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「西銀座デパートチャンスセンター」/中編

「あなた、うちの主人とどういう関係なんですか!」
 度重なる無言電話の挙句に、そんな女の声が受話器の向こうから聞こえてきた。
 だれだ?と思いつつ、思い当たる節もあって、内心ちっ、と舌打ちする。
 窓際のカーテンレールに、クリーニング屋の針金ハンガーに通した男の背広が掛かっている。仕立ての良いスーツだが、針金ハンガーに掛けられ広い肩幅の両肩がそれぞれひとつ分、落ちている。
 それを見て、無様だな、と思った。
 あの男はこんな針金ハンガーにではなく、ちゃんと肩幅にあったものにスーツを通すべきだ。
 潮時だ。
「会社の上司でそれ以上も何もございません!」
 面倒だ、と思った。そう言い切って、受話器を置いた。電話番号がばれれば、きっと押しかけてくるだろう。君とはまるで正反対の女、と言ったからにはきっとココに押しかけてくるに違いない。
 祥子はGジャンを一枚羽織ると携帯と財布だけ持って寒空の下へ飛び出した。

 きっかけは、些細なことだった。

 会社の上司だった。
 いい仕事をする、社内でも一番の、バリバリの稼ぎ手だった。
 たまには飲みに行こう、と同僚を交え、五人で飲みに行って。
 テーブルの下で手が触れた。そして、握られた。
 誰にも気づかれないまま、テーブルの下で、ずっと手を握られていた。同僚を前に、気づかれそうで意外と気づかれない、なんともドキドキした。

 なかなか素敵なアプローチだ、と思った。
 もともと社内でも好きな上司ナンバーワンだった、決して悪い気はしなかった。

 飲み会がお開きになって。
 もう電車も無いから!と言って、彼は他の同僚をたくみにタクシーに乗せた。

 残ったのは、私と、彼だけだった。
 その手腕が鮮やかで、面白かった。

 そうまでするには、やはり理由があるだろう、と思った。
 この男と寝てもいい、と思った。

 男の名は、境という。
 普通の会社員だが、昨年の年収、一千五百万、と聞く。
 うちの会社では、社長の次に高給取りだ。実際それに見合うだけのいい仕事をしている、男として良い具合に仕事の脂ののった男だった。
 直属の上司でもあり、その仕事ぶりに、祥子は惚れていた。できる男の、仕事フェロモンと言うやつが、やたらと出ていた。境はきっともてるだろうな、と祥子はどこか憧れに近い感情を持っていた。
 キッチリ仕事をして、週の大半は定時に帰る。納期に対して、スケジューリングが完璧なのだ。自分の実力をよく把握しているのだ。
 素敵なだんなさん、だった。
 聞けば、四歳と六歳のお子さんがいるという。先月は会社の保養所を使って、家族サービスしてたとかなんとか、そんな話を保養所の予約の手続きをした事務のお姉さんが言っていた。家を建てるつもりで頭金を貯めてるんだそうだとかそんな噂も耳にしていた。それは、もう、ツッコミどころもない、いい旦那さんでいいお父さんでいい男だろう。

 そんなイイオトコに誘われれば、寝るだろう。
 なまじ良い家庭を築いているからこそ、さくっと割り切って楽しめるのだろう、と祥子は思った。
 だが、寝なかった。
 同僚を乗せた最後のタクシーを見送って。すこし歩こうか、と境は言った。交差点の向こうに見えるラブホテル街には、全然行きそうな気配が無かった。

 正直、期待はしていた。だが、誘われれば応じるが、そうでなければ敢えて祥子の方から押し切る気もまた無かった。
 確かに、イイオトコだな、とは思う。だが、妻子のある男にわざわざ手を出すほど、こう、世間で言うところの不倫にあたるものにあえて手を出すほど、奪いたいと思うほど、幸せ四人家族とやらを壊すほど、そんな熱は祥子の何処にも無かった。あえて自分の方から浮気を申し出、不倫の片棒を担ぐ気は無かった。

 散歩しながらいろいろ雑談をしたが、取り立てて色めいた話にはならなかった。何度か、そこに、好きだという言葉は混ぜ込まれてはきたが、妻子持ちの男のそんな言葉にぼうっとなるほどには、祥子は子供ではなかった。むしろホテルに行こうとストレートに言われた方がよほどすっきりすると思った。そう言わないところを見ると、案外小心者なのだなと思った。所詮は奥さんが恐くて浮気には踏み切れないのだろう、と思った。
「いやあ、でも、結婚なさってるんですし、ヘンなこと言ってないで奥さんの所へ戻った方がいいですよ」
 祥子は好きだと告白する境の言葉をあっさりと流した。
「私、今年の新人社員ですし、直属の上司が手をつけたら、それはマズいでしょう」
 と釘をさしておいた。
 結局ホテルへは行かずじまいで、朝方までぶらぶらと散歩をして、始発の電車が走る頃、街角で別れた。祥子は、動き出した電車でいったん自宅へ戻って着替えると、いつもどおり出社した。一日、普通に仕事をした。仕事を終えて帰宅して。コンビニで買って帰った弁当を食べていると、電話が鳴った。
 境だった。
 近くにいるというので、とりあえず外へ出ると、道路の向こう側で、境が手を振った。いつものビジネス鞄のほかに、駅のキオスクで売ってるようなビニールの上張りの紙袋を一つ、下げている。聞けば、その中身は、着替えだと言う。
「どうしたんですか?」
「泊めて」
 何考えてるんだこいつ、とは思ったが、帰れ、とは言わなかった。いまいますぐに帰る気はなさそうだったが、かといってずっと家出をするようないで立ちでもなかった。断れば、このまま会社にでも泊まりそうな感じだった。そして、二、三日もすれば、自宅へ戻るような感じだった。
 家を、出てくるには何か理由があるのだろう、と思った。

