コハリトりみっと
長編恋愛FT「タトゥー・オブ・ギャラン」がメインの小説・雑記サイト。
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そこは広い謁見の間ではなく、ごく限られた国賓しか通さぬ、狭いが豪奢な設えの応接室である。
アシューがドアを開けると、入室を察した隣国セリアの宰相、シュルツ・ゲッターフィールドが掛けていたソファから立ち上がりかける、それをギャランは遮った。
「ご無理なされるな」
短くそう制し、そのまま掛けているよう、改めて促した。
「恐縮でございます」
シュルツ・ゲッターフィールドは、ソファに掛けたまま上体を折り一礼した。それから彼は、ちらと指先で己の膝横のソファの上を撫で、立て掛けた愛用の杖の所在を確かめた。
ほんの些細な仕草、だが、十年前と全く同じ仕草、その寸分違わぬ再現の、異様さ。
―――ぞっとする、
足が不自由であることは周知の事実だ、最初に彼の起立を押し止めたのもそれが理由、だが、それ以上に、
―――ずっと以前に患った大病の痕だと聞くが、
まるで漂白したかのような白髪の下に顔の半分を覆う大振りの色濃いサングラス、それが一国の王の前で許されるに尤もな理由、即ち彼は盲目であるのだが、今や自分が十年前の少年の姿ではないのと同様に、この男の外貌もそれなりの年月を経ているようには見える、が、だがあるいは全くそうではないようにも見えた。病痕の特異さばかりが印象に強く、経年の変化などまるで些細なことに過ぎぬようにさえ、見える。
だからこそ、その些細な仕草の、寸分違わぬ再現の異様さがギャランの神経を不穏に擦った。
ギャランが向かいのソファに腰を落とす気配を待って、シュルツは静かに口上を述べた。落ち着いた年上格の声、無難でいて丁重な挨拶、それから一度、彼は涼やかに微笑んだ。
「ずいぶんと、お久しゅうございますな。お会いできて光栄です」
「うむ」
短く応えたギャランに、
「私もなかなか思うようには外へ出られぬ身、こうして直接にお目どおり叶いますのは、かれこれ、十年ぶりと相成りましょうか」
―――十年ぶり、
早々にイヤなところに切り込んでくる、とギャランは思った。
十年、それほどに長い間を空けていた疎遠の理由、今更面会を求めてくるその理由を思えば、否が応にもキナ臭い。盲目と足の不自由さを理由にほとんど自国を出ることの無いセリアの宰相、それがわざわざガーナ王宮へギャランを訪ねに出向いた、それも最近二度も。この、異様さ。
静かな緊張がはしる。
ギャランの短い応えを接ぎ、アシューが、
「さてもかくても、御体の具合はよろしいのですか? 近年は体調を理由に外遊も極力避けておられると伺っておりますが。過日に続き本日も突然のお越しとはまこと驚……」
挨拶を述べようとしたところで、
「おかげさまで」
そのアシューの言葉を遮り、シュルツは涼やかに微笑んだ。
「ギャラン様とは、まこと、十年ぶりですな」
膝上に軽く組んだアシューの指が一本、ぴくりと動揺を示した。
同じ宰相格でありながら、堂々とアシューを拒みギャランとの会話を要求したシュルツの口許は、やはり涼やかに結ばれている。
「さよう」
そこで仕方なく会話を継いで、ギャランは言葉を選んだ。
言葉は短いほうがいい。己の言葉の端々にぼろが出るのは、それも、すぐに出るのは、存分に承知している、と改めてカズマの不在を痛く思いながら、
―――そうあからさまに動揺しないことは向こうだって踏んでるだろうが、
ギャランはさっさとカードを切った。
「セリア国王、ガーフィルツ・ラウ殿とも久しくお会いしていないが、健勝であらせられるか? 大変な愛妻家だと聞き及んでいるが」
その義兄の名を出す。
色濃いサングラスの向こう、シュルツの表情は読めぬが。
「それはもう、幸せで」
笑ったようだった。
「幸せ、と。それは良かった。では私も身を引いた甲斐があったというものだ」
「身を引いた甲斐、はは」
あっさりとギャランの先制を許すかのように、シュルツは軽く肩を竦めてみせた。
切り札というよりもむしろ、魔除けの札か何かに近い。
現在のセリア国王、ガーフィルツ・ラウはシュルツ・ゲッターフィールドの義理の兄にあたる。そして、こう噂される男である、あの天才辣腕宰相シュルツ・ゲッターフィールドが、最も恩を感じて然るべき男、そして、唯一、妥協を許す男、と。
シュルツ・ゲッターフィールドの経歴は、セリア国務大臣ラウ家に養子入りした時点から始まる。先代のラウ家宗主、セリア国務大臣であったガーフィルツ・ラウの父、その妾腹の子だとも、あるいは門の前に棄てられていた捨て子だとも、噂はさまざまあるが、養子入りする以前の話は杳として定かではない。
養子入りしたシュルツは、政界に入るやめきめきと頭角をあらわし、その義理の兄たるラウ家の世嗣ガーフィルツ・ラウ、血筋に一点の曇りの無い男を差し置いてラウ家の家督を継いだ。いわば正血の系譜を汚した男だ。
「あの縁談は、サーデュラス国王陛下も大変に乗り気であらせられたのですがね。せっかくセリアを併合できるチャンス、」
―――十年ぶりともなれば、話はまずはそのあたりから始めるのが妥当かも知れぬが。
「そう軽々しく自国の身売りを舌に乗せるな。ガーフィルツ殿はかねてよりかの王女にぞっこんだったと聞く、結果丸く収まったろうが。十年も前に他所に片付いた縁談を、今更私に持ち掛けるつもりでここに来られたのではあるまい」
十年来のしこりに杭打つかのように、ギャランは遡りかけた話に今のこの場にて止めを刺した。
セリア王急逝により後ろ盾をなくした王女をギャランの妻に迎え、事実上の併合を目論んだのはサーデュラス、事を勧めたのはシュルツ、その縁談を蹴り、あまつさえ、家督を継げず無位の衛兵としてセリア王宮に仕官していたガーフィルツ・ラウに王女を押し付けたのはギャラン。
実際のところはギャランがガーフィルツに夜這いをするようけしかけたのだが、このとき初めてシュルツが義兄ガーフィルツの胸倉を掴んで罵倒したと聞く。丁重にお膳立てした政略結婚が、自国の、それもごく近しい者によってひっくり返されたその逆上ぶりはかなりのものだったとも聞く。王女を娶ったガーフィルツが新国王として王位を継承し結果は丸く収まったが、シュルツにしてみれば、かつてギャランには煮え湯を飲まされたと言っても過言ではない。
「はは。まことその率直さ、まばゆいばかりでございますな」
「互いの国の繁栄を願うならば、当然だろ」
どっちがどっちに併合だか、とギャランは小さく吐き捨てた。
切れ者と名高いセリアの宰相、なれば、セリアを抱えた途端、ガーナはその内から食い荒らされるのは目に見えている、かつてアシューが懸念に懸念を塗り重ね、サーデュラスに縁談の撤回を再三箴言していたのを、ギャランは今更ながら冷えた気持ちで思い返した。
互いの温度を量るかのように、ややしばらく間を空けた後、
「実は以前より、どのようにご相談申し上げるべきかと、思い悩んでいたのですが」
ようやくシュルツは本題を切り出した。
「ふむ。それで、相談とは」
先ほどからシュルツの隣に泰然と腰掛けている男をあえて無視し、ギャランはシュルツを睥睨した。
「なんの手土産か」
「もはや申し上げるまでもありますまい」
シュルツは軽く首を回し、己の隣に座っている壮年の男を促した。
「やあ、ギャラン君、元気かね?」
「………」
あっけらかんとサーデュラスは明るい声を出した。
あまりにも朗らかな、屈託の無い声。軽く手を挙げるその様は、禁書を持ち出し失踪した国王たる背任のイメージとは到底かけ離れた明るさである。
シュルツは少し困ったように口の端を上げ、整った微笑を披露した。
「サーデュラス王は、いえ、サーデュラス前王陛下は、当セリア領内にて意識不明の状態で倒れているところを発見されましてね、どういうわけか、御仁はきれいさっぱり記憶を失われておりまして。無論、私はサーデュラス殿とは面識もございますゆえ、すぐにその御素性を察しましたが、」
