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[tog]87:あの男はバカで強い

「ああ、顔色もすっかり良くなりましたね!」
 カズマ回復の知らせを聞いてその居室を訪れたルシウスは、上機嫌でカズマの腹をぺろりとめくった。ブルーピクシーに噛まれた痕が薄くなっているのを、指先で触れて確認する。
 カズマは、不愉快極まりない、といった表情で、早速その不躾な手を払った。
 シャツの裾を引きながら、
「三日も眠っていたと侍女に聞きましたが」
「ええ」
 ルシウスはにっこりと微笑んだ。
「おかげで伺候する準備はすっかり整っていますよ」
「……………」
 たちまち長い間が空いた。
 カズマはたじろいだ眼差しをルシウスに向ける。
「………本当に、王宮へ行くのか?」
「もちろん! 見目麗しき若き新国王のために、私、腕振るっちゃいますよ?」
 軽いノリで腕をまくってみせるルシウス、舞った銀髪がキラキラとまぶしい。
「……見目麗しき若き新国王……どの口でそんな……」
 つい先日まで、一国の王をしてあの男、と呼ばっていた従兄弟である。
「……なんだかむしろ断りたくなってきたな……」
「つれないなぁ、こないだの晩はあんなに目に涙溜めて私にお願いしたじゃあないの!」
「誰が!」
 カズマは短く叫んだが。
 ルシウスは柳に風といった具合にぽんぽんとカズマの肩を叩くと、落ち着いた声を出した。
「まあ、心配しなくていいですよ? 可愛い私のカズマのためです、ほんとの所、お前に直に頼まれて、断るワケがありません。私も男です、二言はありませんよ。王も惚れ直すほどの辣腕を揮いますから、その点は大いに安心してください」
 そんなルシウスの言葉に。
 カズマは従兄弟ルシウスをじっと見詰めた。
 ルシウスの政治的手腕は、それはそれは期待できるだろう。そもそもそれを見込んで、わざわざこんな辺鄙な彼の領地にまで出向いてきたのだ。
 だが、彼をやる気にさせることが出来るとは正直、まるで思っていなかった。と、いうよりも、やる気を起こさせた理由が、不穏すぎる。
 ルシウスはにっこりとカズマに言った。
「でね、カズマ、彼女を私に預けてくれませんか?」
「お断りします」
「早っ!」
 カズマはぴしゃりと拒むと、手早く上着を羽織った。
 エンヴィ、と一声鋭く呼ばって。
 だがすぐに返るべき声が無いことに、カズマはたちまち不機嫌になった。

 ―――周子が逃げたか、あるいは、周子をどこかに連れ出したか。

 咄嗟に脳裏を過ぎったのはそのことだ。
 ―――この三日間、眠っていた間に何かあったか、ルシウスに問い質すべきか。
 だがしかし、騒ぎになっていないことを思えば、問題はあるまい、むしろルシウスに問い質すほうが藪をつついて蛇を出すことになるだろうと思い直し、カズマはルシウスにただ冷たく剣呑な瞳を向けるだけにとどめた。
「彼女については他にも所有を申し出ている者が大勢います。あなたは既に大きく出遅れていますし、絶対太刀打ちできませんよ。王、ラインハルト、そればかりか、私の父ルドルフまでもが彼女の世話をしたいと言い出しています。おまけにイヴ殿は後宮へ連れて来いと。……いかがです、そうそうたる面々でしょう、もっとも、後見人は、私ですが」
「いいですよ、そのリストの一番最後に加えておいてください。リストなんてのは、前に並んだ奴らを蹴落とせば順番が繰り上がるものなんですから……ぐふう!」
 こぶしを鳩尾に食らって、ひ弱なルシウスはがくりとひざを折った。
 カズマは冷たく呟いた。
「やはり一生、アラカンサスモートで隠遁生活を……」
「じ、冗談ですよ……?」