 境はそっけない感じで、転がり込んできた。そっけない、というよりも、そう、むしろ疲れているようだった。確かに仕事のできるイイオトコなのだが、恋愛、と言う言葉は、なぜかそのときアタマに浮かばなかった。怪我をした動物でも拾ってしまったかのような気分だった。疲れたような境のカオを見て、このぐらいの年の男になると、なんだかいろいろありそうだな、とつい同情したのだった。
「なんか食べますか?残り物で良ければ何か作りますけど?」
「いいの?」
 自分はコンビニの弁当だった。だが、コンビニで何か買ってきますか、と言うにはどうにも味気ないような気がして、何か火の通った食事を与えてやりたくて、祥子は冷蔵庫を覗き込んだ。
「あー……っと、焼きそばなら、作れそうです」
「いいね」
 境は祥子の作った焼きそばを旨そうに食べた。祥子は冷蔵庫の中に残っていた発泡酒を一本、つけてやった。こないだ泊まっていった女友達が置いていったものだった。

 もう、なんだか息が詰まりそうで、家には帰りたくなかったんだ、とその夜、境は独白した。
 その夜、求められてセックスした後、祥子は境に言った。
「やー、でも私、彼氏いますからね。家出も、気が済んだら奥さんの所へ戻った方がいいですよ、どうぞ気が向いたらお帰りください。せっかく家庭があるんだから、戻れるなら早いうちに戻っといた方がいいと思いますよ」
 祥子は本気でそう思っていた。
 もともと、好きな上司だ、だから、好きではある、だが、抱かれたからといって取り立てて特別な男女の情があるわけでもない。子供がいて、奥さんがいて、仕事も評価されていて、社会的にも成功していて、お金もあって、特にわざわざ何をもめろというのだろう、と思った。
 境が、深い男女の愛憎不倫劇ではなく、ちょっとした息抜きを求めているのだと分かっていた。誰にでも、そんなひと時を望むことがあるだろうと思ったからこそ、祥子は応じた。
 恋とも愛情とも違うが、息抜きを求める境が、なんだか愛しかった。
 何処か、目に見えぬ何かに酷く打ちのめされたような、日常の生活に息苦しさを覚えるような、上手く言葉にならぬものを胸に詰めたような、そんな境を、同じ生き物として、どうにも何とかしてやりたいようないたわってやりたいようなそんな感じがしたのだった。
「君は、さっぱりしているな」
「ほんと。それでよくもめます。彼氏がしつこいんですよ」
「……彼氏くんには、悪いことをしたかな?」
「いいえ全然」
 祥子の彼氏は福岡にいた。彼氏ともどうせ別れる気配が濃厚だった。祥子の方から別れ話を切り出してはや一ヶ月になっていたがまだ完全に切れたわけではなかった。なんとかやり直せないか、とこの一ヶ月、なんども電話があった。
 境と初めて寝たその夜にも彼氏から電話があり、祥子はもう二度と掛けてこないで、とキッパリ言った。
「別に、境さんとは関係ないですからね」
 別れる間際に二股をかけるような気は祥子は全然無かった。むろん、その後釜に境を据えようなどとはつゆ思っていなかった。

 ぴたりと趣味が合うわけでもない、のめりこむようにセックスするわけでもない。ただ、朝起きて、会社に行って仕事して帰ってきて食事をとって、寝て。同居人、に近い印象だった。

 境は、会社から戻ってくると、ぼうっとテレビを眺めていることが好きなようだった。祥子はテレビを見るより本を読むほうが好きだったので、部屋の隅、いつもの定位置で本を読んでいた。そういった点では、境の存在は祥子にとっては負担ではなかった。同僚にばれないよう、時間差で出社していたし、職場では普通に親しくしていたし、仕事上でなにか齟齬が生まれるわけでもなかった。仕事が終わって、同じ部屋に戻ってくる、そのこと以外では、今までと何ら変わりがなかった。
 洗う茶碗が一人分増えたり、洗濯機を毎日回したり、そんな違いは生じたが。
 かといって祥子にとっては一人分も二人分もそう大差はなかった。
「ご飯作るのだって、お茶碗洗うのだって、洗濯だって、お風呂掃除だって、一人で暮らしていたって必ずすることですよ?もともと、自分のためにやってることですから、別に、それが一人分増えたってすることには変わりないですよ?」
 いやあ、確かに洗濯板で一枚一枚洗濯しなきゃならないんならそれは大変でしょうけど、洗濯機に突っ込めばそれで終わりですし、と言って祥子は笑う。
「だが、それを、”やってやってる”と言い張る人間もいるんだ」
 十年近くも夫婦でいるとそのあたりの遠慮が互いになくなるらしい。そして、その互いの遠慮の無さに気づかずに互いに腹を立てるらしい。境はできるうる限りは自分が折れたそうなのだが、やはりどうにも我慢が出来なくなったらしい。
 境は妻と上手く行かない様子を話すが、祥子は適当に聞き流した。
 片方からだけ聞いたって、それに同情したってただ無闇に熱くなるだけだ。両方から聞いたって、所詮は当事者ではないのだから、肝心の部分なぞ、結局は祥子にはわからないのだ。聞くだけ無駄だし、考えるだけ無駄だし、口を出すなどおこがましい。
 どれほど言葉を重ねようと、本来言い得ることではないことをわざわざ口に出して議論しても何にもならないと祥子は思う。
 そのあたり、祥子は実家の、母と祖母との嫁と姑との争いで既に存分に知っていた。
 互いに善意も悪意も持っていて。
 どちらか一方が悪いわけでもなく、だが話を聞けば明らかに向こうが悪いと聞こえる。
 互いが互いにひどい仕打ちをされたと訴える。
 今はもう亡き祖母だが、言っても始まらないことをうだうだと繰り返す議論の不毛さを、長いこと祥子は目の当たりにし、そういったものはすべて不問にすべきだと、人生の教訓めいたものとして、教わったのだった。

 だから別に、境がどう奥さんともめようと、仲直りしようと、祥子にとっては大した事ではなかった。
 むしろ、祥子は境とはいつ別れても全然かまわなかった。
そもそも、別れるというより、付き合ってるのかどうかさえ、祥子は不明だと思っている。