シュルツはちら、と唇を舐めた。
「時既に失踪したとの情報を得ておりましたので。失踪の経緯を鑑み、率直に事実を申し上げれば御仁はさぞや混乱なさるであろうと苦慮した次第。既にギャラン王子の王位継承の儀が華々しく執り行われて後のことでございましたゆえ。周囲に与える影響を考えますと、迂闊にご報告申し上げるわけには行かぬと思いましてな。そのような経緯で、つい先日まで、ご自身で記憶を取り戻されるまで、ひそかにセリアの王宮に身を寄せていただいた訳でございます」
「成る程」
ギャランは浅く笑った。
「面白い話だな」
十年前の騒動で、惚れた女も国王たる地位も手に入れた、つまりはギャランに大きな借りを作ったガーフィルツ・ラウが、ほとんど一方的とさえ揶揄されるほど多くの利権を譲る形で両国の関係は落ち着いたが、元はといえば何かと国益を巡って小競り合いが続いていた、いわば敵国である。
「保護する義理など微塵もなかろうが」
「はは。しかし、ギャラン様が前王陛下を探して国中を走り回っておられたのもこれまた有名な事実」
―――いやな展開だな、
シュルツの話の持って行き先を察し、ギャランは胃の底がツキリと冷えた思いがした。
「おれが探していたのは召喚の書だが」
「ギャラン王は王位を拒み、執務よりも捜索に明け暮れていると。貴殿が前王陛下をお探しになる理由は、禁書を持ち出した罪を問うより何より……意に反し継承せざるを得なかった王位を返上するがため。違いますかな」
「違うね。おれが国内を隈なく回ったのは召喚の書を探し出し、」
「急に王位が惜しくなったか。あれほど王にはならぬと公言しておったのに?」
ギャランの抗弁を遮り、サーデュラスが揶揄した。
確かに、失踪した国王の跡を継いで少なくとも形式上は、国王の座に就いた。
―――王位に就いてかれこれ一年……
隠し刃の覗くが如きシュルツの話の襞を嫌って、ギャランは話の転回を試みた。
「つまり、国王の座に就いたおれを、ありがたく引取りにきたとでも?」
ギャランはそう言ってサーデュラスを見たが、サーデュラスはそれを許さなかった。
「いや」
短く否定して頭を振る。
ギャランを捉えて見据える両の眼、そこには無言の圧力が込められている。
「余と同等かそれ以上の王でなければ事足りぬのはギャラン君も承知、だからこそ政務の一切を放棄し王たる職責から逃げた。王として到底認むるに足るとは思えぬが?」
「ほう?」
だがしかし、サーデュラスは国王となったこの身を欲している、これが為に正嫡として育ててきた、およそ王とは遠い荒んだ様子であろうとも、執拗に執拗に、その成長を手ぐすね引いて待っていた筈なのだ、この身にどれほどの情念が絡み付いているか、ギャランはよく知っている。
―――この男は、そう簡単には……
「諦めた」
「は?」
「余は復位する。さてもさても余も少々我を通しすぎた、嫌がるギャラン君を無理に玉座に据えずとも、と今では思っておる。さぞ心労だったろう、だがしかし余は無事に戻ってきたのだ、この、ガーナ国王、サーデュラスがな、ギャラン君の出番はもはやない」
恩着せがましい言い草、それは労いを含んだ慈笑、というよりも蔑笑に見えた。
「持ち出した禁書はどうした」
「知るか」
サーデュラスの応えに、はっ、とギャランは失笑しかけたが。
「余は知らぬ」
真っ向からシラを切る態度にギャランは改めて真顔になった。
「なぜ今更復位する気だ」
「その理由はたった今述べた筈だが? この国はお前では荷が勝ちすぎる」
万人受けするソリッドな笑み、上々段に構えた不遜な男ぶり。
お前よりももっと良いものを見つけた、と何よりも雄弁に語るその表情、ギャランは奥歯を一度強く噛んだ、この男が王たる権力で以って国を挙げて狩りをする腹づもりならばその対象はただ一人だ。
「おれは今のこの、王たる立場を放棄しない」
「アシュー」
ギャランのその言葉を無視し、サーデュラスはその名を呼んだ。
長年もの間己に仕えさせて来た自国の宰相である。
実務に優れた男だ、ともに政務を執るならばその呼吸を完璧に合わせてくる非常に優秀な宰相、それは確固たる主従の力関係に基づいた己が手中のいわば政務の道具であり、たかが一年やそこらで効力を失うものではないことを熟知している。
貫禄ある笑顔をアシューに向けた。
「シュルツ殿を丁重におもてなし致せ。今宵は盛大な宴だ、すぐに支度にかかれ」
この表情で命ずるときは、一切の抗いも代替案の提示も許さなかった。
「この国の王はおれだ、サーデュラス、貴様の出る幕はない、とっとと出て行け何処へでも行きやがれ」
サーデュラスは、はた、と己の膝を打った。
さも可笑しそうに、蔑みを込めた眼差しで鷹揚に笑った。
「父王への口の利き方も知らぬか、安いメッキはすぐに剥がれるな……何が王だ」
つまらぬものに随分と無駄な投資をした、そう吐き棄てるように言うと、
「アシュー、何をぼやっとしとる!」
その場で硬直したままのアシューを一喝した。
「は、いえ……」
アシューはギャランに視線を投げようとしたが、
「そんなバカ息子、ほうっておけ! もはや王子でもなんでもないわ、廃嫡する、余はすぐにでも王位に復帰する、今宵からこの王宮に暮らすぞ、以前のようにな。些事は宰相たる貴様に任せる、くれぐれも良きに計らえ」
一度は仰いだ主を捨てよと、残忍さの滲む確固たる命令がアシューの背中を強く打った。
容赦なきその勢いに押されてつい中腰に腰を浮かせたアシューに、サーデュラスは己の足先に跪くことを要求した。アシューはそのまま席を立つと、サーデュラスの足下に歩み寄り、深く頭を垂れ丁重に跪いた。アシューにとって、サーデュラスに跪き臣下の礼をとることはもはや反射的、命ぜられれば応ぜざるを得ない類の、長年にわたり骨の髄にまで染み込んだ仕草である。
アシューがあっさりとサーデュラスに折れた、それは隣で見ていても、明白な事実だった。
それは、
なんともいえぬ喪失感だった。
ギャランはただただ沈黙してそんなアシューの跪く様子を見て。
―――いったいおれは何を望んだのであろうな、
頭を垂れたその首筋に、魔除けの鎖がちらりと見えた。
魔除けを掛けさせたらてきめんこのザマだ、とギャランはつくづく実感して。
おれが人に愛される、というのは所詮はこの血の所為だ、本当のところ誰かに望まれることなど無いのだろう、そんな実感が沸く。
そこへ、がちゃりと唐突に応接室のドアが開く。
人払いをしていようが、どれほど剣呑で重要な話をしていようが、相手のことなど全くお構いなしでドアを開けて入ってくる人間といえば一人しかいない。周子だってそこまでは、さすがに国賓の応対を邪魔するほどには無遠慮ではない、
ギャランは反射的に腰を浮かせた。
「来るな! イーヴ!」
「……まあ!」
途端、イヴが華やかな声を上げた。
部屋の中をぴたりと見据え、彼女はぱあっと、まるで大輪の花がほころぶかのように優雅な、満面の笑みを浮かべた。
ギャランは、しまった、と思った、こうなるとイヴは何を言っても聞かぬ。
ドアの方を見遣ったサーデュラスの目が驚愕に見開かれる、その表情にたちまち動揺の色が浮かんだ。
「イーヴ……」
かすれた声で呟く。
そして、弾かれたようにソファから飛び上がるや、その背を越え後ろに大きく飛び下がった。
そのまま二三歩、後退さる。
先ほどまでの傲慢さとはまるで違った、逃げ出すかのような及び腰、サーデュラスはドアの方を指さすと、震える声で叫んだ。
「な、なぜお前がこんなところをうろついておるのだ!」
「王が、地下の石牢から出してくださいました。サーデュラス、お会いしたかったわ」
喜色満面の華やかな声、ぱっ、と駆け出したかと思うと、ソファの後ろから逃げ出そうとしたサーデュラスの胸に勢い良く飛び込んだ。