 エンヴィ、と再度声高に呼ばって部屋を出て行こうとしたカズマを、ルシウスは強引に食堂へ連れ込み、
「お前は頭でばかり食欲がないだの胃が痛いだの言ってますが、実際食べて御覧なさい、ほら、身体は正直です、食べればもっともっと食べられる筈です」
 若者は若者らしく、上背ある立派なその身体は本来燃費が悪い筈なんだからもっと食べて当たり前、体力をつけなくてはなりませんよ、とルシウスは一方的にまくし立て、食欲がないと拒むカズマの口に強引にフォークを突っ込んだ。
 確かに、口に入れられた料理は驚くほどすんなりと落ちて行き、たちまち食欲が増すのを感じた。三日間眠り続けていたという事実を、改めてカズマは己の胃の腑に知らされて。
「その身体に食欲を知ったなら、御自分のお手で召し上がりなさいな」
 たちまちカズマは真っ赤になった。兄の手から食っていた事実に、すぐさまルシウスの手からフォークをひったくる。
 ルシウスは、改めてテーブルの向かいに陣取ると、ひじを付きあごを乗せた。ゆるりとくつろいだ様で、カズマが何度邪険に追い払おうとしても、いいじゃないか、これから先忙しくなるのだろうし、こんな風にのんびり従兄弟風吹かしてもいられなくなるでしょう? と言ってそばを離れようとしない。
 ―――ルシウスがこんなときは、大抵、
「兄上、なにか仰りたいことでも?」
と言うと、ルシウスの灰色の瞳は上機嫌な猫のように細く引かれた。正解の手応え。

「彼女、反省してたみたいですよ? ろくでなしの件」
「…………………」

 ルシウスは軽く腕組みをすると、ちら、とカズマを見た。
「お前はまだあの男に夢中なのですね」
 カズマは動揺することもなく、何食わぬ顔でルシウスに返す。
「構わないでしょう、別に」
 ああ、こりゃ重症だわ、とルシウスは両手を上げて首を振った。
「世界経済の要たるグランツが、一国に肩入れするだなんて、まして、たった一人の男にそれほど入れ揚げて」
「グランツ家の立ち位置は私がよく理解しています」
 潔癖な口調。
 そこに透けて見えた冷酷ともいえる冷静な事業家の魂に、分かってるならいいわ、と、ルシウスはすぐに退いた。
 話の先色を変える。
「お前、浮いた噂の一つも無いし」
「べつに、要りませんし。ルドルフがまた何か言ってたんですか?」
 ルシウスは微笑む。
「言ってた言ってた。結婚させねばー! っとね。お前のために、子を産みそうな女を何人かキープしてるみたいだし」
「人権侵害ですね」
「ふふ。どっちの?」
「無論女性のだ」
 ルドルフのことだ、事前に不躾な検査を行ったに違いない、とカズマはしかめっ面をした。
「ルドルフはお前の子を見たいのですよ。伯父御もそろそろ家督を譲る気なんでしょう」
「家督を継ぐのは吝かではありませんが、結婚が条件だなんて。ましてや子供だなんて、ナンセンスです。実子だからとて優秀とは限らない、我がグランツの将来は次代宗主たる私に一任して当然だ、ルドルフが口を出すことではないですよ」
 そうはっきりと言い切ってから、
「……兄上は、なんの話を、どこから、耳に入れているのです?」
 ああ、そういえば、以前うっかり周子をルドルフに引き合わせた、あの時の、周子と結婚するとかそんな話はルドルフからルシウスにもう伝わってしまっているんだろうか、と思い至るなり、痛烈な頭痛を覚えた。
 ―――何を今更。詰めるにしても、もう、すでに、なんだか著しく順番を取り違えて……
「もうすでにいろいろと間違いを?」
 眉をへの字に下げて、痛いわねぇ、首を振るルシウス。
 この男は一体何を、どこまで知り、どうしようというのだろうか、長年その性質をよく知っている従兄弟ながら、いや、それだからこそ、余計に、なんだかひどくぞっとした。