* * * * *

 境が一人暮らしの祥子のもとに転がり込んできて、一週間ほど経っていた。この一週間の間に、境は一度自宅マンションに戻り、着替えと金を持ち出してきたらしかった。

 日曜だった。境は休日出勤、祥子は一人家で本を読んでのんびり過ごしていた。
 そこへ、電話が掛かってきた。険のある女の声だった。最初冷静を装っていたその声は、祥子が夫の浮気の相手だと察すると、みるみるうちに感情的な声に変わった。感情的な声高の罵声、鬱々とした恨み言、そして、あきらかな憎悪が滲んでいた。その声には、他所の女に夫を取られた、といった憎しみがあった。耳を当てた受話器から金属の鉤手でも出てきて脳みそをかき回さんとされるかのような不快さだった。
 そんなに好きなら、大事な夫なら、もっと早いうちにそう伝えて仲良く暮らせばよかったではないか、いや、その気ならばそれはいまからでも間に合うだろう、と祥子は思いつつ、恐くなって受話器を置いた。
 包丁でも持って押しかけてきそうな感じだったので、たまらず祥子は自宅を飛び出した。
 自宅の電話番号が知れるのは、やはりなんとも気味が悪い。
 恵比寿まで出て、恵比寿ガーデンプレイスで本屋や雑貨屋をうろついた後、ファストフードで食べたくも無いポテトを齧りつつ、コーヒーを飲んだ。
 そうしてしばらく時間を潰していると携帯が鳴った。
「君……会社の上司だって、言ったのか」
「あ、言っちゃった」
 何処にいる?と聞くので、押しかけてきそうだったので、いま恵比寿でお茶してます、と答えた。
 ガーデンプレイスで少しゆっくり、映画でも見てから帰りますね、と言うと、すぐにそっちに行く、と言われて携帯が切れた。

「不味いこと言ってくれたね」
 わざわざ恵比寿にまで出向いてきて言った境の、一番最初の言葉はこれだった。
 寒空の下、二人はベンチに腰掛けた。
 向こうは今の今まで他愛ない飲み屋の女かなんかだと思ってたみたいだ、と境は真顔で言う。
 聞けば、夫の携帯の料金明細書の通話記録の番号から手繰ってきたのだという。通話記録を見る限り、一番掛けた番号が多いのが、祥子の部屋の電話番号だったらしい。疑心暗鬼で掛けると、女の声が出たので、奥さんはビンゴしたと思ったようだった。
 そこへ祥子が同じ会社の人間だとついうっかり返したものだから、奥さんは茫然自失の上、瞬く間に逆上し、境の携帯にものすごい勢いで怒鳴り込んできたという。それは確かに、想像すると、恐ろしかった。
「あ、でもいいじゃないですか、別に。奥さんずいぶん気に病んでるみたいですし、潮時ではないですか?」
 祥子は、自分は別に飲み屋の女と変わりが無い、いや、飲み屋の女だって本気のときはとことんそれこそ本気だろう、会社の部下との不倫が飲み屋の女とのそれよりも上等だとは到底言えない、それは明らかに偏見だ、と境に言った。相手の女のステータスで、そんなことで余計に逆上するなんて、なんとまあショボイですね、とつい、言った。
 最後の一言は、祥子のガラにもなく、つい、少々感情的になった。飲み屋の女の不倫でも何でもとにかく本気な愛とかそんなものに失礼だと思ったのだった。
 境は、たっぷりと沈黙した。
「ほんとに、君は、さっぱりしているんだね」
「もう、帰ったらどうですか?ほんとに私、怒りませんよ?」
「……私のことは、嫌いかね?」
 そう呟いて、顔を覗き込んできた境に、祥子はまっすぐに返した。
「特に嫌いでも……すいません、こう、なんかいわゆる不倫にかけるような情熱も、生憎感じないんですけど……束縛とか?嫉妬とか?ない、ですね」
 境は、はは、と乾いた笑いを一つ吐いてスーツの胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。昔はヘビースモーカーだった、そして、子供が生まれたとき、キッパリ煙草をやめたと聞いたことがある。社内ではちょっとした美談だった。
 気を、紛らわすのにちょうどいいんだよ、そう言って境はここ最近再び煙草を吸うようになっていた。
「……気が、抜けるね、なんだか」
「楽でいいじゃないんですか」
「……本心なの?君のその言葉」
「ホントにそう思ってます」
 しばらく黙ってから、境は呟いた。
「ある意味、とても、恐いもの知らずだね」
 祥子は首をかしげた。
 恵比寿で食事をして、そのまま祥子の部屋には戻らず、ホテルに泊まった。ラブホテルだった。境とホテルに泊まったのは、実はそれが初めてだった。
「張り込んでるかも知れないから」
 と境は力なく言った。何処か、申し訳なさそうだった。申し訳なさそうな割に、結構力強く求めてきた。

 次の日、ラブホテルからそのまま会社に出勤して。仕事を終えると夜には祥子は自分の部屋に戻ってきた。奥さんが祥子のもとに押しかけてくるという事態は境はなんとか避けたらしい。
 聞けば、境はもはや話の通じなくなった逆上奥さんを説得するべく、第三者として自分たちの仲人であった人物を頼ったという。
 仲人というものが、縁切りをするにも相応しい第三者であるとは、祥子は初めて知った。