「サーデュラス!!」
そのままサーデュラスごと床上に転倒。
「おっと……」
何が起こったのか盲目の身には分からぬであろう、不明の色濃い困惑の声。シュルツは二人がソファに当たった強い衝撃に小声を漏らした。
「離れろ、イーヴ、そいつはお前を棄てた男だぞ」
苛立ちを露わに厳しい声でギャランはイヴを一喝するが。
「ええ、止しますとも、あなたのご命令ならば。サーデュラス」
おれの話を聞け! とギャランが怒鳴るが、イヴは嬉々としてさらにいっそうサーデュラスに取り縋った。絞め殺さんばかりの勢いで頬を摺り寄せる。
「会いに来てくださったのですね! サーデュラス!」
「余を放せ!」
サーデュラスは怯えと嫌悪の入り混じった表情で間近にイヴを睨んだ。
力づくでその身を引きはがす。
「お前になど、会いに来るわけが無かろう! 触るな、この、下賎な魔物め!」
「でも、こうして会いに来てくださいました」
「違うわっ!」
思いっきりイヴを突き飛ばすと、苛立ちの色濃く否定して。
「余はそこな愚息を始末しに来たのじゃ、」
サーデュラスの言葉に応じギャランは腰の剣に手を掛けるが、イヴは二人の間に割り入るようにしてサーデュラスの前に立った。
「私が翼を持っているのが、それほどに気に食わないのですね? ちゃんとおっしゃるとおりに畳んでいるのに?」
「そんな話は必要ない!」
お前は昔っから頭が弱いな、とひと唸りして。
「私のような人外の者を愛する気持ちが芽生えたのを御身は直視できずにいらっしゃるのね」
そう言って首を傾げるイヴ。
青い瞳でじいっとサーデュラスを見つめ、やがて、にこりと、
「……かわいそうな人」
「うるさいわっ!」
サーデュラスが怒鳴った。
苛々した様子で髪を掻き毟ると、残忍な表情になってイヴを睨みつけた。
「余には使命があるのだ、愛した女を蘇生させ、再びこのウデに抱くというな! 余が愛しているのはアレじゃ、アレに命をかけているのじゃ、余計なことを脇でごちゃごちゃ言うな!」
だがイヴは、さやかに涼風でも吹いたかのように小首を傾げただけで。
そして、軽く微笑んで。
「死んだ者への恋情にとらわれるのは、呪いか病か、等しゅうございますわ」
「お前が言うな! 誰とでも寝るくせに! お前の術など余には効かぬ、余がお前を憎んでおるからだ、このっ、下賎な魔物め!」
どれほどの男と寝た! と激しく罵ると、サーデュラスはイヴの細い首を掴んで勢い良く床に叩きつけ、腹を強く蹴り上げた。
鋭く短くイヴの悲鳴が上がる。
「何しやがる、サーデュラス! 相手は女だぞ!」
ギャランが咄嗟に割って入ったが、
「女? 女だと……ははっ」
大丈夫かイーヴ、と優しく抱き起こすギャランの姿を見、いっそうサーデュラスは頭に血が上ったらしかった。
「女? これがか? この下賎な魔物がか? 外道はどっちだ、この出来そこないめ! 貴様も貴様だ、何のためにこの世に生を与え、これまで生かしてやったと思うておる! それも、挙句に、よりによってこの気狂い女に肩入れする気か!」
ギャランごとど突くとイヴを床に落とし再び蹴った。
鼻息荒く罵声を浴びせながら足蹴にしようとするのを、再び庇ったギャランに、
「なるほど、この穢らわしい娼婦をあの地下牢から出したと? 貴様が? ははあ、この淫らな魔物は実の子である貴様さえもたらしこんだか!……ヤったな? 抱きおったな!」
ギャランを見据える両の瞳にギラリと殺気が宿った。
憤怒のボルテージが一気に頂点に上り詰めた。
「でなければこやつが今なお生き長らえておるわけがないな!」
「陛下、少々落ち着かれてはいかがです? サーデュラス」
シュルツが、圧倒的な威圧感を込めた声を、一声ビシリ、と発した。
不意に強力な重力場がそこに生じたかのようだった。
すべての言の葉、すべての無駄な諍いや勢いが、一遍に床に落ちた。
圧倒的な重力だった。
ギャランは、声の主を見た。
ギャランの立ち位置からは、ソファにじっと背を預けたシュルツの後頭、その白髪しか見えぬ。
その盲目の男は、一体何を見ているのか。
「失踪した陛下が急に現れ、年若なギャラン様もさぞ動揺していることでございましょう」
喧騒を打ち切る冷たい声が、凍ったその場にしんと沁みた。
「ギャラン様はまだまだお若い、不測の事態に動揺なさるのも分かる、ご子息が反発なさる王宮に身を置くのも落ち着かれますまい、万が一ということもある。……いかがです、今日のところはひとまずセリアにお戻りになられて、後日改めてガーナにお戻りになるというのは。よろしいですね、サーデュラス陛下」
ギャランのことを若いと詰りつけ、シュルツはサーデュラスにそう命じた。
そうして杖を手繰ると、ソファから立ち上がる。
長身の肉付き薄い体つき、だが仕立ての良い上等な濃紫色のスーツを着込んでいる所為か、すらりと涼やかに、不思議なほど見目良くまとまって見えた。
一見地味な、だがそれはただの先入観で、その立ち姿には華やかな高級感、立ち上る香気にも似た格高さのようなものがある。
細身のすらりとした背中は涼しげで。
此の世の情欲とは一切無縁の清涼さ、何処か、この世のものとは思えぬ清冽さがあった。
「イヴ殿、ね……はてもさても、このような情欲の獣を宮中に放し飼いにするなど、ギャラン様は風紀というものはご存知ないのかな?」
杖を突き片足を引きずりながら、シュルツは数歩ギャランのほうに歩み寄った。
「ははあ、ご自身もその血を半分引いているからですかな、獣同士の情ですかな? 羽根を落として常人と変わらぬ振りをなさっても所詮は所詮……確かに御身は人心を惹く、だがその求心力は以って生まれた情欲の獣たる能力故ともご承知の筈。王たるべくそのような力に頼ろうとは、はは、情けのうございますな」
「シュルツ・ゲッターフィールド、貴様何を知っている?」
ギャランが低い声で凄んだ。
―――イヴのことを知っている、
セリアの宰相がギャランの出生について言及するのであれば、それはもはや政治国益云々ではない、もっと根深い執着を知っているということだ、今更ガーナの国家権力の頂座に就いて、サーデュラスとこの男は一体何をしようというのか。
―――どうにも、ただで帰すわけには行かぬ気がする、
退出しようとするシュルツ、ギャランは音を立てずにその先に立ちはだかった。
前を塞いだギャランの明らかな殺気、だがシュルツは動じる様子無く、くつりとひとつ喉を鳴らした。
「さあて。それよりも何よりも、私が聞きたいことの方が多すぎる」
おもむろに手を伸ばす。
ギャランの左二の腕をぎゅっと抓り、引き寄せるようにしてその耳元へ口を寄せた。
「分不相応な拾い物をしたな」
左二の腕、召喚の種なればタトゥーのあるべき位置である。
すなわち周子の事だと察した瞬間、ギャランは言い知れぬ恐怖にも似た強烈な憤りを感じた。
「貴様!」
シュルツの手を払うなり腰の剣に手を、
―――抜くな! 若造!
刹那突き抜けた、背骨を裂かれたかの如き痛み、呼吸いや実際心拍すら一瞬止まった、という認識とその直後にどっと押し寄せた強烈な身体からの警告、そのひどい動悸と不明の拘束感に、ギャランは、がっ、と喉を破るような呼吸を吐いた。
瘴気にも似た何か、痺れるようなララクロノフの制止意識の介入を身体に知る。
柄を握ろうとした指がびくとも動かぬ。
―――ヘタに挑発にのるでないぞ!
「トリ、てめ……!」
呻いた拍子に、禍々しい何か、饐えたおぞ気が一瞬喉元まで込み上げた。
「トリ?」
アシューの戸惑った声が小さく聞き返すが。
「なんだ、抜かぬか。まあ、賢明な判断だが、ふん、そんな剣の言いなりか、一国の王たる者がそのような下賎なトリの言いなりなど、まるで形無しだな」
「なんだと! 何言ってやがる!?」
「あれとはまるで不釣合いだな」
シュルツは失笑、吐き棄てるかのように短く呟いた。
「あれってなんのこった!」
―――殺す!