 そこへエンギワルーがぬっと姿をあらわした。
「エンヴィ、一体何処へ行っていた!」
 カズマの怒声と共に、ぱん、と音高にフォークをテーブルに打ち付ける音が響いた。
 突如としてカズマの苛立ちを一身に受ける破目になったエンギワルー、甚だ面食らいながらも、ひとまず深く一礼して。
「いえ、その。失礼致しました。お呼びで?」
 しとどに汗をかいている。
「私が用事をお願いしていたのですよ」
 ルシウスがさらりととりなすが。
「ルシウス、私の従者を勝手に使うな、従者ならここにも他に沢山いるだろうが!」
「ええ。でも、彼が一番優秀です。優秀な……レーダーを積んでいます、経験という名の」
「レーダー? 何の?」
 エンギワルーは恐縮した素振りで再度一礼してさりげなくカズマの追及をかわすと、ルシウスになにやらそっと耳打ちした。
 ルシウスはにこりとした。
「ではそのまま馬車にのせなさい」
「馬車?」
「出立の準備は整っています、食事が済み次第出立しますよ。とにかくお前は馬のように食事を上がりなさい。馬のようにたんと!」


 帰り支度の整った馬車、乗り込もうとしたカズマは、たちまちに不機嫌になった。お前がついていながらこれはどういうことだ、とわざわざエンギワルーを呼びつけて難詰したほどだ。
 馬車の座面で寝こけている周子を指差し。
 ―――丁寧に拭ったようには見えるが、
 エンギワルーがさりげなく自分の身体の後ろに隠したそれを、カズマは見逃さなかった。彼の手から、その温かく濡れた手拭きを取り上げる。
 茶褐色の汚れに鼻を近づければ、鉄錆のような匂い。
 肌についた汚れは拭えても、では周子の着ているあの細い紐つりのキャミソールに幾つも散っている茶褐色の染みは、乾いた血飛沫か、そう思うなりカズマはぞっとした。
「若がご心配なさるようなことはなにも」
 心配を拭うべく掛けて寄越したエンギワルーの、落ち着いたその声に。
 カズマは、いまさっきの瞬間、どれほど迂闊な表情をしていたことか、そう思うなり、嫌な血圧が上がった。
「あ、あたりまえだろう」
 どうも調子が狂う、とギクシャクと馬車に乗り込むが。
 次の瞬間、カズマはまたもギョッとした。
 エンギワルーが後ろから続いて乗り込んできたからだ。いつもの仏頂面のままで。
「失礼致します、若」
 カズマの馬車に同乗してきたエンギワルーは、さも当然といった具合に、座面で眠っている周子を抱き上げ、腕の中に横抱きに抱えた。そうして静かに腰を下ろす。
「…………なんだ、それは」
「馬車の揺れで転げ落ちてはいけませんからな」
 カズマの視線を受け、エンギワルーは真顔でそう答えた。
「ではお前の馬車に乗せればよいであろう」
「はは。若の馬車が一番サスペンションの具合も良く、揺れも少ない。疲れきった周子殿にはこちらの馬車のほうが良いとのルシウス殿のお心遣いでございますが」
「だから! なぜ、周子がこんなにもぼろぼろなのだ! 何をさせた? 何の無理を?」
 とうとう、カズマは目が覚めて以来ずっと聞きたかったことを口にしたが。
「大きな声を出されるな。目を覚ましてしまいます」
 詰問はあっさりとかわされた。
「こういうときの周子殿には休息が最も必要であることは、若とてお分かりでしょうに。眠りを妨げなさるな」
「いやしかしだな」
「では、若が抱きかかえますか?」
「拒否する」
 ぴしゃり、と、この会話は唐突にカズマが終了させる形になった。