* * * * *

 それからまたしばらく日が経って。会社から帰って祥子がキッチンで夕飯を作っていると、境がふらふらと、寄って来た。
 手に、携帯を持っている。コートを着ている。つい先ほどまで、外で奥さんと話をしていたらしい。さんざん言葉を尽くしてそれでも言い負かせなかったかのような、会話に憔悴しきったような表情をしていた。
 境が外に出る前、部屋の中で鳴った携帯の向こうから、けっこうな感情的な罵声が祥子にまで聞こえていた。
 あえて聞きはしなかったが、どうやら話は離婚云々に及んでいるらしい。なんだか大変そうだな、と思った。だが当事者同士で好きに話をつけてくれればそれでいい、と祥子は思った。
 だが、境はぞっとするようなことを言った。
「君込みで、三人で膝突き合わせて話がしたいんだと」
「は?」
 境は、奥さんからの要求を手短に祥子に伝えた。つまりは、夫とその不倫相手を目の前に引きずり出し、ことの発端や経緯やどういうつもりかを問い正したい、と言うのである。どうやら祥子は夫を奪った泥棒猫になっているらしかった。
 たぶん、境もそれほどにはかばわなかったのだろうと知る。何を言っても人の話を聞かない女だから、と奥さんのことを評していたが。果たして、どのあたりまで誠意を持って奥さんと話したのか、祥子は関知していない。
「君のことは関係がない、と何度も言ったんだが」
 境はがっくりと肩を落とした。
「とにかく、浮気をしているんだろう、の一点張りで。浮気相手も連れてきて謝罪をさせろと言って聞かないんだ」
「謝罪、ですか……」
 何を、と言う言葉を、祥子は飲んだ。
 仮に夫婦関係が既に崩壊していたとして、だが正式に離婚する前に他の女の所に転がり込んでいては、断然男のほうが、分が悪い。
 浮気が、離婚の原因だというのだ。
 まあ、そういわれてみればそうだと思った。順番が違う、と言っても到底聞き入れてはもらえぬだろう。多少の心のすれ違いは、浮気と言う事実で、見事に奥さんの立場を有利にしたらしかった。
 私には関係が無い、当人同士で話をつけるべきだ、と祥子は思ったが、どうにも客観的に祥子は当事者、しかも悪意の当事者として役割を振られているようだった。
 いやです、とは言ったものの、境に頭を下げられてしまった。
 なんとまあ、情けないことか、と祥子は思った。
 もう少し、護ってはくれぬものか、ずるい男だなと思ったが、仕方ないかもしれないと思った。言葉をあきらめる時だって、あるものだ。
 境は、相当に憔悴していた。祥子がここで責めては一層哀れだった。それこそ完全に逃げ場を断つようで、可哀想だった。

* * * * *

 それで結局、境に、彼の自宅マンションに連れて行かれ、祥子は見知らぬ、だが生活感のある部屋で奥さんとそのご両親とに詰られた挙句、慰謝料支払いの誓約書をその場で書かされた。
 祥子は、百万なら、出せます、と言った。
 貯金は八十六万しかなかった。クレジットカードのキャッシング枠は二十万あった。祥子は頭の中でそれを足した。就職して間もないのでそれで精一杯です、許してください、と言った。済みませんでした、と言葉を付け加えた。
 抗う術は無かった。
 他に言葉を吐けば、それがどんな言葉であれ、奥さんの感情を逆なでするのは分かっていた。
 そもそも、境には、
「何も言わずに黙って座っていてくれ」
 と言われていた。そして、あえて口を開くのなら、謝罪の言葉を、とあらかじめ言われていた。
 つまりは、くれぐれもコトをややこしくしないでくれ、ということだった。
 さすがに、どうして謝る必要があるのか、あまりにも割を食ってる、と祥子は怒りを覚えたが、もはや祥子が文句を言っても始まらない所に来てはいた。それもわかっていたので、祥子はあえて言わなかった。
 境を責めてしょうがないことくらい、分かっていたからだ。

 奥さんは、ぐう、と唸った。
 祥子が二十三の若い女にしては存外のまとまった慰謝料を提示したのと、言い訳も文句の一つも言わなかったのとで、二の句が告げなかったようだった。その話し合いの場には、仲人が立ち会っていた。仲人は最後に、本当にもう戻る気は無いかね、と境に聞いた。
「奥さんは、できることなら、やり直したいといっているのだがね?」
 ないです、やけにキッパリと境は答えた。
 奥さんはもういいわ!と声高に叫んで、大騒ぎして泣いた。

 アナタが私たちの家庭を壊したのよ!と奥さんは泣いたのだが、祥子には全然そんな実感が無い。求められればセックスもしたが、たかが奥さん以外の女とちょっと寝ただけで、夫婦というものは家庭というものは壊れるものだろうか。
 そもそも夫が出て行く理由を考えたことがあるのだろうか。浮気云々の前に、むしろその前に破綻していたのだと、思い至らないのはなぜだろう。
 だがしかし、まあ、実際のところ、境と奥さんとの間に何があったのかは知らないし、たとえ双方からの言い分を聞いても、当事者ではない祥子はやはり本当の所はわからないだろう。
 別に、分かる必要も無い。
 夫婦のことに、祥子が、口を出すべきことではないと思う。そう思って、もう祥子は何も言わなかった。不当に金をむしられた、といったそんな痛みが胸にある程度で。謝罪の一つや二つ、それらしく振舞うことなぞ、思えばたいしたことでもない。自分は間違っていないと思うから、奥さんのきつい詰りも、何処か許せたのだった。
 もう十分だったのだが、帰り際には父親に泣きすがる二人の幼い子供、というものまで見せられてしまった。
 祥子は、これにはかなり、閉口した。
 どうにも祥子がお父さんを奪った悪女だった。子供達はきっと大きくなっても祥子のそんな印象を忘れないだろうと思う。奥さんは、最後の最後まで手厳しかった。引きずり出した祥子を無傷で帰すつもりはまるで無いようだった。

 帰りの電車で、シートに隣同士に座り、祥子は、ちょうどいい理由が隣に座っていてくれて良かったね、と境に、心の中で言った。投げやりな気分だった。利用されたことに傷ついたが、境はそんな祥子の気持ちを慮れないほどに、いっぱいいっぱいなようだった。
 そのときの境との会話は覚えていないが、何か酷く自己中心的な印象だけが残っている。境は、終始、自分のことだけ考えているかのようだった。
 ほとんどすっかりあきらめて、離婚というのは、どうにもこうにも大変なことなのだな、と祥子は思った。もともとは境のその性質は、よく気のつく、心配りの行き届く、優しい良い上司である。十年近く連れ添った夫婦である、いまさら別れるとは、部外者には量れぬ大変さがあるのだろう。だから、祥子は境のそんな気遣いのなさも仕方ないか、と思った。
 あれこれ言っても、仕方が無い。
 言うべきことでないことを言ってもどうにもならない。
 祥子はすっかりいやになりつつも自分にそう言い聞かせ、帰りの電車の中で沈黙を保った。