そう思った途端、堪え難いほどの痛みが身体を緊縛した。
ララクロノフに身体を抑えられることがあろうとは、全くの予想外だった、まして、己の身体の制御に他者が介入するなぞ、そんな感覚は剣の腕に自負ある者としてひどい屈辱以外にない、が―――、
それより何より、
シュルツの言うところのものが何か、聞かずにはおれぬ。
そして、聞かずとも察せられる、それが、どうしようもなく、怖い。
絶望にも似た確信の予感、自ずと呼吸が浅く荒くなった。
―――抜いて、いますぐ、この男を、殺さなければ、
「トリ、放しやがれ、てめぇもぶち殺すぞ」
「ギャラン様、おやめください!」
怒声の如き叱咤とともに今度こそ力強く柄を握ったギャランに、アシューが悲鳴に近い声を上げ腰にすがりつく、その制止する様をシュルツは当然の如く聞き届けて。
「血気ばかり盛んな年若な王を御するのは大変だな。サーデュラス殿を失い、貴殿も相当な心労だったとか。ここ一年で急に老け込んだとか聞くがね?」
セリアへ来るならば厚遇しよう、と言いたいところだが、アシュー殿はここガーナにこそあって欲しい御仁だ、サーデュラス殿のために貴殿が為すべきことは沢山ある、相応の見返りは私が保証しよう、とシュルツは浅く笑って、
「陛下、今日のところはこれでお暇しませんかね?」
軽い口調で話を打ち切った。
「アシュー殿は大変に優秀なお方だ、経験豊富で貫禄あるサーデュラス殿を擁いたほうがはるかに国益になると判断できる冷静な理性をお持ちだ、数日間を空ければ、アシュー殿がサーデュラス陛下をお迎えする準備を万全に整えてくださることでございましょう」
有無を言わさぬ威圧感でシュルツはアシューに申し付けた。
杖を突き片足を引きずるシュルツの独特な靴音、それが廊下の向こうにすっかり消えて後、ギャランはどさり、とソファに腰を落とした。
「トリ! 奴、ってまさかあのうすら白い奴のことか!」
「…………」
ララクロノフはまさに無機物の剣の如く沈黙。
腰骨が痺れるほどに響いていた真っ二つの剣の恐ろしいほどの緊張がぴたりと止んだ。
ギャランは眼球が攣れるような脳底を焼く熱い痛みにしばし目を伏せ、肩の震えと利き手の痺れを逃す。
手のひらを握っては広げるを繰り返しながら、
「あいつはもう十年も、いやそれ以上も前からセリアの宰相だ、昔っからおれはあの男を知っている、周子のようにひょっこり現われたんで無く、すでに昔からこの世に現実に存在していた男だ、それがなぜ周子のことを言う? つまりはサーデュラスも周子のことを知ってやがるな、わざわざ復位すると出向いてきたのは、つるんで何たくらんでやがる」
「誰と話しているのです、王」
「腰の剣だ」
「王……、剣は、しゃべりません」
常識顔でアシューが呟いた。
ギャランの腰掛けたソファの側に跪くと、アシューは困惑の色濃く滲んだ表情でギャランを見上げたが、彼にとって王に接する態度として当然のその態度は、ギャランにしてみればサーデュラスに見せた姿勢と寸分違わぬそれでもあり、ギャランは胸の奥が不快に冷えた。
「なぜ止めた、あんな気味の悪い白男、がつんと一発」
「彼はセリアの宰相です、あなたは戦争でも始めるおつもりか」
アシューがすかさず窘めた。
その表情は慎重にして硬い。
この一年、おろおろとギャランの周りを冷や汗拭いつつ走り回っていた男とはまるで別人、利を量るその表情は、思慮深く世知に長けたまさに一国の宰相の顔である。
―――そういえばこの男は、サーデュラスを前に執務中はずっとこんな真顔ではなかったか。
そう思って黙ってアシューを見た。
―――だがお前はそんな面で、王にサーデュラスを望むのだろう?
「セリアが欲しいのは勿論この国です」
そう言ってアシューはギャランの瞳を捉えた。
「ギャラン様、あなたはこの国の王です、なぜなら、あなたは正当な手続きを踏んで王位を継承したからです。王位を継承した、そのことこそが、王たる者にとって最も重要なことでございます。一年前に、確実に、王位は移っているのです。今更王位を返還するなどあり得無い。代々ガーナ国宰相職たる我がヒラルテック家はこの原則をこそ固持します」
「へ、へえ?」
アシューの意外な言葉に、思わずギャランは珍妙な声を出した。
「お前にそんなこと言われるとは思ってなかっ……」
「我々臣下や国民は、国の安定と他国との平和的関係を望んでおります、十年前、万事整った政略結婚を反故にしたのには心底肝が冷えましたが、だが結果は悪くない。私はそれを評価しています、平和が適わなければ、我々臣下は国王といえど排除せねばな……」
途端にギャランの心は凍った。
「据えたり除けたり、わがまま放題だな、臣下という輩は」
「王、」
私が申し上げたいのは、と曲解された予感にアシューは言葉を補おうとしたが、
「言うな、アシュー、おれは退かぬ、絶対に退かぬ。シュルツ・ゲッターフィールド、あの男が狙ってんのはこのガーナじゃあねぇぞ、周子だ! 国なんざあわよくば、の二の次だ。ああ、宣言するぞ、おれは王だ、ガーナの国王、ギャラン・クラウンだ、退かぬ、誰が否定しようがおれは王になる、たとえお前でも、おれに逆らえば殺すぞ、覚悟しておけ!」
アシューは沈黙し低く長く唸った。
その冷静さがいっそうギャランの苛立ちを煽った。
王としてサーデュラスを選ぶ、そんなことは分かりきっているのに、それでもなおおれをこの国の王だと言って冷静に状況を読もうとする、そう思うといっそう腹立たしかった。
「今剣を抜いても良いが、お前なんざ剣の錆にもなんねぇ、今すぐとっとと荷物まとめて新婚のかみさん連れてセリアへ逃げやがれ。おれは武力でもなんでも、軍だろうが魔物だろうがなんだろうが行使しうる限りのすべての力を使ってこの国の王になる、本気だ、本気だぞ! とっとと出て行きやがれ!」
アシューを部屋から蹴り出し、ギャランは乱暴にドアを閉めた。
後ろ手にドアを閉め、ふー、と低く息をついた。
どうしようもなくがっつり落ち込んで。
―――畜生、なんだってんだ、おれがなにか悪いことしたか
「若造」
不意に掛かったその声に、
「なんだ! トリ! キッサマよくもぬけぬけと再びこのおれに声を掛けることができるな!」
振り向けば、いつのまにか鴉に姿を変えたララクロノフが上等な革張りのソファに鋭い爪を立てこちらを見ている。
小さな丸い黒い目が、殺気に満ちた色を湛え炯々と光っている。ぞっとする程生き生きとした妖しげな輝きだった。
「乗れ」
たちまちギャランが両眉を顰めた。
「乗る? なにに、どうやって? そんなチッコイ鴉の背中にか? 乗ってどうするってぇんだ? ははあ、先ほどの無礼を死んで詫びるとしかも潰れ死にさらす気か、いよしまかしとけ」
「バカ者。では、まずは跨れ」
ララクロノフは再び剣の姿になると、カラン、と床を打った。
ギャランは首を捻りつつ、真っ二つの剣を床から拾い上げ、
「跨るって、こうか?」
訝しがりつつ、柄の部分を両手で握り、剣鞘に跨った。
そして思いっきり首を捻る。
「えー? やーだなー、これ、こんな風に乗るのか? カッコワルー。これがホウキなら魔女だぞ? バカ丸出しじゃねぇか、おい?」
「つべこべ言うな、タチバナがピンチじゃ」
「なにぃー! 飛べ! 飛びやがれ! 早く飛べ、おれを連れて行け、畜生!」
金髪を逆立て、ギャランはぎゅむぎゅむとその柄を握り締めた。
「首を絞めるな!……ああまったくぎゃあぎゃあうるさい若造だの!」
ララクロノフは身を震わせると、ばさり、と大きな鴉の姿になって窓から飛び立った。
[tog]85:不躾に伸びる手
Created: 2007-12-06 Modified: 2007-12-07