 しばしの間、馬車の走る音だけが響いた。
「それにしても、体調はよろしいので? あと幾日かルシウス様の御領地でゆっくり養生なさった方がよろしかったのでは?」
「いや。兄上の気が変わらぬうちに王宮へ行く」
 潔癖な素早さでそう答えてから、ふむ、とカズマは頷いて軽く首を回した。
 そうして、ようやく少しリラックスした表情になって。馬車の窓から、木々の深緑に目を遣る。
「むしろ調子がいいくらいだ。三日も眠ったからかな。休息といえばよい休息ではあったかもしれない。このごろは多忙でずっと働き詰めだったから」
 それはようございました、とエンギワルーはほんのりと目を細め、滅多に見せぬ微笑みを浮かべた。
「ブルーピクシーの毒とやらは、一度噛まれれば軽く一週間は寝込むと聞きましたからな。あれほどにひどく噛まれて、ほんの三日で済んだというのは、まこと、ありがたいことでございますな。安心致しました。それにしてもルシウス殿も、医者要らずとはよく仰ったもので……一家に一人は欲しいものですな」
「何をだ」
 おや、とエンギワルーはかすかに眉を上げ、次いで、いえ何でも、と唇を閉じた。
「エンヴィ、」
 詰問の色濃い主の眼差しを待って、エンギワルーはちら、とほんの少し口角を上げた。大人の稚気が滲む。
「ははぁ。周子殿一人おれば医者要らずだなと」
「……周子が何かしたのか?」
「ルシウス殿がお詳しいようですよ? 私はあいにくその場におりませんで」
 途端にカズマは苦虫を潰したような顔になった。
「……噂になるようなことか?」
 エンギワルーはしばし沈黙した後、
「ルシウス殿の御領地はいずこを切り取っても見事な景色でございますなぁ」
 そう言って窓の外に流れ往く景色に目を馳せた。
 ―――この顔は絶対に口を割らない顔だな……
 カズマはひとつ咳払いをして。
「……次の休憩地点まではあとどれくらいだ?」
「今日は日が沈むまで飛ばしっぱなしですよ」
「ルシウスと少々話がしたい、停まれ」
「急ぎ王宮へ帰る、飛ばせ、と仰ったのは若ですよ。これはルシウス殿が、特別の特別に調達したはや馬です。一度走り出したら停めることは出来ません、特別に調教した駿馬揃いの、格別に仕立てた超高速豪華馬車ですよ? 無理です」
 エンギワルーはご冗談を、と軽く流そうとしたが、主人の揺れぬ眼差しに本気の色を見ると、たちまちギョッとした表情になって慌てて首を振った。
「急には止まれません、御無体を仰られるな。馬が足を痛めてしまいます」
「構わぬ、停めよ」
 カズマは不機嫌にきっぱりと言いつけた。


 強引に馬車を停め、ルシウスを呼びつけたとき、ああ、とカズマは思った。
 分かったのだ、ルシウスは待っていたのだと。
 長い銀髪を揺らしながら、ルシウスが颯爽と馬車から降りてくるのを見た。
 ―――ルシウスは当初から全力で私をからかい倒すことを決めていたのだ、王宮へ至る道中の慰みに。
 ―――馬の足を痛めることまでも、計算済みだったのだろう、となると、おそらく……
「寝顔が可愛らしいわぁ」
 ルシウスは閉じた扇子の先で、エンギワルーの腕の中の周子の鼻先にちょいと触れると、さっさとカズマの馬車の座面に腰を下ろした。そして、優雅に扇子を振ると、馬車を出立させた。そのスピードはごく普通の馬車の速さである。
「せまい。あなたにはあなたの馬車があるだろう、それに乗ればよいではないか」
「あなた、私の特別仕立ての駿馬を、二頭も足を折らせたのですよ、おだまり」
「ぐ」
「足は勿論、あとで周子に治療してもらいます。医者要らずとはこんな意味で言ったのではないんですがね。私は、周子殿による治療のあてがあるからとて、故意に馬の脚を痛めてもよいとは全く思いませんがね、若」
 エンギワルーの声は冷ややかだ。
「いや、それはまずいだろう、周子は疲弊してこんなにぼろぼろだ、呪文なんて」
 慌てて首を横に振ったカズマだが。
「罪も無い馬に足を折らせたのは、他ならぬ、若です」
「ぐ」
 周子には若から頼んで頂きます、とエンギワルーに言いつけられて。
 カズマは額の汗を再び拭った。
 ―――どうにも、敵の数が増えた気がする、なんだこれは。