 電車が最寄駅に着く頃には、祥子も境も、気持ちが大分落ち着いたようだった。張り詰めたような気が、次第に溶けてゆくのをお互いに感じていた。帰りの電車を降り際に、祥子の口から出たのは、こんな呟きだった。
「ボーナス、消えました」
「悪いね」
 そっけない言葉だった。当人は一仕事終えてほっとしているようだった。
「どうにも怒る気になれません」
 へんな気分だった。
 どうして境を一人の男として詰る言葉が自分の口から出なかったのか。つい、消えたボーナスのことが口から出たのだ。口座に振り込まれたばかりの、生まれて初めてのボーナスが、不倫相手の奥さんへの慰謝料となって消えた。
「妻と別れるのは、別に、君のせいではないから」
 そりゃアそうでしょう、と祥子は返した。確かにそうだろう、だがさんざん巻き込んでおいて何を言うのかと思いつつ、どうにも笑えてしまった。
「なんかタイミングがとても悪いですね」
 境はちょっとビックリしたように祥子を見た。そして、君は面白いね、と軽く笑った。
 祥子はなんとも脱力していて、はて、一体自分は誰を何を責めたらよいのだろうか、と思ってしまうほどだった。
 駅を出て、道を歩いて、さほど交わす言葉もないままに祥子の部屋に戻って。
 疲れたな、と呟いて座ると、境は煙草を一服吸った。祥子はキッチンで水を一杯飲んだ。
「別れましょうか」
 しばらくして、祥子は大人しく声を掛けた。ぴた、と境の煙草を挟んだ手が止まった。一拍の後、境は煙草を灰皿に押し付けると、すっくと立ち、キッチンの祥子の所まで歩いてきた。
 手を、引かれた。
 力強く抱きしめられた。
 そのまま押し倒されて、抱かれた。
 ビックリする祥子を、今までに無いほどの激しさで、境は抱いた。

* * * * *

 そんなある日、祥子は出勤途中に、電車を下りて階段を上っているときに唐突に具合が悪くなった。本当に唐突で、ずしいんと両肩が重い感じで、胸が苦しくて吐き気がして。その感じは、なにか良くない霊に憑かれた時のそれに似ていた。大学二年の夏、友人数人と行った墓場での胆試しのときに、それは一度経験があった。もう二度と、面白半分で胆試しはすまいと誓った、ぞっとするような感覚だった。
 会社に着くなり、トイレに駆け込んで、吐いた。
 とにかく体がだるかった。気持ちが悪かった。 風邪を引いたと思った。胃が、焼けるように痛かった。わけのわからぬ離婚騒ぎに巻き込まれて、多少なりともストレスがあったのかと思った。
 仕事中であろうと、気分が悪くなる。空腹でも、吐き気はひどい。何気ない振りを装ってトイレへ立つ。吐く。どうにも仕事が辛い、と思ったとき、ようやく思い当たったのだ。妊娠?

 体調不良を覚えて既にかなりの時間が経っていた。
 確かに、生理も来ていなかった。
 だがそれは、境の離婚のごたごたに巻き込まれたストレスと、そして年末の仕事の忙しさゆえだとばかり思っていた。
 その日の帰り、薬局に寄って妊娠検査薬を買って試してみた。判定、ブルー。
 気分もブルー。
 怖くて、境に言う前に、検査スティックを捨ててしまった。

 なんで?そんなに寝たわけじゃないのに、とそんな他人事のようなことを考えて、祥子は境と寝た回数を数えた。彼氏とのよりも、はるかに少ない。だが、彼氏との間に思い当たる節は無い。
 参ったナァ、と思った。
 境には言えなかった。
 離婚調停は、なかなか難航しているようだった。
 境の子供の泣き顔が思い浮かぶ。元の鞘に収まってくれまいか、と祥子は、思う。いっそ、そのほうがずっとすっきりする。
 祥子は別に、境が欲しいわけではなかった。男として、取り立てて愛しいというわけでもない。終始、境へ対する気持ちにはあまり熱が無かった。ただ、境がなにか言葉に出来ぬものに酷く打ちのめされていて、それをなんとかしてやりたいとそんな風に思っただけだった。
 怪我をして迷い込んできたイヌのように、ほっとけなかった。帰るべきところのある、名札のついた迷子犬のように、戻るだけの体力がつけば、おのずと戻ってくれればそれでいい、と思っていた。
 自分の内に境の子供が出来たことを知っても、それは変わらなかった。
 ぼんやりと、カーテンレールに掛かった境の替えの背広を見る。祥子の六畳のワンルームのマンションには、男の肩幅に合ったハンガーが無い。これ以上掛けておいては仕立ての良い境のスーツも肩がすっかり抜けてしまうだろう。
 祥子はやはり、境は奥さんと元の鞘に戻った方が幸せだろうと思った。誰にだって、気の迷いはある。そしてそれを悟れば正すことだって出来るのだと祥子は思っていた。境がそれを選択しても責める気はなく、むしろ、奥さんの取り乱し様や小さな子供達のことを思えば一層そうして欲しいと思った。
 野生動物を保護した場合は、怪我が治れば半ば無理やりにでも強引に、元の環境に戻すのだろうが。境は、どうであろう。当人がいやだと言っている以上、たとえその方が良かれと思っても、その尻を蹴飛ばし部屋を叩き出すのは無理だろうか。この場合、親切とか優しさといったものはどちらの手段を用いてあらわすべきなのだろうか、祥子は思った。
 境が、自分に気を使って一緒にいるとは祥子は思いたくなかった。境には、遠慮なく、奥さんの下へ戻ってもらいたかった。いい夢を見たと、いや、祥子としては百歩譲って、悪い夢を見ていたと、そんな苦笑いでも浮かべつつ、元の鞘に収まって、年をとってから奥さんとそんなこともあったかなと笑って欲しかった。そのほうがよほど境に似合うと思った。
 いまはなんだかこんなに酷く憔悴しているが、元は、良い男なのだ。祥子はそんな良い男の境を、たしか好きだったのだ。