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アシューがドアを開けると、入室を察した隣国セリアの宰相、シュルツ・ゲッターフィールドが掛けていたソファから立ち上がりかける、それをギャランは遮った。
「ご無理なされるな」
短くそう制し、そのまま掛けているよう、改めて促した。
「恐縮でございます」
シュルツ・ゲッターフィールドは、ソファに掛けたまま上体を折り一礼した。それから彼は、ちらと指先で己の膝横のソファの上を撫で、立て掛けた愛用の杖の所在を確かめた。
ほんの些細な仕草、だが、十年前と全く同じ仕草、その寸分違わぬ再現の、異様さ。
―――ぞっとする、
足が不自由であることは周知の事実だ、最初に彼の起立を押し止めたのもそれが理由、だが、それ以上に、
―――ずっと以前に患った大病の痕だと聞くが、
まるで漂白したかのような白髪の下に顔の半分を覆う大振りの色濃いサングラス、それが一国の王の前で許されるに尤もな理由、即ち彼は盲目であるのだが、今や自分が十年前の少年の姿ではないのと同様に、この男の外貌もそれなりの年月を経ているようには見える、が、だがあるいは全くそうではないようにも見えた。病痕の特異さばかりが印象に強く、経年の変化などまるで些細なことに過ぎぬようにさえ、見える。
だからこそ、その些細な仕草の、寸分違わぬ再現の異様さがギャランの神経を不穏に擦った。
ギャランが向かいのソファに腰を落とす気配を待って、シュルツは静かに口上を述べた。落ち着いた年上格の声、無難でいて丁重な挨拶、それから一度、彼は涼やかに微笑んだ。
「ずいぶんと、お久しゅうございますな。お会いできて光栄です」
「うむ」
短く応えたギャランに、
「私もなかなか思うようには外へ出られぬ身、こうして直接にお目どおり叶いますのは、かれこれ、十年ぶりと相成りましょうか」
―――十年ぶり、
早々にイヤなところに切り込んでくる、とギャランは思った。
十年、それほどに長い間を空けていた疎遠の理由、今更面会を求めてくるその理由を思えば、否が応にもキナ臭い。盲目と足の不自由さを理由にほとんど自国を出ることの無いセリアの宰相、それがわざわざガーナ王宮へギャランを訪ねに出向いた、それも最近二度も。この、異様さ。
静かな緊張がはしる。
ギャランの短い応えを接ぎ、アシューが、
「さてもかくても、御体の具合はよろしいのですか? 近年は体調を理由に外遊も極力避けておられると伺っておりますが。過日に続き本日も突然のお越しとはまこと驚……」
挨拶を述べようとしたところで、
「おかげさまで」
そのアシューの言葉を遮り、シュルツは涼やかに微笑んだ。
「ギャラン様とは、まこと、十年ぶりですな」
膝上に軽く組んだアシューの指が一本、ぴくりと動揺を示した。
同じ宰相格でありながら、堂々とアシューを拒みギャランとの会話を要求したシュルツの口許は、やはり涼やかに結ばれている。
「さよう」
そこで仕方なく会話を継いで、ギャランは言葉を選んだ。
言葉は短いほうがいい。己の言葉の端々にぼろが出るのは、それも、すぐに出るのは、存分に承知している、と改めてカズマの不在を痛く思いながら、
―――そうあからさまに動揺しないことは向こうだって踏んでるだろうが、
ギャランはさっさとカードを切った。
「セリア国王、ガーフィルツ・ラウ殿とも久しくお会いしていないが、健勝であらせられるか? 大変な愛妻家だと聞き及んでいるが」
その義兄の名を出す。
色濃いサングラスの向こう、シュルツの表情は読めぬが。
「それはもう、幸せで」
笑ったようだった。
「幸せ、と。それは良かった。では私も身を引いた甲斐があったというものだ」
「身を引いた甲斐、はは」
あっさりとギャランの先制を許すかのように、シュルツは軽く肩を竦めてみせた。
切り札というよりもむしろ、魔除けの札か何かに近い。
現在のセリア国王、ガーフィルツ・ラウはシュルツ・ゲッターフィールドの義理の兄にあたる。そして、こう噂される男である、あの天才辣腕宰相シュルツ・ゲッターフィールドが、最も恩を感じて然るべき男、そして、唯一、妥協を許す男、と。
シュルツ・ゲッターフィールドの経歴は、セリア国務大臣ラウ家に養子入りした時点から始まる。先代のラウ家宗主、セリア国務大臣であったガーフィルツ・ラウの父、その妾腹の子だとも、あるいは門の前に棄てられていた捨て子だとも、噂はさまざまあるが、養子入りする以前の話は杳として定かではない。
養子入りしたシュルツは、政界に入るやめきめきと頭角をあらわし、その義理の兄たるラウ家の世嗣ガーフィルツ・ラウ、血筋に一点の曇りの無い男を差し置いてラウ家の家督を継いだ。いわば正血の系譜を汚した男だ。
「あの縁談は、サーデュラス国王陛下も大変に乗り気であらせられたのですがね。せっかくセリアを併合できるチャンス、」
―――十年ぶりともなれば、話はまずはそのあたりから始めるのが妥当かも知れぬが。
「そう軽々しく自国の身売りを舌に乗せるな。ガーフィルツ殿はかねてよりかの王女にぞっこんだったと聞く、結果丸く収まったろうが。十年も前に他所に片付いた縁談を、今更私に持ち掛けるつもりでここに来られたのではあるまい」
十年来のしこりに杭打つかのように、ギャランは遡りかけた話に今のこの場にて止めを刺した。
セリア王急逝により後ろ盾をなくした王女をギャランの妻に迎え、事実上の併合を目論んだのはサーデュラス、事を勧めたのはシュルツ、その縁談を蹴り、あまつさえ、家督を継げず無位の衛兵としてセリア王宮に仕官していたガーフィルツ・ラウに王女を押し付けたのはギャラン。
実際のところはギャランがガーフィルツに夜這いをするようけしかけたのだが、このとき初めてシュルツが義兄ガーフィルツの胸倉を掴んで罵倒したと聞く。丁重にお膳立てした政略結婚が、自国の、それもごく近しい者によってひっくり返されたその逆上ぶりはかなりのものだったとも聞く。王女を娶ったガーフィルツが新国王として王位を継承し結果は丸く収まったが、シュルツにしてみれば、かつてギャランには煮え湯を飲まされたと言っても過言ではない。
「はは。まことその率直さ、まばゆいばかりでございますな」
「互いの国の繁栄を願うならば、当然だろ」
どっちがどっちに併合だか、とギャランは小さく吐き捨てた。
切れ者と名高いセリアの宰相、なれば、セリアを抱えた途端、ガーナはその内から食い荒らされるのは目に見えている、かつてアシューが懸念に懸念を塗り重ね、サーデュラスに縁談の撤回を再三箴言していたのを、ギャランは今更ながら冷えた気持ちで思い返した。
互いの温度を量るかのように、ややしばらく間を空けた後、
「実は以前より、どのようにご相談申し上げるべきかと、思い悩んでいたのですが」
ようやくシュルツは本題を切り出した。
「ふむ。それで、相談とは」
先ほどからシュルツの隣に泰然と腰掛けている男をあえて無視し、ギャランはシュルツを睥睨した。
「なんの手土産か」
「もはや申し上げるまでもありますまい」
シュルツは軽く首を回し、己の隣に座っている壮年の男を促した。
「やあ、ギャラン君、元気かね?」
「………」
あっけらかんとサーデュラスは明るい声を出した。
あまりにも朗らかな、屈託の無い声。軽く手を挙げるその様は、禁書を持ち出し失踪した国王たる背任のイメージとは到底かけ離れた明るさである。
シュルツは少し困ったように口の端を上げ、整った微笑を披露した。
「サーデュラス王は、いえ、サーデュラス前王陛下は、当セリア領内にて意識不明の状態で倒れているところを発見されましてね、どういうわけか、御仁はきれいさっぱり記憶を失われておりまして。無論、私はサーデュラス殿とは面識もございますゆえ、すぐにその御素性を察しましたが、」
シュルツはちら、と唇を舐めた。