「…………」
 目を覚ました周子は、しばらくの間硬直して。
「……目を覚ましたら仏頂面のスキンヘッド、どっかで見た覚えのある光景だわ」
 そう呟いて。
「しかも今回はその腕の中ときたもんだ、うわあ何の嫌がらせ?」
 周子はエンギワルーの腕の中から身を起こすと、狭苦しくなった馬車の中の面々を見回して。
「ギャランは?」
 真顔で問うた。
 飼い犬が、主の所在を問うときはこんな表情だろうか。
 さすがにこれには誰も言葉を返せなかった。
 まんじりともせぬ沈黙が生じ、そうしてからようやく、周子は自分が失言を発したのに気づいたようだった。
 うわあ! と叫んで。
「いや! イヤイヤイヤ、意識を取り戻して坊さんみたいなこのハゲ頭を真っ先に見たらさ、ななななんか、ずっと昔の事思い出しちゃった、それでさ、それでだよ! そそそそそういやあン時お屋敷壊したんだった、ごめん」
 ハゲハゲと連呼しながら、失言ゆえの赤面を誤魔化すように大袈裟な身振りで手を合わせ、頭を下げた。
 まあ確かに、あの頃に比べればずいぶんと素直に打ち解けるようになったものだ、とカズマは思う。
「……いえ」
 ほんの少し微笑んだ。

 エンギワルーがすかさずツッコんだ。

「若、不謹慎に笑っている場合ではありませんよ」
「ぐ」

 静かな怒りを湛えたエンギワルーの圧力にようやく渋々と事情を話したカズマだったが。
「なんでもっと早くに起こして言わないのよ!」
 ものすごい勢いで左頬を張られた。軽くメガネがすっ飛んで。この女に頬を打たれるのは一体何度目だろうか、とカズマは思った。
「なんてかわいそうなことを。鬼!」
 鬼、と復唱して笑いを堪えるルシウスの気配が憎い。
 こんなところまでルシウスの仕込みがきいているのか、と思うなり、本当に恐ろしい男だとしみじみ思った。
 周子はすぐに馬車を止めさせると、馬車の列の最後尾の荷台に積まれた二頭を見、すかさず治癒呪文を唱えた。
 だが、途端にくらりと体が揺れて。
「大丈夫ですか?」
 カズマは咄嗟に周子の身体を支えたが、
「うるさい! あんたに心配される覚えは無いよ、非道!」
 その一喝に、これまで笑いを喉の奥に押し殺していたルシウスが、もうたまらない、といった風に声を上げて笑った。弾かれたように周子が振り返る。
「おっと、そう睨むな、周子姫」
「そうよ冷静に考えてあんたがロレンスなはずがない。あんたは信用できない」
 鋭い刃物でも放つかのような息継ぎで周子は返した。
「ですがあなたはもう分かっているはずだ、私相手には恩を売っておいたほうがよいと」
「なぜ?」
 またも小刀を喉許に突きつけるが如き鋭く端的な問い。
「王が、私が味方につけば心強いと言ったから?」
 周子の黒目が丸くなる。
「…………ギャランが言うならね」
 数拍の沈黙の後、不意に毒気を抜かれたように、やれやれと溜息を吐いて周子は黒髪を一度掻き上げた。そしてバリバリと数度、頭を掻く。
 周子が一歩退いたのが明白なその状況に、カズマは、
「ルシウス、なんだそれは、まだ何かあるのか」
「ほら、姫が身構えると、余計なおまけが騒ぐ騒ぐ」
 ルシウスは上機嫌に笑って。
「なあに、ちょっとお掃除の手伝いをね、お願いしたのですよ。王宮に伺候する条件だと申し上げたら、いともあっさり了承、見事に魔物どもを駆逐してくださいました、これで安心して領地を留守にできるというものです」
「駆逐? ルシウス、周子に魔物と戦わせたのか!」
 カズマがギョッとした声を上げた。
「お前が怒ると思って、黙ってたんですが」
「当たり前だ!」
 キッ、とルシウスを睨んで、カズマは周子の両肩を掴んだ。
 がくがくと揺さぶる。
「周子、私が寝込んでいる間に、一人で魔物退治に出かけたのですか? なんと軽率な。それでその怪我か」
「あたたたた、いた、痛いって、肩。いや、怪我? 怪我はしてないし? 魔物退治とかはむしろ天職、どうせカズマ様がルシウスを王宮に連れ出すんなら、役に立てばと思っただけだし。んもう全然心配はいらな……」
「お一人かどうかは微妙なところですが」
 ぴくり、と周子が肩を強張らせた。
 驚いた周子の瞳を受けて、ルシウスはまたもにっこりと笑った。