* * * * *

 昼休みにお昼ご飯を食べた、食べたと言うより、注文して、ほんの一寸手をつけただけだ。吐き気がひどい。仕事が忙しいとはいえ、この体調の悪さはもはや無視できなかった。
 仕事が忙しい、と、このごろ祥子は境よりも早く家を出る。朝、途中で何度も電車を下りて休み休みしつつ、吐き気をごまかし、かろうじて会社には通勤しているが、その実、つわりが酷くて本当のところ、あまり出歩けはしない。
 会社の近所のサテンのタウンページで自宅近くの産婦人科を住所地番から探した。メモって公衆電話からかけ、予約を入れた。
 祥子の自宅近くのその医院は、こじんまりとした婦人科で。産婦人科だと思って行けばそこは、堕胎とホルモン治療専門の婦人科だった。そもそも産婦人科とは、祥子の年位の健康な若い女にはあまり用の無い病院である。どこの産婦人科が良いとか悪いとか、そんな知識も全くなく。とにかくあまり移動しなくて済む、自宅近くの産婦人科を選択しただけなのだが、本当にわざとではなかったのだが、そんな医院を引き当ててしまった。堕ろすにはまさにぴったりの病院だった。

「……昔は赤ちゃんを取り上げてもいたんですけれどね」
 体力的に辛くなったので、今は堕胎とホルモン治療のみを行っている、と言った。
 その個人医院の女先生は、確かに高齢ではあるが、しゃんとした、綺麗な方だった。もっとしわくちゃな年寄り産婆でも、その気があれば赤ちゃんを取り上げるだろうと思った。
 検査結果を告げられ、妊娠の説明を受け、産むのなら、転院するために必要な紹介状を書きますが、とその女先生は言った。
 お願いします、とは無論、言えない。
 はあ、と息をついた祥子の意図を、先生はすぐに察したようだった。
 もはや三ヶ月目である、堕ろすのなら来週中に連絡をするように、と先生は言う。戸惑う祥子に、すぐに決めろと、悩んでる暇は無い、とキッパリ言い渡す。
「堕胎処置には税抜で、およそ三十四万円かかりますよ」
とはっきり言って寄越した。
 思わず祥子はぴた、と固まった。
 堕胎処置が言い値だとは知らなかった。いや、個人医院だから、当然と言えば当然、それはそうなのであろうが。巷の話では、堕胎は十万から十五万くらいだと聞いていた。あまりに差がありすぎる。ひょっとすると、産んだ方が、安い。その後にかかる費用は別として。
 祥子は、つい、なぜそんなに高いのかと聞いた。先生は綺麗な顔で、ちょっと嫌そうな顔をした。
 ああこの人、堕胎するなら他所へ行けと言っているのだな、と分かった。
 安易に堕ろすな、と、きっと百万でも二百万でも、実は吹っかけたいのではないか、と祥子は思った。
 祥子は深いため息をつきつつ、それでも、ちょっと考えさせてください、と答えた。
 渡された、己の手の中の超音波写真に、堕ろします、ともその場では即答できなかった。
 先生、あんた産ます気でこの写真くれただろ、と祥子は思った。無言の意思を感じた。
 白黒の、薄っぺらい超音波写真。そこに映りこんでいるキャスパーのような姿。保健体育の教科書に載っていたような、妊娠初期の、豆粒、では無かった。
 もう、育っていた。
 アタマと、胴体と、手足がついていた。
 これをちょん切ってあそこから引きずり出すだと?
 リアルに想像して、祥子はつくづくそんな自分がいやになった。
 堕ろすときってね、中に器械が入ってきたら、子宮の中の赤ちゃんが、それでもそれから逃れようと逃げるんだってね、逃げられないのに、手とかでアッチ行けみたいな仕草をするんだってね……。
 ……真面目に性教育なんて受けるべきではなかった。
 キミタチは子供を産むことができるんだから!と高校の保健の先生は陽気だった。将来バカなことをしないためにこうキッチリ教えるんだからね!と力強く言い切って、面白おかしくいろいろな事例を説明してくれた、ビデオも沢山見せてくれた。やけにさばけた、明るい、楽しかった保健の授業を、昔はただ面白かったそれを、祥子は今更呪った。

* * * * *

「まいったね」
 そりゃア参るだろう、奥さんと離婚調停中でくたくたなのだ。別れて落ち着いた後ならともかく、その最中に妻以外の女に、赤ちゃんが出来ちゃったと言われれば、他にどう応えろというのか。その、正直な言葉が、なんとも恨めなかった。
 祥子は、携帯電話の向こうから「やりなおしたい」という奥さんの声を聞いていた。境に、帰りうるところがあるなら、そこへ帰るべきだと思っていた。自分でも、おかしな位に、こだわりが無かった。
「堕ろすべきだとわかってますから」
 そんな言葉が口を出る。
 責任とれとか何とかではなく、いまはただ、はあ、どうしようかな、と思ってます、とそんな脱力感のようなものを、祥子は境になんとか伝えた。
 境はしばらく黙って、もうちょっと先だとありがたかったんだけど、とだけ言った。
 その意図が、正直なところ祥子には全く分からなかった。
先も何もないだろう、選ぶべき方法は既に決まっているのだ、あとは自分の心の思い切りだけだ、と祥子は思った。
 食事に手をつけぬ祥子の横で、境はそれでも夕食を食べる。
なんとなくニュースを見ていた。折りしも師走、ニュースでは年末ジャンボ宝くじの発売の話をしていた。
「よし、宝くじ、買うか」
と境は言った。
「当たったら、産めばいい」
 境は、堕ろせ、とは決して迫らなかった。憎めない男だった。
 宝くじなんて、そうそう当たるわけが無いだろう。
 そのときようやく、この男は嫌い、と思った。いっそ堕ろせ、と迫られた方が、気が楽だった。
 その夜、祥子はこっそり布団の中で泣いた。
 境の中途半端な優しさが、嫌いだった。
 なぜこんな男の子を宿してしまったのか、己の迂闊さを呪った。

