、実にいい。実に楽しい。そうです、私はカズマの、こんな可愛らしい表情が見たかったのですよ、むしろあなたに礼を言おう」
 周子はあきれたようにルシウスを見上げた。

「……あなた、すっごく性格が悪い」
「はは。思慮深いんです」

 どこかで聞いた台詞だ、と、そこに強烈な血のつながりを感じた。カズマも長ずればルシウスのように、つかみ所の無い、だが狙いを定めて確実に急所に噛み付いてくる、狡猾な蛇のような男になるのだろうかと思うと、知れず毛が太った。
「ですが、カズマは普通の人間です。噛まれている箇所もどうやら多い。相当に辛いはずです」
「解毒の呪文も唱えたのに……何でだろう。効いてないのかな」
 不安そうな周子の呟きにひとつ頷いて。
「それだけ沢山噛まれたという事ですよ」
「もいっぺん唱えてみ……」
 ルシウスは印を結びかけた周子の手を上から軽く握って微笑む。
「おっと、呪文よりもこちらのほうがはるかに手っ取り早い。あなたは実はかなり疲れている、魔力切れかね? ええ、そうでしょう?」
 ―――魔力、切れ?
 この男にこうもたやすく言い当てられるのは本当に気味が悪い、と改めて思った。
 すぐに首を横に振る。
「む、無理、無理ですって」
 にわかに赤面した周子にルシウスは余裕たっぷりににっこりと微笑む。
「寝ている今なら良いではないか。というより、ほら、ごらん、気を失っているといった方が適当だ。相当に辛いはずです。シルフィーに聞いたところ、ブルーピクシーにひと噛みされれば、普通の人間は軽く一週間は寝込むそうですよ。ひょっとしてあなたはカズマをこんな状態で一週間も放っておくつもり? 沢山噛まれてますから一週間ではきかぬかも知れませんよ。いくら丈夫なカズマでも、持つかしら?」
 完璧なルシウスの論理に、うぐ、と周子は短くうめいて。
 困惑に震える腕でルシウスの薄い胸板を押しやった。
「……じゃ、出て行ってください」
「なんだ、よいじゃないの」
 ルシウスは軽く両腕を広げ、小首を傾げると、周子を促した。

「まだ一度も見たことが無いんだ、ねぇ、頼みますよ」

 銀髪がさらさらと音を立てた。麗々しい眉をきゅっと寄せてお願いされて。ルシウスが美しさというものの、その行使の仕方と威力とを存分に知り尽くした男であり、そして、逆らえぬ圧力がそこにあることを周子は知った。この男、見た目の麗々しさに騙されるとこっちが煮え湯を飲まされる破目になるに違いない類の男だ。
「……あなた、本当に素で性格が悪い。何処まで本気か分からないわ」
「どこも本気さ。何処を切っても」
 さらに威圧感ある微笑で以って促され、しぶしぶ周子は頷くと、呪文を唱え緑癒石を口に含んだ。
 口中でふっと溶けるように石の形が失せ、あたたかな癒しの気に変わる。
 そうしてカズマに口付けると、そっと静かにその気を送り込んだ。
 淡い緑の光が周子とカズマとを包む、その幻想的な光景にルシウスは満足そうに目を細めた。

 ややして、カズマに覆い被さるようにして手をついていたその枕元から上体を起こし、おどおどと目を泳がせた周子に、ルシウスはさっぱりとした声を掛けた。
「さて、食事にしましょう。あなたには精をつけていただかないと。魔力の回復は必須ですからね。邪魔なカズマもこれで幸いぐっすりですし、あなたを連れ出しても文句を言う者はいない。実に良いタイミングです……さてと、私のほうから、いろいろとお願いがあるのですよ」

「お願い?」

 周子は瞬間的にいやだな、と思った。この男とは拘わらないほうが良い。なんだか、怖い。直感だ。
 カズマがこんな状態になったのさえ、この男の所業によるもののような気が、唐突に、した。 周子はカズマのシーツをそっと握った。
 怖かった。カズマに今すぐ起きて欲しかった。
「お願い、ですよ。……ほう、イヤそうですね、私のことは好かぬかね? では、こう言えば態度を変えるかしら?」
 ルシウスは、軽く首を傾げると悠然と微笑んだ。

「私が、あなたがお探しの、ロレンス、だと申し上げたら」

 周子の瞳孔が開いた。
「うそ……」
 長い銀髪に灰色の瞳、ひょろりとした柳の如き肉薄な長身……目の前のルシウスを注視し、周子はかすれた声で反論した。
「だってロレンスは黒目黒髪だもの……うそよ」
 ルシウスは非妥協的にして峻厳たる表情になると、正面から真っ直ぐに周子を見つめた。
「時が遷れば姿形は変わる、これ世の常識。たった一度会ったきりの、その曖昧な記憶を固持するとでも言い張るつもり? ましてや、時を越えたあなたと違って、私は確かに五百年という年月を過ごしたのです、どれほど私の姿形が変わったとしてもおかしくは無い。外見に惑わされるでないよ」
 そして、微笑む。
 ルシウスの微笑みは、何処までも深い。
 封印の書の裡なる深淵、底知れぬ闇たるものを彷彿させた。
「でも! でも違う!」
 周子は頑なに首を横に振った。
 あなたはロレンスじゃない、と言う周子に、さすがはタチバナ、まったくもって強情な娘ですね、とルシウスは感心したような呆れたような、凄みのある笑みを浮かべた。
「まったくあなたは無知だね。魔力は強いしセンスもいい。だが、致命的に経験値が低い。世間知らずだ。ちなみに、緑癒石を魔力の無い普通の人間に使ったことはあるかね? その石の持つ強烈な癒しの効果を受け入れたら、カズマのような普通の人間はどうなるか、知らぬのかね? さてさて、魔力の強いあなたと違って、軽く三日は眠るということを知っているかしら?」
「えっ!」
 周子はベッドの上のカズマを振り返った。慌ててその肩を揺する。
 カズマはくたくたと力なく揺れるばかりで。
「カ、カズマ様っ!」
「無駄です、さ、いらっしゃい」
 ルシウスはさっぱりと、だが、有無を言わさぬ強い威圧感で周子を促した。

「無知たることの戒めを、あなたは刻むべきだ」


[tog]82:悪魔よりも狡猾な男 [2007/04/04]
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