「いやあなかなか良い光景を拝見致しました。若い、っていいですね」
「!!」

 さぁっと青ざめたかと思うと途端に真っ赤になって飛び上がり、周子はこぶしを口元にあてて、指の関節を噛んだ。おろおろと目を泳がせる。
 そして、思い至ったように、はた、と手を打った。

「ああ、そう! ルシウス、なんか魔法のかかった望遠鏡を持ってるって、言ってた!」
「ご名答。正しくは魔石を組み込んだ望遠鏡ですが」

 途端、うぎゃーっ! と周子が仰け反るようにして奇声を上げた。

「まことに周子殿は頭の回転が速い」
 ルシウスは周子を誉め。
 キッとルシウスを睨み上げた周子の目には涙が滲まんばかりのひどい羞恥、ルシウスはそんな周子をものすごい勢いで誉めて誉めて誉め称えさんざんに持ち上げると、羞恥と怒りの炎を湛えた黒瞳に戸惑いを巧みに混ぜ込んだ。
 そうして平手の飛んでくるタイミングを見事に外すと、自分は再びカズマの馬車に乗り込み、さあ行きますよ、と勝手に仕切った。
 話の筋が読めぬまま、カズマは馬車へと周子の背を押して促したが、彼女はいきなりよろけるとべしゃっと顔を地面に打ちつけた。
「! あなた、やはり相当無理しているのではないですか」
「誰の所為よダレノ!」
「は、いや、すみません」
 噛み付かんばかりに叫ばれ、あまつさえ地面の土を引っ掛けられ。
「……なんだか分かりませんが、や、八つ当たりでしょうか?」
「は? 八つ当たり? あんたがぶっ倒れるから私がこんな目に遭ってんじゃないのよさ! つーか、何? なんで? ギャランに私を任せられるほど強いじゃなかったの? 強いって誰が、誰様が? よわっちぃな、こンのメガネが! あんたが弱いのがいけないんじゃ!」
 ものすごい勢いで罵倒され。
「……弱いのが悪い、って」
 直球の罵倒に、カズマはさすがにがっくりと落ち込んで。
 ああ結局は話がそこへ戻るのか、私が責められるのか、と溜息を吐いてカズマは一度腰を下ろすと、周子を抱き上げて。
 さっさと運んで行きなさいよ、と命令口調で口をとんがらせながらも、自力で立てないのも自分で分かっているのだろう、素直にこちらの首に手を回してくる周子が、口汚い罵声の勢いとはまたがらりと印象の違う頼りなさで。
 抱き上げれば軽い、女の身体だ。それがなんとも心もとなくて。
 ひどく胸が痛んだ。
「あなたが男だったら良かったのに」
「えええっ!?」
 ナニソレ! と目を丸くして叫んだ周子。
 この女、これほどに気が強く、他人を直球で罵倒してふん反り返っているかと思えば、容易に己の限界を超えて他人に尽くすことがある。その強さと優しさの発露がその時々の気分次第で、実質まるで不安定、欠陥の明らかなその魂に、どうにも手放せぬ不明の怖れを抱いた。