「時既に失踪したとの情報を得ておりましたので。失踪の経緯を鑑み、率直に事実を申し上げれば御仁はさぞや混乱なさるであろうと苦慮した次第。既にギャラン王子の王位継承の儀が華々しく執り行われて後のことでございましたゆえ。周囲に与える影響を考えますと、迂闊にご報告申し上げるわけには行かぬと思いましてな。そのような経緯で、つい先日まで、ご自身で記憶を取り戻されるまで、ひそかにセリアの王宮に身を寄せていただいた訳でございます」
「成る程」
ギャランは浅く笑った。
「面白い話だな」
十年前の騒動で、惚れた女も国王たる地位も手に入れた、つまりはギャランに大きな借りを作ったガーフィルツ・ラウが、ほとんど一方的とさえ揶揄されるほど多くの利権を譲る形で両国の関係は落ち着いたが、元はといえば何かと国益を巡って小競り合いが続いていた、いわば敵国である。
「保護する義理など微塵もなかろうが」
「はは。しかし、ギャラン様が前王陛下を探して国中を走り回っておられたのもこれまた有名な事実」
―――いやな展開だな、
シュルツの話の持って行き先を察し、ギャランは胃の底がツキリと冷えた思いがした。
「おれが探していたのは召喚の書だが」
「ギャラン王は王位を拒み、執務よりも捜索に明け暮れていると。貴殿が前王陛下をお探しになる理由は、禁書を持ち出した罪を問うより何より……意に反し継承せざるを得なかった王位を返上するがため。違いますかな」
「違うね。おれが国内を隈なく回ったのは召喚の書を探し出し、」
「急に王位が惜しくなったか。あれほど王にはならぬと公言しておったのに?」
ギャランの抗弁を遮り、サーデュラスが揶揄した。
確かに、失踪した国王の跡を継いで少なくとも形式上は、国王の座に就いた。
―――王位に就いてかれこれ一年……
隠し刃の覗くが如きシュルツの話の襞を嫌って、ギャランは話の転回を試みた。
「つまり、国王の座に就いたおれを、ありがたく引取りにきたとでも?」
ギャランはそう言ってサーデュラスを見たが、サーデュラスはそれを許さなかった。
「いや」
短く否定して頭を振る。
ギャランを捉えて見据える両の眼、そこには無言の圧力が込められている。
「余と同等かそれ以上の王でなければ事足りぬのはギャラン君も承知、だからこそ政務の一切を放棄し王たる職責から逃げた。王として到底認むるに足るとは思えぬが?」
「ほう?」
だがしかし、サーデュラスは国王となったこの身を欲している、これが為に正嫡として育ててきた、およそ王とは遠い荒んだ様子であろうとも、執拗に執拗に、その成長を手ぐすね引いて待っていた筈なのだ、この身にどれほどの情念が絡み付いているか、ギャランはよく知っている。
―――この男は、そう簡単には……
「諦めた」
「は?」
「余は復位する。さてもさても余も少々我を通しすぎた、嫌がるギャラン君を無理に玉座に据えずとも、と今では思っておる。さぞ心労だったろう、だがしかし余は無事に戻ってきたのだ、この、ガーナ国王、サーデュラスがな、ギャラン君の出番はもはやない」
恩着せがましい言い草、それは労いを含んだ慈笑、というよりも蔑笑に見えた。
「持ち出した禁書はどうした」
「知るか」
サーデュラスの応えに、はっ、とギャランは失笑しかけたが。
「余は知らぬ」
真っ向からシラを切る態度にギャランは改めて真顔になった。
「なぜ今更復位する気だ」
「その理由はたった今述べた筈だが? この国はお前では荷が勝ちすぎる」
万人受けするソリッドな笑み、上々段に構えた不遜な男ぶり。
お前よりももっと良いものを見つけた、と何よりも雄弁に語るその表情、ギャランは奥歯を一度強く噛んだ、この男が王たる権力で以って国を挙げて狩りをする腹づもりならばその対象はただ一人だ。
「おれは今のこの、王たる立場を放棄しない」
「アシュー」
ギャランのその言葉を無視し、サーデュラスはその名を呼んだ。
長年もの間己に仕えさせて来た自国の宰相である。
実務に優れた男だ、ともに政務を執るならばその呼吸を完璧に合わせてくる非常に優秀な宰相、それは確固たる主従の力関係に基づいた己が手中のいわば政務の道具であり、たかが一年やそこらで効力を失うものではないことを熟知している。
貫禄ある笑顔をアシューに向けた。
「シュルツ殿を丁重におもてなし致せ。今宵は盛大な宴だ、すぐに支度にかかれ」
この表情で命ずるときは、一切の抗いも代替案の提示も許さなかった。
「この国の王はおれだ、サーデュラス、貴様の出る幕はない、とっとと出て行け何処へでも行きやがれ」
サーデュラスは、はた、と己の膝を打った。
さも可笑しそうに、蔑みを込めた眼差しで鷹揚に笑った。
「父王への口の利き方も知らぬか、安いメッキはすぐに剥がれるな……何が王だ」
つまらぬものに随分と無駄な投資をした、そう吐き棄てるように言うと、
「アシュー、何をぼやっとしとる!」
その場で硬直したままのアシューを一喝した。
「は、いえ……」
アシューはギャランに視線を投げようとしたが、
「そんなバカ息子、ほうっておけ! もはや王子でもなんでもないわ、廃嫡する、余はすぐにでも王位に復帰する、今宵からこの王宮に暮らすぞ、以前のようにな。些事は宰相たる貴様に任せる、くれぐれも良きに計らえ」
一度は仰いだ主を捨てよと、残忍さの滲む確固たる命令がアシューの背中を強く打った。
容赦なきその勢いに押されてつい中腰に腰を浮かせたアシューに、サーデュラスは己の足先に跪くことを要求した。アシューはそのまま席を立つと、サーデュラスの足下に歩み寄り、深く頭を垂れ丁重に跪いた。アシューにとって、サーデュラスに跪き臣下の礼をとることはもはや反射的、命ぜられれば応ぜざるを得ない類の、長年にわたり骨の髄にまで染み込んだ仕草である。
アシューがあっさりとサーデュラスに折れた、それは隣で見ていても、明白な事実だった。
それは、
なんともいえぬ喪失感だった。
ギャランはただただ沈黙してそんなアシューの跪く様子を見て。
―――いったいおれは何を望んだのであろうな、
頭を垂れたその首筋に、魔除けの鎖がちらりと見えた。
魔除けを掛けさせたらてきめんこのザマだ、とギャランはつくづく実感して。
おれが人に愛される、というのは所詮はこの血の所為だ、本当のところ誰かに望まれることなど無いのだろう、そんな実感が沸く。
そこへ、がちゃりと唐突に応接室のドアが開く。
人払いをしていようが、どれほど剣呑で重要な話をしていようが、相手のことなど全くお構いなしでドアを開けて入ってくる人間といえば一人しかいない。周子だってそこまでは、さすがに国賓の応対を邪魔するほどには無遠慮ではない、
ギャランは反射的に腰を浮かせた。
「来るな! イーヴ!」
「……まあ!」
途端、イヴが華やかな声を上げた。
部屋の中をぴたりと見据え、彼女はぱあっと、まるで大輪の花がほころぶかのように優雅な、満面の笑みを浮かべた。
ギャランは、しまった、と思った、こうなるとイヴは何を言っても聞かぬ。
ドアの方を見遣ったサーデュラスの目が驚愕に見開かれる、その表情にたちまち動揺の色が浮かんだ。
「イーヴ……」
かすれた声で呟く。
そして、弾かれたようにソファから飛び上がるや、その背を越え後ろに大きく飛び下がった。
そのまま二三歩、後退さる。
先ほどまでの傲慢さとはまるで違った、逃げ出すかのような及び腰、サーデュラスはドアの方を指さすと、震える声で叫んだ。
「な、なぜお前がこんなところをうろついておるのだ!」
「王が、地下の石牢から出してくださいました。サーデュラス、お会いしたかったわ」
喜色満面の華やかな声、ぱっ、と駆け出したかと思うと、ソファの後ろから逃げ出そうとしたサーデュラスの胸に勢い良く飛び込んだ。
「サーデュラス!!」
そのままサーデュラスごと床上に転倒。
「おっと……」