* * * * *

 だが、確かに、いい理由だとも思った。
 そして、その週末、祥子と境は年末ジャンボを買いに行った。
 あー、じゃあ、ちょっと買ってくる、と言うと、なぜか境も一緒に付いてきたのだ。
 向かったのは、最寄の駅前の宝くじ売り場ではない。
 祥子は新宿に住んでいた。だから銀座は遠いわけではなかったが、普段、買い物やデートで行きはするが、なにもわざわざ宝くじを買うためにそこへ行ったことは無かった。
 そんな銀座の、西銀座デパートチャンスセンターの長い列に付いて。
 妊娠十五週、つわりもひどいのにこんな寒空の中を宝くじ買いに並ぶとは、一体自分は何やってんだろう、と祥子は思った。
 列は、長かった。
 なにしろ、西銀座デパートチャンスセンターなのだ。この国で一番良く当たる、といわれる西銀座デパートチャンスセンターの、しかも、この国で最も験を担いだ窓口に並んでいるのだ。
 就職一年目で子供を産み育てるだけの金なんてない。会社に勤めて十ヶ月、社会人としてまっとうに仕事ができるわけでもなく。産んだ後に子供を抱えてそれでも食っていけるだけの仕事につけるとは到底思えなかった。
 そして、もっとも想像し難かったのは、相手のオトコに、食わせてもらおうということ。
 大体、せっかく苦労して奥さんと離婚した挙句、また女と連れそうというのは、境はむしろ悲惨ではないか?そんなのは祥子もごめんだった。
 子供は男を縛る理由になぞならない。
 いっそ境のことが好きなら、行かないでくれと、せがんだかもしれない。だが祥子はむしろ、とっとと奥さんの所へ戻ってくれ、と思っていた。
 真顔で宝くじを買おうと言う、この男が嫌いだった。もうなにもかも笑って許すから、いっそ離れてくれ、と祥子は思った。
 西銀座デパートチャンスセンターの長い列に並んで。
 十二月の寒空は、つわりで気持ち悪い胸の中をよく冷やしてくれた。むしろ、冷たい風に当たっている方が、部屋で大人しく休むより、気持ちがよかった。
 頭の中に空っ風が吹いていた。
 ここ数日、頭を覆っていた、靄のようなものが、それに吹かれて飛んでいった。
 このとき、祥子は、いろいろと産めない理由をつけているが実は産みたいと思ってるのだろう、とようやく知った。わざわざ、この国で一番良く当たるという宝くじ売り場の窓口にまで出向いて、長い列を並んで、宝くじを買っているのだ。
 金のあるなしは問題ではないなと。実際問題なのだが、そりゃあどえらい大問題なのだが。それもわかっててでもやはり、金は問題ではないと祥子は確信した。
 宝くじの発表のその日を待つまでもなく、祥子の心は決まった。境と別れれば、どうせこの先、引越しするのだ、母子家庭の手当てはどの区が一番高いのか、住宅やなんかの福祉サービスは何処が一番充実しているのか、とか、そんなことを調べたり。「母子家庭に優しい本」そんなタイトルの本を買ってみたり。東京で一人で育てるほうが、さほど金も気も使わなくて済むだろうか、とか。いざとなったら、実家に転がり込んでとにかく頭下げて産むだけ産ませてもらおう、とか。そんな甘ったれたことも、まあ実の娘だからきっと最後は許してくれるだろうとか。
 いやとにかく足蹴にされても居座ってとにかく産もう、とか。親に相談するわけでもなく、勝手に腹だけ括って。
 そういえば、妊娠したなんて、友達にも話してなかった。
 離婚だの不倫だのあまりにごたごたしすぎていて、友達には境とのことを全く話していなかったと気づく。
 だが、思えば、彼氏として紹介するほどの男でもない。奥さんとの離婚話を進めるために利用された、男女の愛情すらない、おかしな不倫だった。
 情があれば、文句の一つも、詰りの一つも出るのかもしれない。
 境は関係ない、そう思えば、恨み言の一つも出てこなかった。

* * * * *

 十二月三十一日。年末ジャンボ宝くじの抽選日。
 案の定、宝くじは外れた。
 いや、祥子のと、境のと、三百円がそれぞれ三枚ずつ、当たっていた。それぞれ、一万円分ずつ、買っていたのだ。
 千八百円。バカみたいだった。
 腹の子を産むかどうか、それを宝くじで決めるだなんて。まさにチャンスセンターだと。
 バカみたいで、どうにも笑えた。
 そして、産むとか産まないとかの話をする気は無い、どうにか奥さんとは元には戻らないのかと祥子は境に聞いた。
「戻る訳がない」
 きっぱりと、境は言った。
 それは祥子は全然期待していなかった言葉だった。だがそれでも、境に本当に帰るところがなくなるのが分かっても、もはや祥子は、別れたい、とはっきり言った。
 年収一千五百万のいわゆる高給取りだ、奥さんとの離婚調停でもめているとはいえ、乞えば、手切れ金ぐらいは出すだろう、と祥子は思った。百万くらいは出すだろう、と思った。
 いっそそんな手切れ金というもので綺麗サッパリ、などと本気で思った。金というのは不倫の締めくくりにはちょうど良い、一石数鳥のツールだと思った。別に金が欲しいわけではない、だが、必要なのだと、祥子は、境に、のちのちうるさいことは一切言わないので、出産とその後数ヶ月生活するだけの金をくれ、と言った。
 境は、ぽろり、と煙草を取り落とした。
「金ならどうとでもなる、だが君はそれでいいのか」
 そうして、境は、珍しく、長く唸った。
 それから、その後数日、境は酷く落ち込んだように黙っていた。
 その年の正月は、ちっともめでたくなかった。