 周子を抱いたまま馬車に乗り込んで。
 抱きかかえたまま、というのもまたルシウスにからかわれるだろうと思って、カズマは自分のすぐ隣に周子を座らせたのだが。
 しばらくして、とすっ、と己の体側に周子の身体の重みがかかったのを感じた。
「……横になりますか? 辛いですか?」
 声を掛けたが、周子は返事もなくがくがくと小刻みに震えるばかりで……寒くは無いはずだが、と思いつつ、カズマは己の上着を脱いで周子の肩にかけると、そのままその両肩を抱きしめた。
「落ち着いて。何をそんなに震えている」
「怖い」
「怖い?」
「疲れた、すごく疲れた、魔力を使いすぎたかもしれない。そしたらなんだか、なんだかもう切なくなっちゃって、タトゥーが乗っ取ろうとしてるのが、分かるの、怖い。ちくしょうタトゥーだタトゥーの所為だ、でも、もうとにかくあの人の腕の中にいたいの、おかしい、私絶対おかしいどうかしてる、タトゥー、解かなきゃ、解かなきゃなんだけどどうしよう、解いたらきっと、あの人は私のことなんて、もうどうでもよくなるんだわ」
 ぶつぶつと呟いて周子はカズマの腕の中で震えた。力なく半目に伏せられた黒目には先ほど勢い良くカズマの頬を打った強さがない。
「周子?」
 言い知れぬ不安がカズマの胸を占める。

 ―――あの人……そんな色めいた呼び方をするな、

「私、一足先に帰る」
「え?」
 周子は唐突にそう言うと、ポケットから赤く透いた石を取り出し、宙に掻き消えた。
 カズマは呆然として。
「……テレポ石……どうして」
「ああ、私が差し上げました」
 けろりとルシウスが言う。
「なんだと!」
 カズマは勢い良く立ち上がり、ルシウスの胸倉を掴んだが。
 ルシウスは、冷酷さすら感じさせる冷静な眼差しでカズマを見返した。
「そうカッカするでない、あの娘は心配要りません、あの娘は王のことが好きですよ、勿論お前のことも。ヘンな意味でなくてね。いまさら自由に泳がせたとて、そうたやすく裏切りを働くような情のない女ではないよ。あれは戦う生き物だ、魔力も非常に強い、まだまだ戦える、心配の要らぬ強さだ。テレポ石で、あやまたず王の下へ飛んでいるはずですよ」
「王の下へ?」
「まあしかし、隷属のタトゥーという呪は大変な力を持っていますね、あんなに気が強いのにひと捻りか。カズマ、お前の名ではないところが、なんとも痛いところですが」
 ズバリ、核心を突かれて、カズマは掴んでいたルシウスの胸倉を離した。
「いえ、ですが心配です、彼女は命を狙われているのですよ」
「冷静におなり。彼女は”直通”で王の下へ飛んでいるのですよ、王の所にいるのならば王が守ってくれるでしょう、あの男はバカで強い」
 彼女を守るのは何もお前だけではないよカズマ、とルシウスは冷静に諭した。
 カズマは、ややしばらくの間沈黙した後、
「……兄上、バカで強い、のではなく、馬鹿に強い、のです。さりげなく悪口を盛り込むな」
 いつもと変わらぬ色と指摘で返した。
 彼なりの定石な考え方ともいえるそれはまさに彼の平静さの提示、ルシウスはそんなカズマの意識的なそれを、はい、とひとつ浅く笑って受け取った。



[tog]87:あの男はバカで強い
Created: 2008-03-13
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