何が起こったのか盲目の身には分からぬであろう、不明の色濃い困惑の声。シュルツは二人がソファに当たった強い衝撃に小声を漏らした。
「離れろ、イーヴ、そいつはお前を棄てた男だぞ」
苛立ちを露わに厳しい声でギャランはイヴを一喝するが。
「ええ、止しますとも、あなたのご命令ならば。サーデュラス」
おれの話を聞け! とギャランが怒鳴るが、イヴは嬉々としてさらにいっそうサーデュラスに取り縋った。絞め殺さんばかりの勢いで頬を摺り寄せる。
「会いに来てくださったのですね! サーデュラス!」
「余を放せ!」
サーデュラスは怯えと嫌悪の入り混じった表情で間近にイヴを睨んだ。
力づくでその身を引きはがす。
「お前になど、会いに来るわけが無かろう! 触るな、この、下賎な魔物め!」
「でも、こうして会いに来てくださいました」
「違うわっ!」
思いっきりイヴを突き飛ばすと、苛立ちの色濃く否定して。
「余はそこな愚息を始末しに来たのじゃ、」
サーデュラスの言葉に応じギャランは腰の剣に手を掛けるが、イヴは二人の間に割り入るようにしてサーデュラスの前に立った。
「私が翼を持っているのが、それほどに気に食わないのですね? ちゃんとおっしゃるとおりに畳んでいるのに?」
「そんな話は必要ない!」
お前は昔っから頭が弱いな、とひと唸りして。
「私のような人外の者を愛する気持ちが芽生えたのを御身は直視できずにいらっしゃるのね」
そう言って首を傾げるイヴ。
青い瞳でじいっとサーデュラスを見つめ、やがて、にこりと、
「……かわいそうな人」
「うるさいわっ!」
サーデュラスが怒鳴った。
苛々した様子で髪を掻き毟ると、残忍な表情になってイヴを睨みつけた。
「余には使命があるのだ、愛した女を蘇生させ、再びこのウデに抱くというな! 余が愛しているのはアレじゃ、アレに命をかけているのじゃ、余計なことを脇でごちゃごちゃ言うな!」
だがイヴは、さやかに涼風でも吹いたかのように小首を傾げただけで。
そして、軽く微笑んで。
「死んだ者への恋情にとらわれるのは、呪いか病か、等しゅうございますわ」
「お前が言うな! 誰とでも寝るくせに! お前の術など余には効かぬ、余がお前を憎んでおるからだ、このっ、下賎な魔物め!」
どれほどの男と寝た! と激しく罵ると、サーデュラスはイヴの細い首を掴んで勢い良く床に叩きつけ、腹を強く蹴り上げた。
鋭く短くイヴの悲鳴が上がる。
「何しやがる、サーデュラス! 相手は女だぞ!」
ギャランが咄嗟に割って入ったが、
「女? 女だと……ははっ」
大丈夫かイーヴ、と優しく抱き起こすギャランの姿を見、いっそうサーデュラスは頭に血が上ったらしかった。
「女? これがか? この下賎な魔物がか? 外道はどっちだ、この出来そこないめ! 貴様も貴様だ、何のためにこの世に生を与え、これまで生かしてやったと思うておる! それも、挙句に、よりによってこの気狂い女に肩入れする気か!」
ギャランごとど突くとイヴを床に落とし再び蹴った。
鼻息荒く罵声を浴びせながら足蹴にしようとするのを、再び庇ったギャランに、
「なるほど、この穢らわしい娼婦をあの地下牢から出したと? 貴様が? ははあ、この淫らな魔物は実の子である貴様さえもたらしこんだか!……ヤったな? 抱きおったな!」
ギャランを見据える両の瞳にギラリと殺気が宿った。
憤怒のボルテージが一気に頂点に上り詰めた。
「でなければこやつが今なお生き長らえておるわけがないな!」
「陛下、少々落ち着かれてはいかがです? サーデュラス」
シュルツが、圧倒的な威圧感を込めた声を、一声ビシリ、と発した。
不意に強力な重力場がそこに生じたかのようだった。
すべての言の葉、すべての無駄な諍いや勢いが、一遍に床に落ちた。
圧倒的な重力だった。
ギャランは、声の主を見た。
ギャランの立ち位置からは、ソファにじっと背を預けたシュルツの後頭、その白髪しか見えぬ。
その盲目の男は、一体何を見ているのか。
「失踪した陛下が急に現れ、年若なギャラン様もさぞ動揺していることでございましょう」
喧騒を打ち切る冷たい声が、凍ったその場にしんと沁みた。
「ギャラン様はまだまだお若い、不測の事態に動揺なさるのも分かる、ご子息が反発なさる王宮に身を置くのも落ち着かれますまい、万が一ということもある。……いかがです、今日のところはひとまずセリアにお戻りになられて、後日改めてガーナにお戻りになるというのは。よろしいですね、サーデュラス陛下」
ギャランのことを若いと詰りつけ、シュルツはサーデュラスにそう命じた。
そうして杖を手繰ると、ソファから立ち上がる。
長身の肉付き薄い体つき、だが仕立ての良い上等な濃紫色のスーツを着込んでいる所為か、すらりと涼やかに、不思議なほど見目良くまとまって見えた。
一見地味な、だがそれはただの先入観で、その立ち姿には華やかな高級感、立ち上る香気にも似た格高さのようなものがある。
細身のすらりとした背中は涼しげで。
此の世の情欲とは一切無縁の清涼さ、何処か、この世のものとは思えぬ清冽さがあった。
「イヴ殿、ね……はてもさても、このような情欲の獣を宮中に放し飼いにするなど、ギャラン様は風紀というものはご存知ないのかな?」
杖を突き片足を引きずりながら、シュルツは数歩ギャランのほうに歩み寄った。
「ははあ、ご自身もその血を半分引いているからですかな、獣同士の情ですかな? 羽根を落として常人と変わらぬ振りをなさっても所詮は所詮……確かに御身は人心を惹く、だがその求心力は以って生まれた情欲の獣たる能力故ともご承知の筈。王たるべくそのような力に頼ろうとは、はは、情けのうございますな」
「シュルツ・ゲッターフィールド、貴様何を知っている?」
ギャランが低い声で凄んだ。
―――イヴのことを知っている、
セリアの宰相がギャランの出生について言及するのであれば、それはもはや政治国益云々ではない、もっと根深い執着を知っているということだ、今更ガーナの国家権力の頂座に就いて、サーデュラスとこの男は一体何をしようというのか。
―――どうにも、ただで帰すわけには行かぬ気がする、
退出しようとするシュルツ、ギャランは音を立てずにその先に立ちはだかった。
前を塞いだギャランの明らかな殺気、だがシュルツは動じる様子無く、くつりとひとつ喉を鳴らした。
「さあて。それよりも何よりも、私が聞きたいことの方が多すぎる」
おもむろに手を伸ばす。
ギャランの左二の腕をぎゅっと抓り、引き寄せるようにしてその耳元へ口を寄せた。
「分不相応な拾い物をしたな」
左二の腕、召喚の種なればタトゥーのあるべき位置である。
すなわち周子の事だと察した瞬間、ギャランは言い知れぬ恐怖にも似た強烈な憤りを感じた。
「貴様!」
シュルツの手を払うなり腰の剣に手を、
―――抜くな! 若造!
刹那突き抜けた、背骨を裂かれたかの如き痛み、呼吸いや実際心拍すら一瞬止まった、という認識とその直後にどっと押し寄せた強烈な身体からの警告、そのひどい動悸と不明の拘束感に、ギャランは、がっ、と喉を破るような呼吸を吐いた。
瘴気にも似た何か、痺れるようなララクロノフの制止意識の介入を身体に知る。
柄を握ろうとした指がびくとも動かぬ。
―――ヘタに挑発にのるでないぞ!
「トリ、てめ……!」
呻いた拍子に、禍々しい何か、饐えたおぞ気が一瞬喉元まで込み上げた。
「トリ?」
アシューの戸惑った声が小さく聞き返すが。
「なんだ、抜かぬか。まあ、賢明な判断だが、ふん、そんな剣の言いなりか、一国の王たる者がそのような下賎なトリの言いなりなど、まるで形無しだな」
「なんだと! 何言ってやがる!?」
「あれとはまるで不釣合いだな」
シュルツは失笑、吐き棄てるかのように短く呟いた。
「あれってなんのこった!」
―――殺す!