* * * * *

 年が明けて通常業務が始まると、公証人役場に行くとか家庭裁判所に行くとかで境は数日会社を休んだ。ホテルに泊まっている、といって、数日祥子のもとには姿を現さなかった。
 そして、数日後、境は祥子の所へ姿を見せた。
「悪いけど、金は無い」
 境が言った。
 どうしたものか、祥子はあれほど戻れといったのに、境は本当に離婚してきたようだった。詳しくは聞かなかったが、すべて、子供の親権の処理も、なにもかもすべて、一切合財済ませてきたらしかった。しかも、マイホームの頭金にするつもりだったという貯金の五百万、それと今期のボーナス二百二十万、全部奥さんにあげてきたのだという。離婚の慰謝料として、全財産を、すべてやったのだというのだ。
「面倒だから」
 境は言った。
「最初は私も、財産分与の方向で考えていたんだが。あまりに埒があかないというか、向こうは頭に血が上っていて、離婚調停がそれこそ本当に長引きそうな気配だったから」
と呟いて力なく笑った。
「向こうもこれが私の全財産だと知ってるから、それを全部やったらもう文句の一言も出ないようだったよ」
と、境は言った。
 そうして、祥子を見て、言った。
「しばらくここに置いてくれない?」
「いや、だって私、もう貯金ないですよ!」
 思わず祥子はそう返して。
「むりむり、さすがに大人の男は養えません!」
と、短く叫んだ。
 たっぷり間があいて、境は笑った。
「……君は、ホントにそれが素なんだね」
 手を伸ばして、抱きしめてくる。
「正直、君のことは好きだったけど、まあまさかここまで好きになるとは全然思いもよらなかったな」
と境は笑った。
「君は、別に私のことが好きではないのだな。そうではないかと思ってはいたがだがやはり非常にショックだった」
 金なんて、また稼げば良いだけだから、と境は真顔で言う。
「確かに、君には思い遣りに欠けた情けない姿をさらしてきた。だがね、何より私は押し切る気だ、君のお腹には私の子供がいるのだろう、とんだラッキーチャンスだと、むしろ嬉しく思っている。君との間に子供ができるなんて、まるで宝くじに当たったようなものだ」
 境は祥子が好きだと言った。
 そして、今までのことについて詫びと感謝の言葉を伝えた。
 短く簡潔だが的確な、誠意のある言葉だった。会社でバリバリ働いているときに見せる、いつもの境らしい、きっちりとした鮮やかな言葉だった。奥さんと携帯越しに延々と話をしているときに色濃く滲んでいた焦燥も疲弊もすっかり消えていた。ここしばらくは見なかった境の笑顔だった。
「離婚したばかりなのに、懲りない人なんですね」
 手に入ったのは、宝くじの一攫千金でも、子供を産めるだけの手切れ金でもなく。
 離婚調停で奥さんにさんざんに金をむしられた、素寒貧になったオトコだった。
 つい祥子は、宝くじどころか貧乏くじを引いた気分だ、と言ってしまった。
 どっ、と、境は笑った。
 確かに、なんだか笑えた。
 境の何もかもが吹っ切れたような陽気な笑い声が、祥子は嬉しかった。つられて祥子も笑って、すると胸にぽっと火が点ったかのように、温かかった。唐突に、この男が、好きだと思った。
 ひとまず祥子は境と一緒に、宝くじを金に換えに、近所の宝くじ売り場に向かった。

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[あとがき]
 お読みくださいましてありがとうございます、コハリトです。
 そもそも言葉で本来言い得ることではないことをわざわざ口に出して議論しても何にもならないと思うことが多々あるのですが、そんな思いを込めまして、書きました。

 小うるさいことをうだうだ言わない、サッパリした、心は大人の祥子に、人生の折り返し地点ちょっと手前で、なんともいえぬ日々の閉塞感になんか疲れちゃったみたい、なおじさんがオチてしまうというハナシです。

 結婚して、幸せになった人がどれだけいるか。一人でいたときはそこそこ幸せだったのに、結婚したために不幸になった人も沢山います。
 まあいろいろと理由もありましょうが、離婚する方々の多くは、たいていが性格の不一致と仰るようです。もともと二十年ばかし全く別物として育ってきた二人が、もともと別の環境の、別の人間が一緒に暮らそうというのですから、こんなもん、はなっから、上手くいくわけがありません。そう思って気楽に日々を過ごすのが良いかと思います。
 相手に対する妥協、忍耐の毎日、精神的葛藤、これが結婚です。いいのか、そんなこと言って。まあとにかく、自分ひとりでもするはずの家事を、家族のためにやってると思い違うようになってはいけないかなと思うのです。自分も同じ家に住んでることを忘れてはいけませんね。ひとりでもやるこたやるもんです。
 そして、中にはまかりまちがって(!)幸せになった人もたまにはいますが、そんな人は宝くじに当たったようなものです。

 境は、ちょっといいかなぁ、なんて思った娘が、いざ付き合ってみると存外にいい女だったので、宝くじに当たったようなものだと思ったようです。
 話の中盤からラストへかけて広がってゆく二人の心の温度差を、そして自分はがっつり惚れ込んでいくのにそれに反してどんどん逸れていく祥子の心にショックを受ける境の様子を、面白いと思っていただけたら、嬉しいのですが。

 書きながら、境、このおっさん、なんだかずるい男に見えますが、まあ、人は自分のことで一杯一杯ですとどうにも他人を気遣ってやれませんで、まあそんな感じですので、許してやるしかありませんな。
 祥子は、とんだ貧乏くじを引いたと思ったようですが、最後はなんだか吹っ切れたような境が好きだと思ったようですので、まあ良しとしましょうか。祥子のような心の強いタイプはきっと結婚しても幸せになると思います。

 最後に、当サイトのメイン小説、「タトゥー・オブ・ギャラン」に登場しますギャランは、まさに「言ってもしょうがないことは言わない」男でして、「あー、うるせ、ごちゃごちゃ言ってんじゃねー!」の一言で、全部なぎ倒します。だからめっぽう強いです。ほんとはきっといろいろ悩んでもいるでしょうし、めちゃめちゃ嫉妬もしますが、とことん懐が広いです。つまりはこの短編「西銀座デパートチャンスセンター」は、そんなギャランのおこぼれにより生じましたものでございます。
 お読みくださりまことにありがとうございました。では!
 2004/11/07 コハリト


追記:2005/01/17/コハリト
 「オンライン小説Love Letter」様にて感想頂きました。ありがとうございました。>>「オンライン小説Love Letter」トップはこちら

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