そう思った途端、堪え難いほどの痛みが身体を緊縛した。
ララクロノフに身体を抑えられることがあろうとは、全くの予想外だった、まして、己の身体の制御に他者が介入するなぞ、そんな感覚は剣の腕に自負ある者としてひどい屈辱以外にない、が―――、
それより何より、
シュルツの言うところのものが何か、聞かずにはおれぬ。
そして、聞かずとも察せられる、それが、どうしようもなく、怖い。
絶望にも似た確信の予感、自ずと呼吸が浅く荒くなった。
―――抜いて、いますぐ、この男を、殺さなければ、
「トリ、放しやがれ、てめぇもぶち殺すぞ」
「ギャラン様、おやめください!」
怒声の如き叱咤とともに今度こそ力強く柄を握ったギャランに、アシューが悲鳴に近い声を上げ腰にすがりつく、その制止する様をシュルツは当然の如く聞き届けて。
「血気ばかり盛んな年若な王を御するのは大変だな。サーデュラス殿を失い、貴殿も相当な心労だったとか。ここ一年で急に老け込んだとか聞くがね?」
セリアへ来るならば厚遇しよう、と言いたいところだが、アシュー殿はここガーナにこそあって欲しい御仁だ、サーデュラス殿のために貴殿が為すべきことは沢山ある、相応の見返りは私が保証しよう、とシュルツは浅く笑って、
「陛下、今日のところはこれでお暇しませんかね?」
軽い口調で話を打ち切った。
「アシュー殿は大変に優秀なお方だ、経験豊富で貫禄あるサーデュラス殿を擁いたほうがはるかに国益になると判断できる冷静な理性をお持ちだ、数日間を空ければ、アシュー殿がサーデュラス陛下をお迎えする準備を万全に整えてくださることでございましょう」
有無を言わさぬ威圧感でシュルツはアシューに申し付けた。
杖を突き片足を引きずるシュルツの独特な靴音、それが廊下の向こうにすっかり消えて後、ギャランはどさり、とソファに腰を落とした。
「トリ! 奴、ってまさかあのうすら白い奴のことか!」
「…………」
ララクロノフはまさに無機物の剣の如く沈黙。
腰骨が痺れるほどに響いていた真っ二つの剣の恐ろしいほどの緊張がぴたりと止んだ。
ギャランは眼球が攣れるような脳底を焼く熱い痛みにしばし目を伏せ、肩の震えと利き手の痺れを逃す。
手のひらを握っては広げるを繰り返しながら、
「あいつはもう十年も、いやそれ以上も前からセリアの宰相だ、昔っからおれはあの男を知っている、周子のようにひょっこり現われたんで無く、すでに昔からこの世に現実に存在していた男だ、それがなぜ周子のことを言う? つまりはサーデュラスも周子のことを知ってやがるな、わざわざ復位すると出向いてきたのは、つるんで何たくらんでやがる」
「誰と話しているのです、王」
「腰の剣だ」
「王……、剣は、しゃべりません」
常識顔でアシューが呟いた。
ギャランの腰掛けたソファの側に跪くと、アシューは困惑の色濃く滲んだ表情でギャランを見上げたが、彼にとって王に接する態度として当然のその態度は、ギャランにしてみればサーデュラスに見せた姿勢と寸分違わぬそれでもあり、ギャランは胸の奥が不快に冷えた。
「なぜ止めた、あんな気味の悪い白男、がつんと一発」
「彼はセリアの宰相です、あなたは戦争でも始めるおつもりか」
アシューがすかさず窘めた。
その表情は慎重にして硬い。
この一年、おろおろとギャランの周りを冷や汗拭いつつ走り回っていた男とはまるで別人、利を量るその表情は、思慮深く世知に長けたまさに一国の宰相の顔である。
―――そういえばこの男は、サーデュラスを前に執務中はずっとこんな真顔ではなかったか。
そう思って黙ってアシューを見た。
―――だがお前はそんな面で、王にサーデュラスを望むのだろう?
「セリアが欲しいのは勿論この国です」
そう言ってアシューはギャランの瞳を捉えた。
「ギャラン様、あなたはこの国の王です、なぜなら、あなたは正当な手続きを踏んで王位を継承したからです。王位を継承した、そのことこそが、王たる者にとって最も重要なことでございます。一年前に、確実に、王位は移っているのです。今更王位を返還するなどあり得無い。代々ガーナ国宰相職たる我がヒラルテック家はこの原則をこそ固持します」
「へ、へえ?」
アシューの意外な言葉に、思わずギャランは珍妙な声を出した。
「お前にそんなこと言われるとは思ってなかっ……」
「我々臣下や国民は、国の安定と他国との平和的関係を望んでおります、十年前、万事整った政略結婚を反故にしたのには心底肝が冷えましたが、だが結果は悪くない。私はそれを評価しています、平和が適わなければ、我々臣下は国王といえど排除せねばな……」
途端にギャランの心は凍った。
「据えたり除けたり、わがまま放題だな、臣下という輩は」
「王、」
私が申し上げたいのは、と曲解された予感にアシューは言葉を補おうとしたが、
「言うな、アシュー、おれは退かぬ、絶対に退かぬ。シュルツ・ゲッターフィールド、あの男が狙ってんのはこのガーナじゃあねぇぞ、周子だ! 国なんざあわよくば、の二の次だ。ああ、宣言するぞ、おれは王だ、ガーナの国王、ギャラン・クラウンだ、退かぬ、誰が否定しようがおれは王になる、たとえお前でも、おれに逆らえば殺すぞ、覚悟しておけ!」
アシューは沈黙し低く長く唸った。
その冷静さがいっそうギャランの苛立ちを煽った。
王としてサーデュラスを選ぶ、そんなことは分かりきっているのに、それでもなおおれをこの国の王だと言って冷静に状況を読もうとする、そう思うといっそう腹立たしかった。
「今剣を抜いても良いが、お前なんざ剣の錆にもなんねぇ、今すぐとっとと荷物まとめて新婚のかみさん連れてセリアへ逃げやがれ。おれは武力でもなんでも、軍だろうが魔物だろうがなんだろうが行使しうる限りのすべての力を使ってこの国の王になる、本気だ、本気だぞ! とっとと出て行きやがれ!」
アシューを部屋から蹴り出し、ギャランは乱暴にドアを閉めた。
後ろ手にドアを閉め、ふー、と低く息をついた。
どうしようもなくがっつり落ち込んで。
―――畜生、なんだってんだ、おれがなにか悪いことしたか
「若造」
不意に掛かったその声に、
「なんだ! トリ! キッサマよくもぬけぬけと再びこのおれに声を掛けることができるな!」
振り向けば、いつのまにか鴉に姿を変えたララクロノフが上等な革張りのソファに鋭い爪を立てこちらを見ている。
小さな丸い黒い目が、殺気に満ちた色を湛え炯々と光っている。ぞっとする程生き生きとした妖しげな輝きだった。
「乗れ」
たちまちギャランが両眉を顰めた。
「乗る? なにに、どうやって? そんなチッコイ鴉の背中にか? 乗ってどうするってぇんだ? ははあ、先ほどの無礼を死んで詫びるとしかも潰れ死にさらす気か、いよしまかしとけ」
「バカ者。では、まずは跨れ」
ララクロノフは再び剣の姿になると、カラン、と床を打った。
ギャランは首を捻りつつ、真っ二つの剣を床から拾い上げ、
「跨るって、こうか?」
訝しがりつつ、柄の部分を両手で握り、剣鞘に跨った。
そして思いっきり首を捻る。
「えー? やーだなー、これ、こんな風に乗るのか? カッコワルー。これがホウキなら魔女だぞ? バカ丸出しじゃねぇか、おい?」
「つべこべ言うな、タチバナがピンチじゃ」
「なにぃー! 飛べ! 飛びやがれ! 早く飛べ、おれを連れて行け、畜生!」
金髪を逆立て、ギャランはぎゅむぎゅむとその柄を握り締めた。
「首を絞めるな!……ああまったくぎゃあぎゃあうるさい若造だの!」
ララクロノフは身を震わせると、ばさり、と大きな鴉の姿になって窓から飛び立った。
[tog]85:不躾に伸びる手
Created: 2007-12-06 Modified: 2007-12-07
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- 2007-12-06 14:23
- カテゴリ : 「タトゥー・オブ・ギャラン」/長編/連載中
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